ないしょのひかる
登場人物一覧
千春 ♂
真 ♂
烏龍茶のグラス、氷が溶けて、小さく音を立てる。
夏の空気は濃密で、湿度は高く、とめどなく汗が溢れ出る。額の汗を拭い、手にしたグラスに口をつける。味がしない。氷が溶けて薄くなったからか、それとも五感が麻痺してしまったからか――俺には分からない。ずっと濃い霧が立ち込めているかのようだ。
ただ緩慢に、同じことばかり考え続けている。
松前ひかる。
俺の幼馴染み。
――どうして、自殺なんてしてしまったんだろう。
今日は、通夜だ。アイツの眠る棺から離れた場所で、俺はアイツのことを想っている。
「千春」背後からの声。「そろそろ、帰らない?」
振り向かなくとも分かるが、礼儀として首だけで振り向くと、案の定だった。
小柄で貧弱な体躯。童顔で肌が白く目が大きい。ワイシャツとズボンは学校指定の夏制服。ネクタイだけが黒い。俺とひかる共通の親友である、相良真だ。
「ご焼香終わったんでしょ? もう、やることもないじゃんか」
首を傾げて、手にした乳白色のグラスを掲げる。
「それは?」
「カルピス。おばさんにもらった」
俺と同じ経緯で飲み物を手にしたらしい。
「ん――もう少し、ここにいたい」
「そう」
通夜の会場となった松前家を横目に、俺たちは庭先に生えた桜の木に移動する。
「烏龍茶とカルピスって言えばさ」
ゴツゴツした幹によりかかり、真は口を開く。笑顔がぎこちない。
「混ぜて飲むとカフェオレになるって、中学の頃に流行ったよね」
「……それは、烏龍茶と牛乳じゃなかったか?」
「その時はカルピスだったんだって。甘い方が正しいし強いし絶対だって理論でさ」
ここで、ようやく真の発言意図を理解する。俺は僅かに口角を上げて、相槌を打つ。
「そのアホな理論を提唱したのは、どこのどいつだ?」
「ひかる」
「だよな」
「カルピス原液と麦茶を大量に一気飲みして、口の中でミックスして実験したんだよね」
「結果は?」
「盛大に吐き出してた」
故人は大層なアホだったようだ。
「そのあと、烏龍茶とジンジャーエールでも試したけど、結果は一緒だったっけ」
ジンジャーエールはどこから出てきたんだ。
いずれにせよ、
「女子中学生のやることじゃねェだろ」
「男子中学生でもやらないけどね」
真が苦笑いを漏らす。俺も笑った。
視線の先、遺影のひかるも、満面の笑みを浮かべていた。
ひかるが自殺したのは八月八日の未明だった。
アイツとは小学校からの付き合いだから、ちょうど知り合って十年になる。真とは小四のクラス替えで一緒になったから、およそ六年か。二人とも俺とはまるで違うタイプなのに、不思議と馬が合った。もちろん高校で出来た友人も多くいたのだけど、同じ中学出身の繋がりは強く、何かと行動を共にすることが多かったように思う。トラブルメーカーのひかるは何かと騒動を起こし、俺と真を困らせた。アイツに関係するエピソードは枚挙に暇がない。もっとも、そのどれもが洒落で済まされるような馬鹿話ばかり――だったのに。 まさか、自殺するなんて。
アイツは自分の部屋で首を吊っていたらしい。遺書はなかったが、状況的に他殺の線は考えられないのだと言う。問題は自殺の動機だ。あの松前ひかるに、どんな屈託があったと言うのか。
「……意味、分かんないよね」
手元のカルピスに視線を落とし、ポツリと吐き捨てる。
「お前、何か知ってるか?」
「知りたくないよ。アイツが死ぬほど何かに悩んでたなんて」
「俺は、知りたい」
真の怪訝な表情。構わず続ける。
「俺たちには、知る義務がある。アイツの悩みに気付けなかったのなら尚更だ。何故アイツが突然死を選んだのか、そこに何があったのか――」
「ストップ。その先は言わないでよ」
無視した。
「俺は、ひかるが何で自殺したのか、突き止めたい」
「言わないでって言ったのに、何で言っちゃうかなあ」
「別にいいだろ。決意表明くらい自由にさせろよ」
一瞥する俺を、下から覗くようにして睨めつけてくる。
「自由じゃないってば――聞いちゃったら、僕も協力しない訳にはいかないでしょう? 千春一人じゃ心配だしさ」
忘れてた。コイツは、こういう奴だった。
「で? 具体的にどうする訳?」
「行ってから説明する」
麦茶を飲み干し、俺は桜の木を離れた。
ひかるの部屋は二階の奥にある。
勝手口から台所に入った俺たちは空のグラスをシンクに戻し、忙しそうにしている喪服のおばさんに目礼。その憔悴具合に胸を痛めながら、素早く踵を返す。間取りは完璧に頭に入っている。
板張りの階段は真夏だと言うのにひんやりと冷たく、その冷たさに気味の悪さを感じながら、俺たちは二階の廊下を進む。一番奥がひかるの部屋だ。
「こんなの飾ってたんだ……」
真の声に振り向く。視線の先、サイドボードの上に写真立てが置かれている。夏休みが始まってすぐ、鎌倉の海で撮った集合写真だ。海岸をバックに、左から真、俺、ひかると並んでいて、少し離れてひかると同じクラスの勝浦和美が写っている。和美は高校に入って出来た友人だ。ひかるとはすぐ仲良くなり、俺たちとも一緒に遊ぶことも多かった。入学してからの五ヶ月ほどは、だいたいこの四人で遊んでいたような気がする。
「そういや、和美はどうした?」
「もちろん来てたよ? 焼香したらすぐに帰っちゃったけど」
「薄情な奴だな」
「この場にいたくなかっただけだってば。和美って、あれで結構繊細な男だから」
勝浦和美。
肩まで伸びた天然パーマと濃い二重、薄い唇が特徴的な――見ようによってはイケメンに見えなくもない男である。その実、趣味嗜好はかなりマニアックで、まあ、有り体に言えばオタクの部類に入る人間なのだとは思う。ただ、俺たちとは不思議と馬が合った。人格的にはかなりクセのある奴だが、その知識量は半端ではなく、実生活で役に立たないような知識はやたらと豊富だ。
――なんて、今はそんなことどうでもいい。
「……これだ」
それは、机の上に堂々と置いてあった。
俺の手にすっぽり収まるサイズの、薄い板。
だけど現代人には必須アイテムとなった、最新端末。
賢いと冠された携帯端末。
俺はそれを、ポケットへと収めたのだった。