第4話 とりあえず修行が始まりました
雨花学園の生徒たちの訓練が始まってから既に一週間が経過していた。現在生徒たちは、一人の例外なく基礎体力の強化の為に、長時間ランニングを強いられていた。
ある程度の体力が無ければ天使と戦う事も出来ない。
そんな至極当然な理由の元にだ。
「ぜえ、はあ、し…死ぬ…」
「も、もう無理…帰りたい…」
「汗で肌が荒れるじゃないのよ…」
と、男子も女子も全員愚痴を零しながら汗だくになっている。
しかし、ここで彼らはこれでも既に五時間近く走りっぱなしなのだ。つまり、僅か一週間で五時間以上走り続けられるだけの体力を手に入れたという事になる。
圧倒的な成長速度とポテンシャルの凄まじさ。
これが異世界人の凄さというわけだ。
「凄いですね…。異世界人というのは…」
ミレーユは、大きな木をくり抜いて作った自然の塔の最上階から、自らが召喚した者達の成長速度に舌を巻いていた。
古代の文献により、異世界人は凄まじい存在だとは知っていはいたが、まさかこれ程とは思わなかった。
「はい。拙者も彼らの成長速度には恐怖すら覚えます」
ミレーユの隣にいるのは、異世界人の教育係であるジン=グルズだ。エルフの中でも指折りの戦士で、遠距離戦闘を得意とするエルフの中では珍しく近接戦闘もこなすオールラウンダーなのだ。
「姫様、その中でもあの十人は別格です」
ジンはそう言って、ランニングが始まった時から一切速度を落とさず走っている集団を指差した。
「はい、気付いています。空様に遥様、あとは…陸斗ですね」
空の名前を呼ぶときだけ少しだけ頬を赤らめたミレーユ。正に恋する乙女というやつだ。
そんなミレーユに内心で苦笑しながら、ジンは再び集団に視線を向ける。
前から一条空。そのすぐ後ろに出雲遥。次に男子の瀬野宮蓮、男子の藤崎徹、女子の神保真央、男子の三上智也、女子の藤堂楓、女子の金本莉子、女子の鬼塚凛、最後に逢坂陸斗となっている。
ミレーユは想い人である一条空に夢中だが、ジンは逆に、一番後ろで走っている逢坂陸斗に興味を抱いていた。
(あれだけの時間、あれだけの距離を走っていながら全く汗をかいていないとは…。拙者から見ても天才と思わせる一条空でさえあれ程の汗をかいているのにも関わらず)
ジンは抱く。
疑問と畏怖を。
そもそも、逢坂陸斗は不気味過ぎる存在だった。
理由は単純。ジンが陸斗の実力を一切見抜けなかったからだ。
これでもジンは数多の修羅場を抜けている。その中で培われた危機察知能力と、相手の実力を見抜く力は、誰にも負けない自負がある。そんなジンを以ってしても、逢坂陸斗は「得たいの知れない存在」という認識でしか捉えられない。
(まあ、彼が何者かは今はどうでもよい。今は…)
ジンはミレーユに向き直る。
「姫様。明日からあの十人に関しては別の訓練を行った方がよろしいかと」
「そうですね…。では明日から彼らには別の訓練をお願いします」
「かしこまりました」
そう言って、ジンは頭を下げる。
結局陸斗を含めた十人は、夕方になるまで走り続けた。その時間約9時間。走った距離は、130キロを超えるというとんでもないものだった。
***
その日の夜、陸斗は、エルフの里の中で、最も高い木に作られたベランダに来ていた。
手にはエルフが愛飲するクルカの実の果汁100%のジュースが握られている。異世界の食べ物は、陸斗が予想していた以上に美味しいものばかりで、その点に関しては正直かなり嬉しい思いをしている。
「にしても、この世界にも風呂があるとは驚きだよなー」
ミレーユから話を聞いた所によると、エルフは非常にきれい好きな種族で、現代人のように基本的に毎日風呂に入るのが習慣らしい。
そして陸斗もその風呂を毎日堪能しているというわけだ。今も、風呂からあがったばかりで、肌が少しだけ赤くなっている。
ちなみに今の陸斗の服装は、エルフが普段日常的に来ている服装だ。ウールで作られたズボンに、同じくウールで作られた七分丈のシャツ。そして靴はサンダルに酷似したものを履いている。
こうして見ると、いかにも中世ヨーロッパ風の服装のように思われるが、この世界の服飾や、靴の技術は決して低くはない。素材も、地球にはなかったものが沢山存在している。それは魔物が存在するからなのだが、今は置いておく。
ふと、陸斗の後ろにある入り口が開き、そこからミレーユが現れた。
「どうした?お前も夜風に当たりに来たのか?」
陸斗は少しだけ笑いながらそう言う。
既に陸斗はミレーユとかなりの仲になっていた。といっても純粋な友情関係という意味でだが。
「ふふ。そうですね。最近はあまり眠れないので」
「それは一条空の事でか?」
陸斗がストレートにその名を口にしたので、ミレーユは分かりやすいくらいに赤面した。どうやら完全に図星だったらしい。
「うぅ~、そ、そうです…」
少しだけ拗ねた表情をしながらそう言うミレーユは、並の男だったら一撃でノックダウンしてしまいそうな凄まじい魅力がある。
さすが遥以上の美少女という評価を学園の男子から授けられただけの事はあるなと、陸斗は感心する。
「そうか。でもあいつは敵が多いぞ?」
と、ニヤリと笑う陸斗。
「そ、そんな事は陸斗に言われずとも分かっていますっ。空様はとても魅力的なお方ですから」
ウットリしながら呟くミレーユに、陸斗は苦笑しか出来なかった。
(あいつは一体どれだけの女を惚れさせれば気が済むのかね?)
内心で呆れながら、手に持ったジュースを一口飲む。
そんな陸斗を眺めながら、ミレーユは意を決したように喋り出す。
「あ、あの!陸斗にお願いがあるのですがっ!!」
「面倒だからパスでお願いします」
速攻で却下する陸斗。
「あう~…って!まだ内容言ってないではありませんかっ!!」
余りの態度に、ミレーユは頬を膨らませて抗議する。
そんなミレーユを面倒臭そうな目で見つめる陸斗。
「言わなくても大体分かるわ。一条空と相思相愛になれるように協力して欲しいんだろ?」
「な、なな何で分かったのですかっ!?」
「お前が分かりやす過ぎるからだろうが。ちなみに協力は却下する」
「り、理由を!理由をお聞かせ下さいっ!!」
てっきり陸斗は即座に協力を約束してくれると思っていたミレーユにとって、これは予想外の事態であった。
せめて理由を聞きたいと思うのは至極当然の事だろう。
「理由は簡単だ。俺が一条空の事を嫌ってるからだ」
「えっ…?」
その答えは、ミレーユにとって衝撃で、予想外過ぎるものだった。
確かに陸斗と空が仲良くしている所をミレーユは見た事がなかった。だけど、それでもミレーユは思っていたのだ。陸斗と空は何だかんだでお互いを信頼しているのだと。
「ほ、本気で言ってるんですか…?」
ミレーユは言い知れぬ恐怖感に身を震わせながら、必死にその言葉だけを紡ぎだす。
陸斗が言い放った「嫌い」という言葉が、決して冗談の響きをしていなかったからだ。まるで心の奥底から絞り出される本気の嫌悪が、そこには込められていた。
「ああ。本気だ。…別に理由なんてないぞ?ただ俺があいつを生理的に受け付けないだけだ」
「な、なんで…。あんなに素晴らしい人なのに…」
ミレーユは信じられないと言わんばかりに表情を困惑と、陸斗に対する失望で埋め尽くしていく。
先程までの友好的な態度が嘘みたいに瓦解していくのを感じながら、陸斗は思わず苦笑する。
「お前、良く出会って一週間の男にそこまで傾倒できるな」
明らかにその言葉には侮蔑が込められていた。
いかに温厚なミレーユでも、自分と、そして自分の恋心をバカにする目の前の男に対して、一気に怒りが湧き出てくる。
「なっ!?それは貴方には関係の無い事ではありませんかっ!?別にわたくしが誰を好きになろうとも問題無いでしょう!?」
気付けば大声で怒鳴っていた。
自分でも驚く程、大きな声が出た事に、ミレーユは驚いたが、何故かそれを陸斗に悟られたくなくて、必死に押し殺す。
「確かに関係は無いな。でも俺はあいつが嫌いだ。割と…というか本気でな」
その言葉を聞いて、ミレーユは完全に陸斗に失望した。まさか目の前の、初めて自分の友達になった人が、理由もなく人を嫌いになる人だとは思わなかった。いや、思いたくなかった。
しかもよりによって自分の想い人をだ。
「…貴方は…悲しい人です…」
ミレーユは踵を返す。
無言で歩き出し、立ち去る間際、小さく―――。
「…やっと友達が出来たと思ったのに…」
ミレーユは小さく、本当に小さく、そう呟いた。