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閑話 彼の不振はいつもから外れた過去のこと

シリアス続き~。

さあ日常生活に戻ったぞ!……なんて切り替えが出来るほど人間で来てませんですよ、標葉さんは。

ということでーGO!

「えーでは、朝集会をはじめ――」

 カチャッ

 扉は開かれた。そのことにより幕開けの言葉も尻切れとなり、そこにいる生徒・教師たちの注目がそこに向けられる。

 静かに入ってくる生徒は明らかに不良と思われるような容姿だった。しかし、この学校は校則が緩いために指摘できない、と歯噛みする教師たちはこの状況に喜ぶ。遅刻してきたのだ。堂々と生徒指導に持ち込み、彼らの姿勢を根本的に強制(かえ)てしまおうと企みが膨らんだ。

 それは柏木標葉だった。


 真っ先に注意をしようと入り口傍の教師が声をかけようとするが、標葉にはそれが見えていないかのようにその軌道がズレていく。向かった先は彼の担任。

 指摘するためのお鉢が回ってきたのでこれ幸い、と担任は勇む。が、

「まっちゃん」

 逆に呼びかけられた。

 そして至近距離で立ちどまって手を伸ばされた。


 「まっちゃん」という呼び名は気に食わない。馴れ馴れしい。だが問題はそこではない。もちろん至近距離で拝められた柏木のその顔でもない(少し顔がいいからっていい気になるな、といいたいぐらいだ)。けれど、そんなことを思っていても身体は体温が上昇する。

 白く細やかな柏木の手は伸ばされ、ゆっくりと首に近づく。

 何をされるのだ?俺は。もしかして、もしかしてなのか?やられちゃうのか?こんな大勢の前で、“生徒の集まる朝集会で生徒が教師に暴力!”とか新聞に大きく載っちゃうのか!?有名人になっちゃうのか!?……いやいや、嬉しくないぞ。新聞に載ってもそれは醜聞だからな、逆に風評が悪くなる。けれど、そんなことになったら是非写真を取る際は声をかけてくれ。きちんと装いを正す比梅雨尾があるのだよ、こちらには。

 つらつらとそんなことを思考に流しつつも身体はメデューサにでも魅入られたかのように動かず、ただ柏木のことを見ていた。そして相手も同時に己よりも低い背で、長い睫毛が縁取る瞳が見あげていた。二人だけの世界、とでも勘違いしそうになる思考にノイズを混ぜるようにして思考の方向性を変える。息の感じられるほどの距離というにはまだ少し遠い。けれどもその息はどんなだろうか。花の香りでもしそうな華やかな容姿をしている。甘やかな香りがしているのは柏木が甘いもの好きという噂を「まっちゃん」の中で強固にする。可憐な唇から小さく洩れる息はどうしようもないほどの艶やかさが感じられて、衝動的にほっそりとしたその身体に手を回してしまうことを考えさせる。

 手を伸ばせばすぐに届く距離、腕の中に収め囲い込んでしまうことも可能だった。


 その行動は時の流れに従っていて、実に明快に、はっきりとした動作であった。俊敏でもなんでもないそれに、けれど誰もが一挙一動に注目していた。何がされるのだろう、何が起こるのだろう。そんな好奇が空気に流れる。皆が静観して見守る中、しゅるっと解かれるネクタイ。――ネクタイ?

 疑問は彼だけではなかっただろう。場違いに過ぎる。

 しかし次の言葉で理由はすぐにわかった。

「曲がってるよ、ネクタイ」

 何気ない風に言って、きちんと巻き直す。

 呆然だった。皆が未だに静寂を保つ。



「はい、ちゃんとできた」

 太鼓判を押すように標葉はその部分をぽんっと叩く。

 

 何故か反応ははっきりしない。ぼんやりとしているというか、唖然としているというか。

(そういえば、他も静かにしてる……)

 首を傾げた。

 あれ、もしかしてさぁ、この雰囲気――

「遅刻しちゃった?」


 標葉が口に出してそう問いかけて、ようやく事態は動く。凍ったように動かなかった世界が、人々が、凍った大地が春の最初の洗礼を受けるがごとくして徐々に解け始めた空気。一番に回復した誰かが言葉を紡ぐ。

「っそ、そう――」

「いいえ。ぴったりですよ」

 柏木の言葉に肯定しようとした「まっちゃん」はいきなりマイクから割り込まれて二の句が告げなくなった。生徒の注意も一斉にそちらを向く。その先、立っていた人物は、そこにいるべき人物で、誰もが今何をすべきかを思い出す。

マイクを握る生徒会長。彼は「ほら、」と壁に設置された巨大な時計を指してみせた。


 カチッ

 それはちょうど30分に鳴った。設定された機械的な擬似チャイムが鐘と称して拡声器から洩れる。この体育館に関わりのある全ての者が集まっているというのに、全校舎に流される。それは無駄遣いだろうか、それともご近所への何らかのアピールかもしれない。毎日同じ時間に鳴る音というのは往々にして好き勝手に合図へと変更されるものだ。特に主婦の間ではその音で何かを判断し、家事の全てを止めて慌しく家を出るためへと動きを変更させるかもしれないし、朝食タイムだとこれまでの行動を一時中断して寛ぎへと空気を動かすかもしれない。もしくはさあ二度寝だ、と開き直る者もいるかもしれない。――そんな鐘音。


「では、集会を始めましょう」


 生徒会長が笑顔で促し、皆が直った。興味は既に自分から逸れてしまって、今までと同じ、何処にでもいる無価値で平凡な自分が、誰にも注目など受けよう筈もないしょぼい自分がやってきたのを自覚した「まっちゃん」は、最後に仕方なく、標葉へと声をかけるのだった。

「今度からは五分前に来るように」

 しかし小さく、注意というよりもアドバイスのような具合に。

 なんたって彼は怖かったのだ、生徒会長が。今期の生徒会長は始終笑顔でいるくせに手腕は優秀。笑顔で切り捨てられる恐怖というのを味わったのはこれが初めてだった。笑顔のプレッシャー。無言の圧力。どんな言葉にしても、結局は同じことだった。



   ***

「なあ、今日どうしたんだ?」

 豊の問いに最初、標葉は答えようとはしなかった。だが援護するように香寿が言葉を繋げる。

「遅れるならもっと遅れてゆっくり来ますしね」

「……あんまり、眠れなくて、歩いてたらなぜか遅れた」

 フラフラと。

 そんなことを思って、けれど思い至った。そうだ、昨日自分は香寿や豊になんと言ったか。ぎこちない態度を取った二人に、豊に罠を仕掛けてけしかけて、香寿に後押しするようにして声かけて。――今朝会った二人はどんな風だっただろうか。

 いつもは三人の道を、二人で歩く。しかもタイミング的は、豊が独占宣言をしてしまった後だ。一番もどかしい距離で、ハニカミと気恥ずかしさと、どうにも煮え切らない相手の態度。そんな思いを二人は抱えて、二人で登校した。

 ……見たかった。さぞ面白かっただろう。

 二人の後ろを下手な尾行でもしただろう。恥も外聞もなく、二人にばれていると分かりながら、つけたはずだ。もしそうならば、ギャグで済ませたかもしれない。空気に少しながら緩やかなものが流れ、二人の距離はぐっと縮まるだろうはずだった。


 けれども現実は違う。

 実際には、二人は甘い雰囲気ながらも、姿の見えない標葉に疑問と、今日は寝坊で遅刻だろうかと考えながら、けれど嫌な予感を感じていた。

 遅れて来た標葉は完全にいつもとは違っていた。他の誰にわからなくとも、二人には分かっていたのだ。タイミング的に全く予期しなかった時に訪れた標葉はいつもより、ぼんやりと、現実を見ていなかった。深い悩みでも抱えているのか、地に足を着けていないかのようにふわふわとしている。前を見ているようで、どこか遠くを見ている。――そんな標葉をほっとけない気持ちが強く出て、二人からは昨日の事柄が頭から吹き飛んでいた。

「悩み、あるなら聞くよ?」

 香寿がそう言って気遣っても、普段を装うばかりの標葉に、豊は以前のことを思い出した。

「“あの時”みたいに変なことに巻き込まれてるんじゃないだろうな?」

 それは核心で、確信だった。


 ガタ――ッ

「し――」

「ごめん、一人にさせて」

 突然、弾かれたように椅子から立ち上がった標葉は、逃げた。その背が、豊の疑問を肯定しているようで不安だった。香寿が横で息を呑んだ。顔を見れば蒼白だ。信じたくないのは、同じだった。あの時から、時が経ったとはいえ、何かが起きるには余りにも短い。ぞわぞわと背筋を這い登る暗い闇の感覚に、豊は固く拳を握る。まだ、事件が終わっていないことは、知っていたのに。終わるはずのない、始終付きまとう事だと知っていたのに。

 ――標葉は特別なのだ。


「豊――」

 微かに唇を震わせ、豊に呼び掛ける香寿。握り締めて真白になった豊の手を傷つく前に、そっと冷えた手で包む。震えは伝わる。二人が考えていることが同じなのだと、伝える。二人の脳裏には以前の記憶、“あの時”と暈かした時の記憶が蘇っていた。

 絶対的な力の差が恐怖に変わった瞬間だった。生死の境目を辿ったアレは、けれどほんの数時間の出来事でしかなかったはずなのだ。――命のやり取りなんて、それが初めてで。

「香寿。俺たちも、授業サボろっか」

 肯くことしか出来なかった。豊は提案通りに行動する。香寿の手を逆に包み、引っ張って教室を出た。入れ替わりのようにして担任が教室に入るが、そんなのはもう気にしない。優等生として通る香寿も今回だけでなく、二人に連れられサボったことが幾度かあった。向かう場所は、――やはり屋上。


 標葉がいることを承知で、それでも話しかけることなく、三人で並び、そっと手を繋ぎあった。それぞれが記憶に意識を飛ばす。標葉は眼を瞑っていた。

「夢を見るんだ」


「変な夢で、小説とか漫画とかにありそうで、すごいリアルで」

 まるで生きているようで。自分の夢で、なのに知らないことがいっぱいある。ご都合主義なんて存在してなくて、自分の知らないところで勝手に物語が進んでいる。彼らには自分の知らない人生があって、それを積み重ねて今がある存在なんだって――気づかされて、そう思わされて。“それは夢じゃない、現実だ”――そう常に言い聞かされるようなものだった。

「だから、勘違いしそうになる。現実だって。ファンタジーが本当のことだって。ずっと、訴えるようだから、間違えたくなくて」

 間違えては駄目なのだ。

 それは夢でなくてはならない。今が今であるためにも、それは現実ではいけない。


「それだけ」

 言葉はそれでおしまいだった。これ以上、語ることもない、と身を起こす。開けた視界に赤い燃えるような光が入ってきて、一瞬身体が震える。それは眩しさのせいだ、と理由付けて、血のように真っ赤な空から視線を逸らした。冬の気候へと移ってゆく空気に身体を抱きしめた。

「偽物だよ」

 その背に、暗いような、真剣なような、どっち着かずの声音で香寿が投げた。

「本当じゃないって思うなら、それは本当じゃない。標葉は自分を信じたら良いんだ」

 それは、香寿が二人に出会う前、自分に言い聞かせるように言っていた言葉だった。受け入れたくないのなら、それは現実じゃないと拒否すればいい。自分しか知らないことならば、それは夢で終わるのだ。誰も知らないことをわざわざ現実化することはない。辛いことならば、なおさら。――そうして見落としてきたものはいくつあるだろうか。

「でも、少しでも現実と認めてしまうなら、それは本当なんだよ……」

 それでも、それでなければ自分は自分を保てなかった。香寿は後悔など欠片も持っていない。いや、全て、受け入れてしまった。あの頃には夢であったけれど、今にはもう、昇華した。

 記憶は消せない。だからこそ、認めた。現実として、そうすることで出会えたことがある。そうすることで見えてきたものがある。今の標葉にはそれが必要なのだ。今はまだ、そっとしておけばいい。いつか、拒絶しない日が来るはずだから。

「俺は、今が好きだ」


「だから、認めない。今を壊すものは、認めたくないよ」

 頬にポツ――、とまるで涙のように落ちる雫。秋空は真っ赤な夕日を掲げ、雲はどんより雨を伴った。それに手を伸ばしかけたところで


《神が来た》

 ――物語は急速に幕を閉じ始めた。

 幻聴とは言い切れないそれに、屈せざるをえない見えない力に、いっそ冴え冴えと、現実が降りかかる。身体が下降する感覚に、瞳に映った二人の驚愕するような表情。ぐちゃぐちゃな心を持ったままの標葉を引きづっていく。もう、誰にも止められない。

 どれが本物でなにが偽物なのか。判断のつかない事柄はこの世界に数多散らばっている。曖昧として、人によってことなるもの。認識の違い。情報量の違い。そんなことから来る。だが、

 ――それは本当に夢なの?

 地面に落ちた雨は次第に早足に、深い闇色へと染め上げていく。そして標葉の心にも、疑問は水が染み渡るが如く、広がっていく。


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