閑話 昔事
過去に迫りまっす!
「ねえ香寿。私ね、思うの。何でアンタが標葉さんたちといつも一緒にいるのか」
唇に手をあて、ほんの少し首を傾げる。そんな動作の似合う子だ。
「 っ」
サラリと揺れる髪に、ピンクの綺麗な爪。派手な化粧をして異性の気を引こうと必死な同級生たちとは一線違う、綺麗な存在。お高く留まっているわけでもなく、その性格はただ、純粋に――歪んでいる。
笑顔で殺戮を犯す殺人鬼。無感情に狂気を振るう犯罪者。――神前玲菜とはそういう存在であり、香寿にとっては絶対的な存在だった。
刷り込みのように恐怖を刻まれ、逆らえない存在へと何時しか変わっていた。彼女の笑顔が、恐れを引き立てる。
「ねぇ、――香寿?私、わからないんだぁ……君があの二人の傍にいて、私は違う。どうしてなのかなぁ?」
「――っあの、ふたり、は……やさしく、てっ!だから――っ」
カツ、と靴の音が鳴るのに紡ぐ言葉を忘れた。震える唇は何の音も出さない。
「私、標葉さんが好きよ?豊さんだって。カッコイイし、何でも出来るすごい人たちなの。女の子はみんな憧れてるの」
紹介、してくれるよね――?
お願いの言葉はけれど、真実命令だった。香寿には酷薄に聞えるそれに背筋が空寒くなる。
「……はい」
頷く以外、なかった。
放課後の教室。いつものように男たちに嬲られ、彼女の前に引き出された。彼らは今も帰ることなく、この部屋の外で見張っているのだろう。そんなことは幾度も繰り返された日常の一コマでしかない。
標葉たちがあの時助けてくれたとしても、その後話す時間が時々出来たことも、この日常に変化を与えない。二人と出会う前から行われてきた事は、身に染み付き、香寿に慣れさせた。暴力を振るわれ、脅される。逆らえない状態で笑顔を正面に実行する選択しか用意されない。そんな事は当たり前で……優しくされたことが辛かった。優しくされたからこそ、辛くなった。現状から逃げ出したくなった。そんな無理な願いをするから、こうなる。二人に迷惑をかける。
「今日は二人に紹介したい人がいるんだ」
「神前玲菜です。これからよろしく」
「香寿は趣味以外に疎いし気も回らないでしょ?だから心配だったの。新しい友達なんてそんなにすぐできるのかなって」
「二人がいい人で、ほんとによかった」
「……俺は香寿が気にいってるから心配ないよ」
標葉の言葉には棘がある。それはいつも無口な標葉が口を開いたことも、その不器用なものいいから来るものでもない。明らかな、棘。それはもしかしたら、気のせいなのかもしれなかったけれど、彼女はそれを感じ取ったはずだ。一瞬の硬直、貼り付けられた笑顔で言葉を返す。
「――そっか。豊くんも?」
「まだ、あんまり知らないから。どうとも」
濁す豊にふぅん?と意味深な感想を抱く。それは警戒と、愉悦。
そうして僕の日常は彼女に蹴散らされるだけだった心に安堵と平穏を、そして再びの曇天を得た。標葉と豊。二人の間に歪に入り込んだ自分と、その傷を広げるように入った玲菜。
――それがどのくらい続いたか。実際にはほんの少しの期間にしても香寿には長い時だったのは違いない。四人はそのまま納まっているかのように見え、どこか不調和だった。だからこそ、限界は――三ヶ月。
その後に、あの事件は起こった。
「関係ないよ」
標葉の言葉に回想へと向かっていた思考が現在へと切り替わる。
それは隠し事も嘘をついているようにも思えない声音。しかし、それが完全なる無関係だとも思えない。彼女の事件は必然と偶然の重なり合った――標葉の特異体質によって起きたもの。
彼女は豊を手に入れようとして、僕を無力化して、そしてその影で協力していた男。
「“魔術師”は?また、狙われてるの――その、標葉の」
「……魔力」
一瞬音が止んだ。
標葉は発言を悔やんだ。明確に口にすることの、その本当の意味。それは認めることだ。
「非、現実的。でも、それが本当のことだって、俺たちは知ってるんだ」
信じるよ、と豊は言った。どんなに荒唐無稽なことでも。
「僕たちの日常はとても脆く、壊れやすい」
そうだ、あの時、標葉は――知った。
現実は危うい。そのすぐ隣で、危険があることに気付かず皆生きている。
この学校の生徒たちは、知っているだろうか。ニュースを見て、テロが起こるようにそれが自分の身に降りかかることを。新聞に犯罪者が載って、それが自分の顔になる可能性を考えない。思考は停止し、自分との隔たりを造っている。
けれどそれは無意識なる逃走の果てであり、本能的な無理解だ。すぐ隣にある可能性を考えること、可能性でしかないことに怯えることのどこが幸せか、生か。だから人は直ぐに見落とす。そして標葉も、豊も、香寿もそうだった。
標葉は特別だった。けれどそのことに気付かず過ぎていた。けれど平和は砂上の上にしかない。突然やってきたそれは、壊していく。“魔術師”――そう名乗った嵐は、“魔力”を求め、標葉の元へ来た。
「そんなはず、ないのに――」
「標葉?」
標葉はいつのまにか俯いていた顔を上げた。
「俺――信じたくない。けど、否定も出来ないんだ」
泣き笑いのような顔で、途方に暮れた子供のように、そっと呟いた。
まるで大切なものなのに、認めたくはないというように。
香寿は手を伸ばす。握り締めた掌をそっと包み込む。
あの時、彼女から解放してくれたのは標葉だった。だから、今度は標葉を解放してあげたい。標葉を縛る、その現実や非現実から、救ってあげたい。
「しん――」
フッ――と薄くなる感触。確かにあったはずの体温が、けれど、目前で掻き消えた。存在がなくなってしまったかのように、さっき会えたばかりだというのに、その存在は希薄に、――標葉はいなくなった。またしても、突然。目の前で。
(手は、きちんと握り締めていたのに。ちゃんと、触っていたのに――!!)