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無料の妻は、本日廃業いたしました

掲載日:2026/09/23

無料の妻は、本日廃業いたしました


 夫の拓也が「話がある」と言ったのは、夕食の味噌汁が冷め始めたころだった。焼き鯖の皮にはまだ脂が浮いていたが、拓也は箸をつけず、食卓の端へスマートフォンを置いた。画面には、段ボール箱に囲まれて笑う義妹の由佳が写っていた。


「由佳、離婚することになった。来週、こっちへ戻ってくるから」


 私は大根の味噌汁を一口飲み、椀を盆へ戻した。由佳が夫と別居していることは知っていたが、私へ連絡は一度もなかった。拓也は焼き鯖の身を大きく崩し、醤油を足してから、ようやく本題を口にした。


「庭の離れを空けてやってくれ。お前、あそこで帳簿をつけてるだけだろ。寝る場所くらい作れるよな」


 離れは、私が経営する小さな翻訳会社の事務所だった。六年前、取り壊されかけていた古家を私の父が買い取り、母から相続した預金で改修した。断熱材を入れ、床を張り替え、本棚と仕事机を置き、取引先の機密書類を保管する鍵付きの棚も設けている。


「由佳さんは、いつまで住む予定ですか」


「そんなの、落ち着くまでに決まってるだろ。家族なんだから期限なんか聞くなよ」


 拓也は鯖の小骨を皿の端へ寄せ、面倒そうに眉を動かした。


「家賃は、いくら負担してもらいますか」


「家族から金を取る気か?」


 拓也は箸を置いた。由佳が使う部屋の光熱費も、風呂も、洗濯機も、私が払うことになる。そのことを指摘する前から、彼は私が何を言うか分かっている顔をしていた。


「家族同然の助け合いだろ。由佳はいま大変なんだ。お前には仕事もあるし、この家もある。少しくらい譲ってやれよ」


 この家がある、と拓也は言った。この家の固定資産税を誰が払い、屋根の修繕費を誰が用意し、壊れた給湯器を誰が交換したのか、彼は一度も確認しなかった。結婚して八年、拓也が毎月入れている生活費は五万円で、それも給料日前になると二万円ほど返してくれと言われた。


 以前の私なら、台所の引き出しから領収書を持ってきただろう。昨年の固定資産税、雨どいの修理代、由佳が三か月泊まったときの水道料金。数字を一つずつ並べ、せめて事実だけは見てほしいと、夜中まで説明したはずだった。


「分かりました。離れは空けます」


 拓也は肩の力を抜き、冷蔵庫から缶ビールを出した。


「最初からそう言えばいいんだよ。お前も、やっと家族ってものが分かってきたな」


「ええ。かまいませんよ」


 缶を開ける音が台所に響いた。拓也は上機嫌で由佳へ電話をかけ、来週の土曜日なら引っ越しを手伝えると話し始めた。私は食べ終えた皿を重ね、流しの油汚れへ洗剤を一滴落とした。


 翌朝、私は離れの机で革表紙の手帳を開いた。予定欄には取引先との打ち合わせが三件並び、その下に、赤いペンで二つの名前を書いた。不動産会社の大橋さんと、大学時代の友人でもある弁護士の佐伯さんだった。


 この家と離れは、どちらも私の単独名義である。父が買い取った土地を私が贈与で受け、その後の改修費も私の口座から支払った。拓也は結婚当初、この家を「古いし駅から遠い」と嫌がっていたが、家賃が要らないと知った途端、ここを自分の実家のように扱い始めた。


 私は五年分の通帳、クレジットカードの利用明細、修繕費の領収書を机へ並べた。毎月の食費、電気代、通信費、火災保険料、自動車税、拓也の母へ送った仕送り。拓也が一昨年、趣味のバイク用品に使い込んだ共同口座の八十六万円についても、日付と金額を表にした。


 数字は声を荒らげなかった。泣きもしなければ、言い訳もしない。私が何度説明しても「細かいことを言うな」で消された年月が、白い紙の上では一円単位まで残っていた。


「同居をやめるだけなら、今日にでも可能よ」


 午後、書類を確認した佐伯さんは、老眼鏡を外して机へ置いた。窓の外では、庭師が刈った金木犀の枝を軽トラックへ積んでいた。切られた葉の青臭さが、少し開けた窓から離れへ入ってきた。


「ただし、拓也さんを力ずくで追い出すのは駄目。この合意書に従って、使用貸借の終了を通知しましょう。三年前の使い込みのあと、拓也さん自身が署名している。再度の無断引き出しがあった場合は、立替金を清算し、あなたの求めに応じて退去するという内容ね」


「先月も共同口座から四十万円が消えています」


「妹さんの引っ越し費用でしょうね。振込先も確認できている。十分です」


 私は署名済みの合意書を透明なファイルへ戻した。三年前、拓也は文面をほとんど読まず、「これにサインすれば、もう小言を言わないんだな」と笑って印鑑を押した。私が黙ったのは、彼を信用したからではない。次に同じことが起きたとき、説明を繰り返さずに済むようにしただけだった。


 離れの荷物は、四日で運び出した。取引先の資料は駅前に借りた新しい事務所へ移し、本棚と机も専門業者に頼んだ。拓也は空になっていく部屋を一度だけのぞき、「由佳のために、ずいぶん張り切ってるな」と笑った。


「カーテンくらい残してやればいいのに。あいつ、金がないんだから」


「私の会社の備品ですので」


「相変わらず細かいな。まあ、部屋を譲っただけ進歩したけど」


 私は返事をせず、窓枠にたまった埃をぬれ雑巾で拭いた。机の脚が置かれていた場所だけ、床板の色が濃く残っている。最後に鍵付き棚の中を確かめ、窓を閉めた。


 土曜日の午前十時、白い引っ越しトラックが門の前へ止まった。由佳は大きなサングラスをかけ、運転手へ次々と指示を出していた。段ボール箱には「衣類」「美容器具」「食器」と書かれ、最後に大型テレビと白い化粧台が運び出された。


「お義姉さん、助かりました。お兄ちゃんから聞きましたけど、家賃はいらないんですよね」


 由佳は離れの扉を開け、何もない室内を見回した。


「狭いけど、しばらくなら我慢します。冷蔵庫と洗濯機はあとで買ってもらおうかな」


「誰にですか」


「お義姉さんに決まってるじゃないですか。ここ、会社の経費で落とせるんでしょう?」


 玄関から出てきた拓也が笑った。


「由佳、あんまり欲張るなよ。まずは寝る場所だけでも感謝しろ。美紀も、ようやく家族の助け合いを理解してくれたんだから」


 私は母屋の居間へ二人を案内した。磨いたテーブルの中央には、二組の鍵と、青いファイルを置いてある。台所の冷蔵庫は空にし、食器棚には拓也が独身時代から使っている欠けた茶碗と、景品でもらった皿だけを残していた。


「おい、何だよ、この部屋」


 拓也はテレビ台のなくなった壁を見てから、押し入れを開けた。私の衣類も布団も消え、奥に段ボール箱が一つ残されている。中身は拓也の釣り道具と、洗わずに積まれていた作業着だった。


「離れを空けるために、荷物を運び出しました」


「母屋まで運び出してどうするんだよ」


「こちらが退去通知書です」


 私は青いファイルから一枚目の書類を取り出し、拓也の前へ置いた。続いて、五年分の立替金清算書、共同口座からの無断引き出し記録、三年前の合意書の写しを並べた。


「退去って、誰が」


「あなたです」


 由佳がサングラスを外した。外では引っ越し業者がテレビを台車に載せたまま、運び先の指示を待っている。


「相談ではありません。名義人からの退去日の通知です。三十日後までに、母屋と離れの両方を明け渡してください」


「ふざけるな。ここは俺の家だぞ」


「登記名義は私です。固定資産税も修繕費も、私が支払っています。あなたには結婚中、無償で使用することを認めていただけです」


 拓也は清算書をつかみ、最後の合計額を見た。四百八十七万六千二百円。共同生活に通常必要な費用まで請求した数字ではない。拓也の個人的なバイクローン、母親への無断送金、共同口座から消えた金、私名義のカードで購入した釣り具、そして合意書で返還を約束した立替金だけを積み上げた額だった。


「夫婦だろ。こんな金を請求できるわけないだろ」


「夫婦だから請求しないと、誰が決めたのですか」


「家族なのに金を取る気か。お前だって、家族同然の助け合いだって納得したじゃないか」


 私は、由佳の荷物が積まれたトラックを窓越しに見た。運転手は腕時計を確認し、助手席の男性と話している。待機料金も発生しているのだろうが、それを私が心配する必要はなかった。


「その家族に、私は含まれていなかったのでしょう」


「何を言ってるんだ」


「あなたが守る家族は、お母様と由佳さんです。私は二人へ住居とお金を提供する人でした。『家族同然』というのは、家族ではない相手を無償で働かせるときに、あなたが使う言葉だったのでしょう」


 由佳が、離れの鍵をテーブルへ投げた。


「私、こんな話は聞いてません。離婚したばかりの妹を追い出すなんて、ひどくないですか」


「私は、由佳さんと同居する約束をしていません」


「さっき、かまわないって言ったでしょう」


「離れを空けることは、かまわないと申し上げました。あなたに無償で貸すとは、一度も言っていません」


 拓也がテーブルをたたき、鍵が小さく跳ねた。


「離婚なんて認めないぞ。勝手に出ていって、俺を困らせるつもりか」


「認めるかどうかを、あなた一人で決められる段階は終わりました。協議に応じなければ、調停を申し立てます。今後の連絡は代理人を通してください」


「俺の飯はどうするんだ。洗濯は。来月の母さんへの仕送りはどうなる」


 冷蔵庫の作動音だけが、何もなくなった台所から響いた。私は残していく鍵を指先で拓也の前へ押した。


「どうぞ、ご自慢の家族だけで助け合ってください」


「美紀、お前、いつからこんな冷たい女になったんだ」


「冷たくなったのではありません。怒らなくなっただけです」


 私は椅子から立ち、鞄を肩へ掛けた。拓也は、私が怒鳴っていたころを思い出しているのかもしれない。生活費を入れてほしい、無断で口座から引き出さないでほしい、せめて相談してほしい。私が声を上げるたび、彼は「また始まった」とテレビの音量を大きくした。


「怒っているうちは、まだ直してほしいと思っていました。半年前から何も言わなくなったのは、許したからではありません」


 玄関には、私の靴が一足だけ残っていた。八年前に二人で選んだ傘立てには、拓也のビニール傘が三本押し込まれ、底に茶色い雨水がたまっている。私はパンプスを履き、かかとを整えた。


「あなたを説得する費用が、回収できないと判断したからです。無料の妻は、本日廃業いたしました」


 門の前で、引っ越し業者が由佳へ声をかけた。由佳は慌てて新しい行き先を探し始めたが、離婚した元夫の家には戻れず、母親の市営住宅には同居できないらしい。拓也は母屋と離れを見比べ、三十日後に自分も出ていかなければならないことを、ようやく理解したようだった。


 私は二人を残し、駅へ向かった。昨夜の雨で道の端には細い水たまりができ、クリーニング店の前では店主が紺色の旗を立てている。スマートフォンが何度も震えたが、拓也からの着信を消音にし、佐伯さんから届いた「書類を受領しました」というメッセージだけを確認した。


 新しい部屋は、駅から歩いて七分の二階にあった。六畳の居間には、まだ段ボール箱が三つ残っている。窓際へ置いた小さな丸テーブルで湯を沸かし、以前は高いからと棚へ戻していた紅茶の缶を開けた。


 湯気から、乾いた林檎とシナモンの匂いが立った。私は一人分のカップへ紅茶を注ぎ、革表紙の手帳を開いた。毎月二十五日の欄に書いてあった「拓也不足分 三万円」と、月末の「義母仕送り 二万円」を二重線で消した。


 空いた行へ、ゆっくりと新しい文字を書いた。


「旅行積立、一万円。書籍代、五千円」


 残りは貯金へ回せる。来月になれば、もう少し増やしてもいい。窓の下を電車が通り過ぎ、テーブルの上の紅茶がかすかに揺れた。


 私はカップを両手で包み、まだ家具の少ない部屋を見回した。誰かの脱いだ靴下も、返済されない領収書も、勝手に決められた同居人の荷物もない。壁に掛けたばかりの時計は、午後三時を指していた。


 その日から、私の時間は一分も無料ではなくなった。


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