『五百円のお弁当』
温かい食べ物には、忘れていた記憶を不意に連れ戻す力があります。
これは、一つの不思議なお弁当が、十年間止まっていた時間を動かす物語です。
五百円のお弁当
新しくこの地区の職場へと赴任してきたマサトは、慣れない仕事と気疲れの連続で、部屋に帰っても自炊をする気力すら残っていなかった。
引っ越しの段ボールがまだ片付かない、薄暗く殺風景なアパートの部屋。胃袋を満たすため、マサトは重い足取りで近所を歩き、夕暮れの路地で見かけた一軒のお弁当屋の暖簾をくぐってみることにした。
ガラガラと引き戸を開けると、店先の手書き看板が目に飛び込んできた。
『箱に入るだけ、詰め放題。どれだけ詰めても五百円』
思わず目を疑った。こんな物価の時代に、五百円で詰め放題などあり得るのだろうか。
奥の厨房から、白髪交じりの小柄な店主が人懐っこい笑顔でひょっこりと顔を出した。手にはプラスチックの空の弁当箱とトングが握られている。
「兄ちゃん、新顔だね。ルールは簡単だよ。この箱に入るだけなら、どんな組み合わせでもオッケー。どれだけ入れても五百円だ」
差し出された弁当箱を受け取り、マサトはカウンターに並ぶ銀のバットを見渡した。
定番の惣菜が所狭しと並び、湯気と食欲をそそる香りが立ち込めている。一日中気を張っていたマサトのお腹が、小さく鳴った。
まずは、山積みにされた大ぶりのから揚げにトングを伸ばす。
こんがりと揚がった狐色のから揚げを贅沢に三個、箱の真ん中に置いた。その隙間を埋めるように、瑞々しい千切りキャベツやポテトサラダなどの野菜をぎゅっと詰めていく。
ふと見ると、隣のバットに赤いウインナーが艶やかに並んでいた。子どもの頃から大好物だった一品だ。これも入れたいと思い、横向きに寝かせて押し込もうとしたその時、厨房から店主の威勢のいい声が飛んできた。
「兄ちゃん! ウインナーは立てて入れるといっぱい入るよ!」
マサトが顔を上げると、店主が腕組みをしてニヤリと笑っている。
「寝かせちゃ場所を取るだろ。隙間にグッと立てて刺すんだよ。ほら、そうすりゃあと三本はいける」
教えられた通り、ウインナーの端を挟んで、から揚げと箱の縁のわずかな隙間に垂直に差し込んでみると、驚くほどすっきりと収まった。さらに三本を並べても、きれいに立った。
小さなお弁当箱の中で、自分だけの宝箱を組み立てているような、不思議な高揚感が湧いてきた。
さらに店主は、トングを持ったマサトの手元を覗き込みながら、楽しそうに言葉を重ねた。
「兄ちゃん、よく見な。冷たい野菜の上なら、まだ卵焼きも、甘く煮詰めた豆も、お漬物だって入るぜ!」
「……えっ、上に重ねてもいいんですか?」
「土台がしっかりしてりゃ崩れやしねえよ。遠慮すんなって!」
店主の景気のいい声に背中を押され、マサトは分厚い出汁巻き卵をそっとキャベツの敷布団の上に乗せた。ぴたりと吸い付くように安定する。その空いた窪みへ、漆黒の煮豆をつややかに一粒ずつ滑り込ませ、最後にウインナーの足元へ鮮やかな柴漬けとたくあんをぎっしり敷き詰めた。
色とりどりのごちそうで埋め尽くされ、蓋が閉まるか閉まらないかのぎりぎりまで膨らんだ弁当箱。見ているだけで胸が躍った。
だが、マサトはふと我に返った。
(……きっと五百円というのは、このおかずだけのことだよな。ご飯は別料金なんだろう。だけど、こんなにおかずをもらったんじゃ、ご飯が少ないと足りない気がする)
意を決して、マサトは厨房の店主に声をかけた。
「あの……すみません。ご飯大盛りで欲しいんですけど、全部でいくらになりますか?」
すると店主は、呆れたように目を見張って、からからと笑い声をあげた。
「何言ってるんだよ、五百円だよ!」
「えっ……」
「ご飯の方は、そっちの容器に入るだけ詰めていいからな。しゃもじでぎゅうぎゅう押したって文句言やしねえよ。ふりかけも好きなだけかけな!」
カウンターの脇を見れば、おかず用とは別に、深さのある真っ白な容器が積まれていた。大きな保温ジャーを開けると、真っ白な湯気とともに炊きたてのお米の甘い香りが立ち上る。
マサトはしゃもじを握り、山盛りにご飯をよそった。そのてっぺんに、色とりどりのふりかけを惜しみなく振りかける。
ずっしりと重くなったおかずの容器と、山盛りご飯の容器。
両手に二つの重みを感じながら、マサトはお弁当箱をカウンターへ差し出した。あまりの安さと気前の良さに、どうしても申し訳なさが勝ってしまう。
「……本当に、五百円でいいんですか? これで利益が出るんですか?」
心配になって尋ねるマサトに、店主は輪ゴムで二つの容器をしっかりと留め、白いビニール袋に入れながら事も無げに言った。
「そんなこと気にすることはないんだよ。これでいいんだから、いいんだよ。ほら、冷めないうちに持ってきな!」
マサトは財布から五百円玉を取り出し、カウンターの上にそっと置いた。店主はそれを受け取ると、「毎度」と笑って白いビニール袋を差し出した。
マサトは何度も、何度も頭を下げてお礼を言った。
店を出ると、冷え込んできた夕方の風の中、抱えたビニール袋から伝わる温もりが胸の奥までじんわりと沁み渡っていくようだった。
急ぎ足でアパートへ戻り、電気を点ける。
引っ越しの段ボールが積まれた部屋の真ん中に座り、マサトは輪ゴムを外した。
パチンと小気味いい音がして蓋が開く。
湯気を上げる大盛りのご飯、ぎゅうぎゅうに詰められたから揚げ、ぴんと背筋を伸ばしたウインナー、黄金色の卵焼き、そして艶やかな煮豆とお漬物。
「いただきます」
思わず声に出して両手を合わせ、割り箸を割った。
まず最初にご飯に割り箸を刺し、ひとくち持ち上げて口に運んだ。
口の中に入れた瞬間、お米の温かくて優しい香りと、噛むほどに広がる甘い味が口いっぱいに広がった。
ふっくらと炊き上がった一粒一粒が、喉を通り、冷え切っていた胃の腑をぽかぽかと温めていく。
(まるで、田舎の母ちゃんが炊いてくれたご飯のような気がする……)
胸の奥がきゅっと締め付けられるほど美味しかった。このご飯とふりかけだけでも、全部平らげてしまいそうになる。
マサトは慌てて割り箸を伸ばし、大きなから揚げをひとつ、つまんで口へ運んだ。
サクッとした薄衣を噛みしめると、中から熱々でジューシーな肉汁がじゅわっと溢れ出してきた。
「うまいうまい……これ、なんて美味しいから揚げなんだ!」
誰もいない部屋で、思わず声が出た。
声が出ただけではない。まるで自分のすぐ横から、
『そんなに慌てて食べなくても、まだいっぱいあるからね』
と、優しく笑いながら背中を撫でてくれるような、不思議な温かさが伝わってくるから揚げだった。
次に、ぴんと立っていたウインナーを口にする。
皮がパリッと弾け、懐かしい塩気と燻製の香りが鼻に抜けた。
「俺、子どもの頃からこのウインナーが大好きだったんだよな……」
運動会でも、遠足でも、お弁当箱の隅にはいつだってこの赤いウインナーが入っていた。蓋を開けるたびに胸が躍った。
「俺の田舎の母ちゃんも、必ずウインナーを入れてくれたな……。なんだか、いろいろ思い出してきちゃったよ。母ちゃん、元気にしてるかな」
独り言を呟きながら、視線は隣の煮豆へと移った。
ふっくらとよく煮えていて、黒く艶めいている。箸でつまんで口に運んでみると、舌の上でほろりと崩れた。
素朴で、深みのある、優しい甘さ。
(あぁ……田舎の母ちゃんが作ってくれた煮豆と、まったく同じ味がする)
そういえば、実家の母も豆を煮るのが本当に上手だった。大きな鍋でコトコトと煮て、できたての温かい煮豆を食べさせてくれたものだ。
遠く離れた街の、初めて入った小さなお弁当屋で、どうしてこんなにも懐かしい味がするのだろう。
マサトは夢中でご飯をかきこみ、おかずを食べ進めた。
しかし、半分ほど平らげたところで、ふと箸が止まった。
(……何か、足りない)
こんなにも美味しくて、温かくて、心の底から満たされるお弁当なのに、何かが足りないのだ。
(そうだ……。いつも母ちゃんが食べさせてくれた、あの美味しい味噌汁がないんだ)
豆腐と油揚げが入った、出汁のよく利いた母ちゃんの味噌汁。
マサトは、引っ越しの荷物を解いた際、台所の棚にインスタントの味噌汁のパックを放り込んでおいたことを思い出した。
せめてあれをお湯で溶いて飲もうと、マサトは味噌汁のパックを取りに行くため、体を起こした。
――その瞬間だった。
視界がふっと揺れ、マサトは目を瞬かせた。
目の前にあったはずの、ぎっしり詰まったおかずの容器がない。
山盛りのご飯も、から揚げのジューシーな肉汁の匂いも、どこにもなかった。
体を起こしたマサトの周りに広がっていたのは、薄暗く、何もない殺風景なアパートの一室だった。
あるのは、冷え切った六畳間の畳と、壁際に積まれた埃っぽい荷物だけ。
「え……?」
マサトは呆然と部屋を見渡した。
お弁当箱も、ビニール袋も、最初から存在などしていなかったかのように静まり返っている。
記憶が、濁流のように頭の中に流れ込んできた。
マサトは新しく赴任してきたわけではなかった。
十年も前、親の反対を押し切って実家を飛び出し、夢を追って都会へと出てきたのだ。
それ以来、一度も実家には帰っていない。仕事に追われ、意地を張り、連絡ひとつ寄越さないまま、十年の月日が流れていた。
「……全部、夢だったのかな」
口の中に、微かに残るあの優しいお米の甘みと、出汁の香り。
あのお弁当屋は、故郷を遠く離れ、心も体も擦り減らしていたマサトの心が無意識に見せた幻だったのだろうか。
「母ちゃんの味噌汁が、食べたいな……」
ぽつりとこぼれた言葉を合図にするように、堪えていたものが決壊し、マサトの目から大粒の涙がぼろぼろと溢れ出した。
どれだけ強がっても、どれだけ年月が過ぎても、心の奥底で求めていたのは、あのご飯であり、あのおかずであり、何よりも自分を育ててくれた母の温もりだった。
マサトは涙を拭いもせず、震える手でズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。
十年もの間、一度も開くことのなかった実家の電話番号を表示させる。
画面を見つめながら、胸の内で小さな恐怖が渦を巻いた。
(母ちゃん、怒ってないかな……)
(十年間も音信不通で、今更帰ってきてもいいかなんて言ったら、怒ったりしないだろうか……)
息が詰まりそうになるほどの躊躇い。
けれど、もう立ち止まることはできなかった。
あの夢の中で味わった温もりが、マサトの背中を強く押していた。
マサトは思い切って、発信ボタンを押した。
プルルル……プルルル……
静まり返った部屋に、無機質な呼び出し音が響き渡る。
心臓が破裂しそうなほど速く鼓動を打つ。
数回のコールの後、カチャリと音がして、受話器が上がった。
『……もしもし?』
十年の空白を飛び越えて耳に届いたのは、少し年老いたけれど、驚くほど記憶のままの、温かく穏やかな声だった。
『もしもし、マサトかい?』
怒りの色など微塵もない。
まるで昨日まで実家の食卓を囲んでいたかのような、すべてを包み込む母の声に、マサトはもう声を抑えることができなかった。
「……母ちゃん……」
こぼれた涙と一緒に、十年の想いが溢れ出していった。
おしまい




