第04話 次に備えて
ローゼンベルク伯爵家の商取引に関する書類を、リーゼロッテは朝の執務室で黙々と仕上げていた。
東方商会との新たな取引枠の拡大。南部の織物商との優先契約。いずれもローゼンベルク家に有利な条件で整えた書面だ。伯爵家の収益を押し上げ、宮廷における存在感を高めるための布石。それらを一つずつ、丁寧に積み上げていく。
アレクシス様は、自分よりもカミラ・ローゼンベルクを選ぶだろうと予想できたから。
それはもう仮説ではなく、確信だった。書類の確認と署名を求めに行くたびに短くなる、自分に向けられる視線。報告の途中で「もういい」と遮られる回数の増加。カミラとの密会の頻度は週に二度から四度に増え、私室で過ごす時間も長くなっている。どんどん気を使わなくなってきている。こちらに隠さなくなってきている。
自分は求められていない。ならば、次のために動くだけだ。彼が望むように。
リーゼロッテが今すべきことは明確だった。この移行を穏便に、王国に混乱が生じないように進めること。婚約破棄そのものは止められない。止める理由もない。だが、破棄の後に政務が空白になることは防がなければならない。
密会の管理は継続している。アレクシスとカミラが会うたびに、リーゼロッテは廊下の警備を調整し、侍女の配置を頻繁に変えて、人目につかない動線を確保していた。二人の関係が噂になれば、婚約破棄の前に政治的な混乱が起きる。それは王国にとって損失だ。
自分を追い出そうとしている二人の密会を、自らの手で守っている。リーゼロッテにとって、それは矛盾でも皮肉でもなかった。ただの業務の一つでしかない。この国の王子が望んでいることだから。
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ローゼンベルク家の地位引き上げ。これが移行計画の第一の柱だった。
伯爵家のままでは、王妃の実家としての格が足りない。公爵家や侯爵家が居並ぶ宮廷において、伯爵家出身の王妃は発言力を持ちにくい。アレクシスの治世を安定させるためには、ローゼンベルク家の格を上げておく必要がある。
商取引の拡大で実家の収益を増やし、それを足がかりに王国への貢献を目に見える形で積み上げる。慈善事業への出資、地方領主への援助、王都の基盤整備への協力を誘導する。そうした功績を一つずつ仕立て上げていけば、侯爵への昇格も視野に入る。
選別した根回し先のリストを書き出しながら、リーゼロッテのペンは淀みなく進む。誰に話を通し、どの順番で働きかければ最も効率的か。宮廷の力学は熟知している。
第二の柱は、業務の引き継ぎだった。
リーゼロッテが処理してきた業務は膨大だ。外交文書の起草、貴族間の利害調整、商会との交渉、王宮の行事運営。これらすべてを、自分がいなくなった後も滞りなく回るようにしなければならない。
手順書の作成に着手した。外交文書であれば、各国ごとの書式と禁忌表現の一覧、過去の交渉経緯の要約、担当官への連絡手順。貴族間の調停であれば、主要な家の利害関係図、過去の紛争事例と解決パターン、根回しの順序。誰が読んでも理解できる水準まで噛み砕いて文書化する。
その過程で、リーゼロッテはカミラ・ローゼンベルクの能力を冷静に分析していた。
社交の場での振る舞いは見たことがある。感情が豊かで、人を惹きつける力があるのは確か。だが、それは社交の才であって、政務の才ではない。
アレクシス様の代わりに外交文書の書式を理解できるか。おそらく、難しい。貴族間の利害関係を把握し、調停案を組み立てられるか。まず無理だろう。商会との交渉で数字を読み、落としどころを見極められるか。経験がなさすぎる。
これは出来ない者に対する批判ではない。事実の確認だ。カミラは教育を受けていない。王妃教育はおろか、実務に必要な基礎的な訓練すら経ていない。それは彼女の落ち度ではない。ただ、現状として能力が足りないことが事実。
――能力が足りないなら、補えばいい。
リーゼロッテは新たな書類を取り出し、組織の構成案を書き始めた。カミラを直接支える実務チームの編成。外交文書の起草を担う文官を二名、貴族間の調整役として経験豊富な侍従官を一名、商会との折衝を任せられる実務家を一名。それぞれの候補者リストと、配置転換に必要な手続きを整理する。
カミラ本人には政務の最終判断だけを仰ぎ、実務はチームが処理する体制。これなら、自分の代わりに立っても回るはずだ。
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移行計画のもう一つの課題。それは、リーゼロッテの身の振り方。
道具が主人を失えば、次に使ってくれる主人を探さなければならない。そうしないと、道具としての存在価値がなくなる。彼女は、そう考えていた。
リーゼロッテは選択肢を一つずつ検討した。
このまま宮廷に残り、裏方として王国を支える。――だが、婚約破棄された女がそのまま宮廷に居座るのは政治的に不自然でしょう。アレクシスの新たな婚約者の立場を損なうことにもなりかねない。不適切。
王家との関係を断ち、ヴァイスフェルト公爵家に戻る。――実家に戻ったところで、王妃教育で培った能力を十分に活かす場がない。公爵家の領地経営であれば父だけで十分。後継者もいる。能力の浪費。非効率。
修道院に入り、自ら政治から身を引く。――王国にとっての損失が大きすぎる。ここまで育ててもらった能力を無駄にすることは、投じられた教育費用と時間に対する背信にあたる。
いずれの選択肢も、結論は同じだった。能力を無駄にする。
やはり、次の新しい主人を探し、この能力を有効に活用してもらうのが最善だろう。
自分を使いこなしてくれる人物。王国の中枢に近く、この能力を必要とし、かつ適切に運用できる人物。
条件に当てはまる名前は、すぐに浮かんだ。
第二王子、ユリウス・フォン・グランディア様。
アレクシス様の弟。王位継承権を持ちながら、現在は政治の表舞台に出ていない。宮廷では「兄を立てて身を引いているように見せて、実は権力を狙っている」と評されているが、リーゼロッテの見立てはやや異なる。彼は王国に不要な混乱を起こさないよう、意図的に控えているのだ。王位を巡る兄弟間の争いは、どの国においても最大の政治リスクになる。それを理解した上で、自ら一歩退いている姿勢を感じ取れた。
――それが可能なのに実行に移さない、理性のある御方だ。
聡明で、穏やかで、大局を見る目がある。そうした人物であれば、自分という道具を有効に使いこなしてくれるのではないか。
婚約者として迎えてもらえるならそれが最善だけど、妾という立場でも構わない。道具に身分や立場は関係ない。求められるのは性能であり、与えられた場所で性能を発揮できるようになればそれでいい。
リーゼロッテはユリウスの名を書類の隅に書き留め、次の計画に組み込んだ。
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午後、廊下でオットー宰相と出くわした。
いつものように穏やかな表情の老宰相だが、リーゼロッテが足を止めたことで、何かあると察したのだろう。彼もまた立ち止まった。
「宰相閣下。少しよろしいですか」
「もちろんですとも、リーゼロッテ殿」
「近い将来、宮廷の体制に変化が生じるかもしれません。まだ確定ではありませんが、心づもりだけはしておいていただければ」
オットーの表情が一瞬だけ動いた。だがすぐに、いつもの表情に戻る。それ以上は何も変わらない。長年この宮廷で生き延びてきた老練な政治家は、その一言だけで求められることを十分に理解したのだろう。
「承知いたしました」
宮廷の体制の変化。どうしてなのか、深くは問わなかった。リーゼロッテもそれ以上は語らない。二人の間に、それだけで通じるものがあった。
オットーが去った後、リーゼロッテは執務室に戻った。
夕刻、マティアスが紅茶を運んできた。カップを受け取りながら、リーゼロッテは静かに告げた。
「マティアス。私の荷物をいつでも移動できるよう、整理しておいてちょうだい」
マティアスの手が、一瞬だけ止まった。
銀のトレイを持つ指先がわずかに力を込めたのを、リーゼロッテは視界の端で捉えていた。だが、それも刹那のことだった。
「かしこまりました、お嬢様」
いつもと変わらない声で、マティアスも応じた。一礼して部屋を出ていくその背中に、迷いはない。少なくとも、リーゼロッテにはそう見えた。
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夜更け。
執務室の灯りの下で、リーゼロッテはローゼンベルク家への支援に関する重要な書類を仕上げていた。
南部の織物商との優先契約。この一件が通れば、ローゼンベルク家の年間収益は二割ほど増える。伯爵家が侯爵に昇格するための土台として、十分に足りる数字だ。
羽根ペンを置き、完成した書類の束を見渡す。ローゼンベルク家の商取引拡大、功績の整理、昇格への根回し先リスト。カミラの補佐チーム構成案、業務引き継ぎの手順書。すべてが着実に形になりつつある。
アレクシス様の次の婚約者の実家が安定していることは、王国の利益に直結する。商取引が潤えばローゼンベルク家の発言力が増し、カミラの立場も盤石になる。カミラの立場が盤石になれば、アレクシスの治世も安定する。すべては繋がっている。
計画は順調だった。
リーゼロッテは書類の束を丁寧に揃え、引き出しにしまった。ふと、口元がわずかに緩んだ。笑みとは呼べない、かすかな変化。道具としての充足感――計画が予定通りに進行しているという、ただそれだけの満足だった。
灯りの下で、次の計画に思いを巡らせる。
――第二王子殿下に面会を申し込みましょう。私という道具の性能を、正確に伝えなければならない。
羽根ペンを再び手に取り、面会申請の下書きに取りかかる。夜はまだ長い。やるべきことは、いくらでもあった。




