第2話 心が動かない女 ※アレクシス視点
婚約相手であるリーゼロッテという女は確かに美しい。それはアレクシス・フォン・グランディアも認めている。
整った顔立ち、艶のある銀灰色の髪、隙のない所作。王族の婚約者として申し分のない外見を持っている。宮廷のどんな場に連れて行っても恥ずかしくない――それは事実である。
だが、それだけだ。
アレクシス・フォン・グランディアは、執務机の向こう側に座る婚約者の横顔を見ながら、胸の内に沈む重たいものを感じていた。
その日も昼過ぎから書類を持ってきたリーゼロッテ。北部辺境伯への招待状、どこかの男爵と子爵の調停案、商会との何かの確認書。中身がどうであれ署名すればいいのだろうが、毎日毎日、紙の束を突きつけられるのはうんざりする。少し前までカミラと過ごして良い気分だったので、その喜びが一気に消え失せる。
まるで見せつけられているような気分になる。自分がこれだけの仕事をしている、と。
リーゼロッテは王妃教育の全課程をクリアした唯一の人間らしい。歴代の候補者が誰一人として成し遂げられなかった偉業だと、宮廷の古い文官たちは口を揃える。それが事実かどうかは知らない。だが、そのせいだろうか――彼女といると、常に自分が試されているような気がしてならない。
書類の処理が遅ければ無言で待たれる。判断を求められれば正解を出すまで静かに見つめられる。彼女の瞳には何の感情もない。怒りも失望もないはずなのに、あの無表情が無言の圧力となって、アレクシスの喉元に張りつく。
――気が休まらないのだ。この女の前では。
せめてもっと愛嬌があれば良かったのに。笑って「お疲れ様です」とでも言ってくれれば、少しは違ったかもしれないのに。
署名を終えた書類をリーゼロッテに返すと、彼女は一礼して部屋を出ていった。「失礼いたします」と、いつもと同じ抑揚のない声で。
扉が閉まる。
「はぁ」
ようやく息がつけた。アレクシスはソファに深く身を沈め、天井を仰いだ。婚約者が退室して安堵する――それはおかしなことだと、自分でも分かってはいる。
だが仕方がない。心が動かないのだ。彼女に対して。
別の日、アレクシスは庭園でカミラ・ローゼンベルクと落ち合った。
中庭の東屋。薔薇の蔓が絡む柱の陰で、カミラは先に来て待っていた。アレクシスの姿を見つけると、花が咲くように笑顔を浮かべる。
「アレクシス様! 今日も会えて嬉しいです」
その声を聞いた瞬間、胸が軽くなるのを感じた。リーゼロッテといるときの息苦しさが、嘘のように溶けていく。
「待たせたかい?」
「いいえ、全然。でも正直告白すると、お会いできるまでが長くて少しだけ寂しかったです」
カミラは頬を赤らめながら、少し拗ねたようにそう言った。その仕草が愛おしかった。彼女と会うときには誰にもバレないように気をつけている。そのせいで色々と苦労させている。彼女の素直な感情が表に出る。喜怒哀楽が顔に浮かぶ。それが、どれほど心地よいことか。
リーゼロッテは決してこういう顔をしない。
嬉しいとも、寂しいとも言わない。待っていたとも、会いたかったとも。彼女の口から出るのは報告と確認と提案だけだ。
カミラの隣に腰を下ろすと、彼女が自然に肩へ寄り添ってきた。温かい。人の体温がある。生きている人間がそばにいるという、当たり前の実感。リーゼロッテの隣にはそれがなかった。あの女は常に一歩引いた位置に立ち、事務的な距離を保ち続ける。触れることはおろか、近づくことさえ許されていないような空気を纏っている。
「ねえ、アレクシス様。今度の社交会、ご一緒できませんか?」
「社交会か。……少し難しいな。リーゼロッテが段取りを組んでいるだろうから」
「そうですか……」
カミラの表情が曇った。その変化がまた、アレクシスの心を締めつける。リーゼロッテなら、たとえ断られてもこんな顔はしない。何を言っても表情が変わらない相手と、感情をぶつけてきてくれる相手。どちらと共に過ごしたいかなど、答えは明白ではないか。
「……次は、必ずどうにかしよう」
「本当ですか?」
なにか理由をつける。どうにかして彼女と一緒に過ごせないか考えよう。そう約束すると、カミラの顔に再び明るさが戻る。曇りから晴れへ、一瞬で変わるその表情の豊かさ。アレクシスはそれを見つめながら思う。
彼女のような子のほうが、王妃にふさわしいのではないか。
これから何十年も共に国を治めていくパートナーだ。心が通じ合わなければ、やっていけない。政務がどれほど厳しくても、隣で笑ってくれる人がいれば困難を乗り越えられる。リーゼロッテとでは、それができそうにない。感情のない人形に、心の支えは務まらない。
夕刻、アレクシスは私室に戻り、今日の予定を振り返った。
特に問題はなかった。今日も滞りなく一日が終わろうとしている。
それが当たり前だとアレクシスは思っていた。必要な書類を揃えさせて、判断を求められれば選択肢が用意されていて、外交も内政も大きな問題なく回っている。それは王子である自分がしかるべき位置にいるからこそ成り立つ秩序であり、王族としての責務を果たしている結果だ。
――少なくとも、アレクシスはそう信じていた。
書類が誰の手で準備され、選択肢が誰によって精査され、外交の根回しが誰の知恵で進んでいるのか。そんなことを彼は深く考えていなかった。泉から水が湧くように、それは最初からそこにあるものだった。
いつまでもこの状態が続くのだと、疑いもしていない。
窓の外に目をやると、階下の渡り廊下をリーゼロッテが歩いていくのが見えた。脇に書類を抱え、真っ直ぐ前だけを見て、淡々と。相変わらず表情のない横顔。夕陽に照らされているのに、温かみの感じられない影のような後ろ姿。
アレクシスは視線を逸らし、カミラの笑顔を思い浮かべた。
その夜、寝台に横になりながら、アレクシスはあることを考えていた。
正式な手順で、婚約の相手を変えることはできないだろうか。
リーゼロッテとの婚約を解消し、カミラを正式な婚約者として迎え入れる。公爵家との縁組を破棄するのだから簡単ではないだろうが、不可能でもないはずだ。前例がないわけではない。
リーゼロッテも、そのほうがいいのではないか。感情のない彼女なら、婚約破棄を告げても傷つきはしないだろう。むしろ、望まない結婚から解放されて清々するかもしれない。彼女が俺との結婚を望んでいるとは、とても思えない。
だったら一緒になることを心から望んでいるカミラを隣に置けば、きっと今よりも上手くいく。
政務のことは……まあ、何とかなる。今だって上手く回っているのだから、婚約者が変わったところで大きな影響はないだろう。必要であれば優秀な文官を雇えばいい。リーゼロッテ一人がいなくなったくらいで、王国が揺らぐはずがない。
アレクシスは目を閉じた。暗闇の中にカミラの笑顔が浮かぶ。温かくて、明るくて、心が躍る。
そのほうが、きっと上手くいく。
――そう、信じて疑わなかった。




