第1話 完璧な道具
朝の執務室に、羽根ペンが紙を走る音だけが響いている。
リーゼロッテ・ヴァイスフェルトは、机に積まれた書類の山を前にしても眉ひとつ動かさなかった。右手は止まることなく文字を綴り、左手は次に処理すべき書類をすでに引き寄せている。
外交文書の起草が三通。貴族間の領地紛争に関する調停案が二件。東方商会との交渉条件の最終確認が一件。いずれもアレクシス・フォン・グランディア第一王子の名義で発行される公文書だが、王子自身がこれらに目を通すことはない。
リーゼロッテがすべてを処理し、最終的な署名だけをアレクシスに求める。
「お嬢様、朝食をまだお召し上がりではないようですが」
執事長のマティアス・ゲルトナーが、湯気の立つ紅茶を静かに置いた。銀のトレイには焼き菓子も添えられているが、リーゼロッテの視線は書類から離れない。
「ありがとう。後で頂くから、報告を聞かせて」
「ホルツマン男爵とヴェーバー子爵の境界紛争の件、昨日の調査報告が届いています。目を通しますか」
「先に概要を」
「はい。ホルツマン男爵側の主張に法的根拠がありました。ただし、ヴェーバー子爵側には王都の有力商会との取引があり、強硬に出ると経済的な波及が生じます」
「両家の直近三年の税収推移と、商会との取引額を一覧にしてください。午前中に調停案をまとめます」
指示を受けたマティアスは一礼して部屋を出た。その足取りに迷いはない。長年仕えてきた彼は、リーゼロッテの指示が常に的確であることを知り尽くしていた。
紅茶が冷めていく。結局、仕事に集中して焼き菓子には手がつかない。リーゼロッテはそれらの存在を認識してはいたが、優先順位が低いと判断しただけだった。食事は業務の合間に必要最低限を摂ればよい。道具に美食は不要だ。
昼前、宮廷宰相オットー・ブレンターがリーゼロッテの執務室を訪ねた。
「リーゼロッテ殿。先日の北部辺境伯への書簡、先方から返答が届きましたよ」
オットーは柔和な笑みを浮かべながらも、その目には確かな敬意が宿っている。この老練な宰相が王宮で唯一対等に言葉を交わす相手が、二十歳の公爵令嬢であるという事実を知る者は少ない。
「内容は」
「概ね好意的です。ただ、軍備の縮小案については慎重な姿勢を崩していません。直接会って話したいとのことです」
「北部辺境伯は長男に跡を継がせたいと考えている。しかし長男は社交に疎く、王都での後ろ盾がない。そこに手を差し伸べれば、軍備の件は動かせます」
オットーは一瞬目を瞠り、それからゆっくりと頷いた。
「……なるほど。長男の件は私も気になっていましたが、そこまで読んでおられましたか」
「アレクシス様の名で、辺境伯の長男を王都の社交会にお招きする書簡を用意します。宰相閣下には会場の手配をお願いできますか」
「承知しました。いつも通り、殿下の署名は」
「私が持っていきます」
オットーは満足げに頷いて退室した。扉が閉まる間際、彼は一度だけ振り返り、執務机に向かうリーゼロッテの横顔を見た。
表情がない。疲労も、達成感も、焦りも、何もない。ただ完璧に機能する精密な装置のような横顔。
オットーは小さく息をついて、廊下を歩き出した。
***
署名を求めるため、リーゼロッテはアレクシスの私室へ向かった。
廊下を歩く彼女の足音は一定のリズムを刻み、すれ違う侍女たちが慌てて道を開けるのにも目を向けない。左手には三通の文書を抱えている。いずれも今日中にアレクシスの署名が必要なものだ。
私室の前に近づいたとき、リーゼロッテの足が止まった。
扉の向こうから、声が漏れている。甲高い、弾むような女の笑い声。そして、それに応えるアレクシスの声。穏やかで、柔らかい。リーゼロッテに向けられたことのない種類の声だった。
――カミラ・ローゼンベルク。
リーゼロッテは扉の前で立ち止まったまま、数秒間その声を聞いた。胸に去来するものは何もない。怒りも悲しみも嫉妬も、何ひとつ湧いてこない。ただ、いくつかの事実が頭の中に整理された。
一つ。アレクシスは現在、私室にカミラを招いている。
二つ。この時間帯に侍女や文官がこの廊下を通る可能性がある。
三つ。婚約者がいる王子が別の女性と私室で二人きりでいる場面を、他者に目撃されるのは政治的にまずい。
リーゼロッテは踵を返し、廊下の角に控えていた侍女を呼び止めた。
「この廊下を一時間、誰も通さないようにしなさい。理由は、殿下が重要な来客と面談中のため」
「か、かしこまりました」
侍女は緊張した面持ちで頷き、小走りに去っていった。
署名は後でよい。一時間後に改めて来ればいい。リーゼロッテは文書を抱え直し、来た道を静かに引き返した。
アレクシスもカミラも、自分たちの密会が「管理」されていることを知らない。リーゼロッテがそうしなければ、二人の関係はとうの昔に宮廷中の噂になっていただろう。
ただ、一部の者達はもちろん気づいている。気を使って噂にしないようにしているだけ。
執務室に戻り、リーゼロッテは再び仕事に向かった。
ペンを走らせながら、思考の片隅でカミラ・ローゼンベルクのことを分析する。
カミラという女性は感情が豊かのようだ。よく笑い、よく怒り、よく甘える。アレクシスの隣にいるとき、彼女は実に自然体で、アレクシスもまたカミラの前ではよく笑っていた。
それは合理的なことだとリーゼロッテは考える。
アレクシスには精神的な安定が必要だ。王族としての重圧を日々受ける彼にとって、感情で応えてくれる存在は不可欠といえる。そしてその役割を、リーゼロッテ自身が果たせないことは明白だった。
何度か試みたことはある。アレクシスが話しかけてきたとき、適切な表情を作ろうとした。しかし筋肉が動かない。笑顔の形は知識として知っているが、それを自然に浮かべることができない。作り笑いは逆効果で、アレクシスの表情を曇らせるだけだった。
つまり、カミラの存在はアレクシスの精神的安定に寄与する有効な要素だ。
世継ぎの問題もある。リーゼロッテは自分とアレクシスの間に子を設けることの困難さを冷静に認識していた。感情のない自分に、アレクシスがそういった意味で近づこうとしないのは当然のことだ。であれば、別の女性にその役割を担ってもらうほうが、王家の存続という観点からは合理的だった。
ただ一つ、実務的な問題がある。
結婚前に、しかも婚約者がいる身で別の女性と密会を重ねるのは、露見した場合の政治的損失が大きい。近隣諸国との外交にも影響しかねない。ローゼンベルク伯爵家の立場も微妙なものになる。
――もう少し上手く立ち回ってくれれば、こちらの手間が減るのに。
それは嫉妬でも怒りでもなかった。純粋に、非効率な状況に対する道具としての不満だった。壊れかけの部品を抱えた機械が軋むような、そういう種類の不快感に過ぎない。
夕刻、リーゼロッテは一時間後に改めてアレクシスの私室を訪ねた。今度は中から声は聞こえない。
扉を叩き、入室の許可を得て中に入ると、アレクシスはソファに腰を下ろしていた。カミラの姿はすでにない。だが、テーブルの上には飲み終わったあとの紅茶が二人分。片方のカップには口紅の跡がうっすらと残っている。
リーゼロッテの視線がそこに一瞬触れたが、それだけだった。
「アレクシス様。署名をいただきたい書類がございます」
「ああ……。何の書類だ?」
「北部辺境伯への社交会招待状、ホルツマン男爵とヴェーバー子爵の調停案、それから東方商会との交渉最終確認書です」
「仕事の書類か。毎日毎日よくこれだけの書類が出てくるものだ」
本当は、これだけでなく他にも膨大な数の書類があり処理されているのをアレクシスは知らない。そんな彼は、面倒そうにペンを取った。書類の中身に目を通すことなく、示された箇所に署名していく。リーゼロッテの作成した文書に誤りがないことを、彼は経験的に知っていた――というよりも、内容を精査する能力も意欲も持ち合わせていなかった。
「リーゼロッテ」
「はい」
「……いや、何でもない」
署名し終えた書類を差し出しながら、アレクシスはリーゼロッテの顔を見た。ほんの一瞬だけ。それからすぐに視線を逸らし、窓の外へ目を向ける。
「もう下がっていい」
「かしこまりました。失礼いたします」
リーゼロッテは一礼して退室した。
自室に戻る廊下を歩きながら、リーゼロッテの頭の中でいくつかの事実を静かに整理していく。
最近、アレクシスの態度に変化が見られる。
自分と目を合わせる時間が短くなった。今日も、署名のあいだほとんど書類しか見ていなかった。以前はもう少し、こちらの顔を見て話していた。
カミラの前では見せる笑顔を、自分には向けなくなった。正確にいえば、以前からリーゼロッテに向ける笑顔は少なかったが、最近はそれが皆無に近い。
こうした事実を振り返り、リーゼロッテはある仮説を立てた。
――アレクシス様は、私との婚約を解消したがっている。
廊下の窓から差し込む夕陽が、リーゼロッテの横顔を照らす。その表情には、何の変化もなかった。動揺も悲嘆も、もちろん怒りもない。ただ、淡々と次の思考へ移っていく。
もしそうなるのであれば、移行計画を早めに立てておくべきだろう。引き継ぎ資料の作成、後任への根回し、自分の次の身の振り方。やるべきことは多い。
道具が主人を失うなら、次の主人を探さないといけない。上手く自分を使ってくれるような人。そうしないと、道具としての存在価値を失う。
ただ単純に、それだけのことだ。
リーゼロッテは自室の扉を開け、明かりの灯った執務机に向かった。まだ今日の仕事は終わっていない。ローゼンベルク伯爵家の次期商取引について、有利な条件を整える書類が残っている。
――アレクシス様の心を支えてくれている女性の実家だ。支援して、少しでも地位を固めてあげたほうがいい。
羽根ペンが再び紙の上を走り始める。夜が更けても、その音が途切れることはなかった。




