王太子は神子と猫に試されている
「クロ、大人しくしてよ、頼むから……!」
2月の三連休。何も予定はないし、できれば何もしたくないが。
如月 奈々は、気になっていた愛猫クロの汚れを落とすべく、風呂場で死闘を繰り広げていた。
「ぎゃあ! ちょ、痛い痛い! 分かった、ごめんごめんってば! でも本当に汚れてるし、何ならちょっと臭いからさぁ! もう、嫌なら毛繕いちゃんとしてよ! クロ毛繕い雑なんだよ!」
浴室は湯気と水飛沫で霞んでいた。タイルは濡れて光り、排水溝に向かって小さな流れができている。シャワーから湯が壁に当たって霧散し、無香料のはずのシャンプーの匂いがなぜか立ち込めていた。
黒い塊——クロは一緒に暮らして3年になる。去勢も済んでいるし、性格も比較的穏やかだ。しかし風呂となると悪鬼のごとく暴れる。そう、クロを風呂に入れるのは一日仕事。本当は気になった時点でさっさと洗えばよかったのだが、「今寒いしな~クロも風邪引いちゃうかもしれないしな~」と言い訳をしながら後回し後回しにしていたツケが、この2月の寒い中での風呂決行である。
当然クロは嫌がり、ひと暴れしたどころではない。それでも暴れ足りず、奈々の腕をよじ登って肩に爪を立て、逃げ場がないと悟ると今度は顔面めがけてパンチを繰り出してくる。
「い、痛っ! 痛い、やめて、やめてよ……!」
ざばん、と盛大な水音を立てて浴槽の縁に頭をぶつけながら、転倒して奈々は全身ずぶ濡れになった。冷たい水が頬を伝い、髪が顔に張り付く。
上半身は捨てる予定の長袖Tシャツ(クロが爪を立てて登るので、風呂洗い専用になった哀れな一枚)、下半身は女子にあるまじきパンツ一丁(どうせ濡れるから)、全身びしょ濡れ、腕と首と頬に引っかき傷。所々に血が滲んでいる。
涙目で痛みにひいひい言いながら奈々が顔を上げると、クロはシャワーヘッドの上に陣取って「にゃあ!」と力強く鳴いた。濡れた毛先が逆立ち、金色の目が湯気の中でぎらりと光っている。勝利の雄叫びである。
「あんたね……!」
その瞬間――風呂場の床が、光った。
いや、正確には床だけではない。壁も、天井も、濡れた奈々自身も、全部が白く眩い光に包まれていった。白さの中に青みが差し、あっという間に輪郭さえも溶けていく。
「え?」
光が、強くなる。
「え、ちょ、クロ——」
+++
一方、その頃。
王都ルーゼンの王宮では。
「神子様! どうか我々の祈りを——」
神官長が高らかに詠唱を続ける中、王太子・ニルス=フォン=ルーゼンは中央で光り輝く魔法陣を緊張した面持ちで見守っていた。
円形の大広間は、燭台の炎と魔法陣の光が混ざり合い、金と青と白の複雑な色彩に満ちていた。石造りの天井に光が反射し、柱の影が揺れている。空気はぴんと張り詰め、神官たちの白衣の裾が流れ出る魔力でたなびいている。
場の責任者は金の髪と青灰色の瞳を持つ二十歳の若き王太子。冷静沈着といえば聞こえはいいが、浮いた話のひとつもない、堅物と評判の王太子である。
今日この日のために、神官たちは三ヶ月もかけて準備を進めてきた。瘴気を浄化する「神子」を、異界から呼び寄せるために。
祈りの言葉と魔法陣の光が部屋中を満たす中、ニルスの耳に声が届いた。
『い、痛っ! 痛い、やめて、やめてよ……!』
若い女性の悲痛な叫び。明らかに苦痛を帯びた声。助けを求めているような、切迫した響き。
ニルスは眉を寄せた。隣に立つ神官長も、異変に気づいて視線を交わす。
そして——魔法陣の眩い光の隙間から、何かが飛び出した。
黒くて小さい金目の獣。四本足。
しゅたっ、と床に着地したそれは、ちらりとニルスを一瞥し、ぶわっと全身の毛を逆立て妙な足踏みをしたあと、細かく石床を蹴る音を一瞬だけ広間に響かせ脱兎のごとく逃げていった。
「……今のは」
ニルスが呟く間もなく、魔法陣の光が弾ける。
そこには人が立っていた。
ずぶ濡れで、薄汚れた服に下半身は下着だけの、涙目で頬を押さえた今にも泣きそうな顔をした若い女性。
至るところにある引っかき傷は、ところどころ血が滲んでいる。
「…………」
ニルスを含む全員が成功を喜ぶことなく、その痛ましさに息をのみ、沈黙した。女性の髪や肌から滴り落ちた雫が、石床に水が染みていく。
そんな中、女性はゆっくりと顔を上げたが、焦点が合っていない。ぼんやりとした黒い瞳が、室内を見渡して——
「クロ!」
女性が叫び、神子降臨の荘厳な空気はあっという間に霧散していった。
「……クロ、とは」
神官長が恐る恐る問えば、女性はずぶ濡れのまま床に座り込み、はあはあと息を切らしながら、辺りをきょろきょろと見回している。
「うちの猫……ていうかここどこ……!? お風呂じゃない!!」
女性はようやく状況に気づいたらしい。黒い瞳がぐるりと部屋を一周した。石柱、神官たちの白衣、高い天井、魔法陣の残光——見るものすべてが異質なはずなのに、女性が一番先に思ったのは、そのクロとやららしい。
「いや、マジでここどこ? ……夢?」
「現実です」
ようやく口を挟めそうだとニルスは口を開いた。
「あなたは今、ルーゼン王国の王宮にいます。我々が行った神子召喚の儀式によって、異界からここへ——」
「クロは」
「え?」
「クロ……黒い猫を見ませんでしたか?」
確かに見た。あの黒い四本足のよく分からない生き物。目が金色の——
「……逃げ、ました」
「は? 逃げた? どこに?」
「扉の隙間から……」
「なんで止めなかったんですか!」
「想定外のことで……」
「その逃げたのがクロなんですよ! 探してください! 今すぐ!」
神子が来て開口一番に発した言葉が「クロを探せ」だった。
神官たちは顔を見合わせ、ニルスは冷静を取り戻し、咳払いした。
「落ち着いてください。まず状況を——」
「落ち着けない。あの子、外が怖いんです。ビビりだから。あと最近ちょっと太ってきてたから動けるかどうか……」
「太って」
「丸いんです。真っ黒で。去勢してるし、子猫の時から室内飼いだから外に出してもそんなに遠くは行かないと思うんですけど……でも知らない場所だから……」
女性は頭を抱えている。ニルスはじっと女性を見つめた。
ずぶ濡れの傷だらけ、下着姿で全く違う世界に呼ばれたというのに、やはり一番に心配しているのが自分ではなくクロとやらのこと。
ニルスの胸の奥で、何かがじわりと動いた。
――いや待て、下着姿?
「……クロの話の前に、お召し物を!」
ニルスは神官のひとりに侍女を呼んでくるよう指示し、自身のローブを奈々に被せた。やがてバタバタと侍女達が到着し、神子を見えないようにしながら着替えをさせていく。
着替えが終わったあと、ニルスから一通りの説明を受けて自分が今置かれている状況を理解はしてくれたようだが、気が気でない様子でしばらく考え込んだあと、口を開いた。
「……分かりました」
「理解が早くて助かります……が、大丈夫ですか?」
「いや、まあ……こういう話、本でよく読んだことあるので。元の世界で死ぬ運命だったなら……大きな災害でも起こっちゃったとかかな……なら、クロが一緒なのはむしろよかったかも……」
奈々は膝を抱えて、深く息を吐いた。傷だらけの腕が明かりに照らされている。ニルスは「手当てを」と言おうとしたが、それより先に奈々が口を開いた。
「色々思うことはあるんですけど、とりあえず条件を聞いてもらえますか」
「条件?」
「神子の仕事はします。でも」
奈々は指を立て始めた。
「私の衣食住と身の安全の保証。クロを探すこと。クロが見つかったら、クロの安全な居場所の確保。この三つは最低条件です」
神官長が「なんと」という顔をした。ニルスは無表情を保ったまま内心で苦笑した。こんなボロボロの姿で、突然異世界に放り込まれた状態で、これだけ冷静に条件を提示できる人間がいるだろうか。クロさえいれば他は何でもいいといったところだ。
ニルスはひとつ、奈々に気になる点を確認した。
「その……クロというのは、何なのですか?」
「猫です」
「……ネコとは」
「猫を知らないんですか?」
「初めて聞きました。恐らく、この世界には存在しない生き物かと思います」
「猫がいない世界……あんな可愛い生き物がいない……?」
「実を言いますと、神子以外が召喚されたという事例がなく……」
「無意識に捕まえたか、あの子が肩に乗ったのかも。よく雷の音とかにビックリして肩に乗ってたので」
ニルスは先ほどの黒い影を思い出した。光の隙間から飛び出してきた、毛を逆立てた小さな生き物。
あれが、猫。
「……分かりました。あなたの条件、呑みましょう。猫のクロの捜索も手配します」
そうニルスが断言すると奈々の表情が、ほんの少し解れた。
「ありがとうございます」
「ただ」
「なんですか」
「ひとつ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「……そのネコが、貴女を傷つけたのでは」
ニルスが質問して奈々の腕の引っかき傷を見ると、奈々は少し気まずそうに答えた。
「お風呂に入れようとしてたんです。クロ、お風呂嫌いで」
「……女性の肌にそんな傷を……」
「まあ、うちの子のやったことなんで」
苦笑する奈々に、ニルスは何も言わなかった。しかし内心では、静かに感情が渦巻いていた。神子をここまで傷つけたものをそこまでしてと思いはしたが、本人がそれを愛しているのであれば仕方がない。複雑な気持ちを抱えたまま、ニルスは改めて奈々を見た。
濡れた黒髪が頬に張り付いていて、あちこち傷だらけ。それでも背筋は伸びていて、黒い目はニルスをしっかり見ている。
第一印象は「可哀想」と「可愛い」だったが、今は少し違う言葉が加わっていた。芯が強いというか、肝が据わっている。
興味深い人だな、とニルスは思っていた。
「とにかく手当ても必要でしょう。クロの捜索は今夜から始めます」
「お願いします」
「ニルス=フォン=ルーゼンです。この国の王太子を務めています」
「めちゃくちゃ偉い人! ……びっくりした」
「そうですね。お互いに」
「……神子の名前を伺ってもよろしいですか」
「如月奈々。奈々、でいいです」
「ナナ」
ニルスは繰り返した。
異国の言葉の響き。発音しにくいが、なぜか口の中で転がしたくなる名前だと思った。
ニルスが手を差し出すと、奈々は一瞬迷ってから、それを握った。傷だらけの、少し冷えた手だった。
国王への報告も済み、神子の第一声が「クロを探せ」だったという話は、すぐに王宮中に広まった。
猫の捜索を始めるに当たって問題がひとつ。
この世界には猫がいない。
つまり、誰も「猫」がどんな生き物なのか知らないのである。
「猫とは、こういう感じの生き物です」
部屋を宛てがわれた奈々は、紙と羽根ペンを受け取り、一生懸命クロの絵を描いていた。
ニルスと神官長が、その絵を覗き込む。
紙の上には、目が異様に大きく、手足の長さがばらばらで、しっぽが体より長い、よくわからない闇の化身のような黒い何かが描かれていた。
「……これが、猫」
「そうです。可愛いでしょう」
「……やっぱり魔物じゃないですか!」
ニルスは慎重に言葉を選ぼうとしていたが、奈々のドヤ顔に思わず素で叫んでしまった。
「どうせ私は絵が下手ですよ!」
奈々も叫んだ。
「描けないだけです! クロはもっとずっと丸くて! 目が金色できらきらしてて! 耳がピンとしてて! 肉球は黒猫では珍しいピンクで……!」
「分かりました、分かりました」
ニルスは奈々をどうどう宥めながら、なかなかに感情的になる人だと思った。あの冷静な条件提示は何だったのか。猫の話になると、まるで別人である。
「絵の代わりに、特徴を教えてください。できるだけ詳しく」
「全身真っ黒。毛は少し長め。目が金色。肉球……足の裏はピンク……桃色。体は……丸め。お腹がちょっとポヨっとしてます。去勢してるからこう縦に抱いた時下腹の位置に少し傷跡が——いや傷跡は違うか、手術痕が」
「全身が真っ黒で金色の目」
「そうです。暗いところで目は光ります」
「……それは魔物に見えても仕方ないかもしれません」
「そんな怖いものじゃないです! 可愛いんです! 金色の目が……」
「分かりました、分かりました……」
ニルスは奈々を再び宥めながら、一生懸命捜索用の資料を作って騎士団と民間ギルドに配付して協力を依頼し、捜索と並行して奈々は王宮での生活を始め、クロの特徴を追加していった。
「高いところに登る」「水は苦手」「隙間が好き」「鳴き声は低め」「食欲旺盛」「びびりだけど慣れた人には甘える」「お腹は触らせてくれない」「でも寝てる時はお腹も触れる」「抱っこは嫌がるけど肩や膝には乗ってくる」
鳴き声は低めや食欲旺盛は比較対象がないのではないかと心の中で突っ込みながら、ニルスはその全部を書き留め、必要以上に詳しくなった「猫の生態」を、捜索隊に伝える。
聞き込みを受けた城下町の人々は首を傾げながらも注意はしてくれているようで、「見たことない生き物がいた」「小さい魔物みたいな」という目撃情報が、ちらほら上がり始めたらしい。
神子に相応しい衣食住も揃え、クロのいないこと以外、神子の不満も――なくもなく。
「退屈です」
「神子としての修行は明日から始まります。今日は休んで」
「慣れない場所で休めないです。本ありますか。この世界の本」
「……文字が読めますか?」
「この世界の言葉も喋れてるじゃないですか」
「……それは召喚の魔法が——ああ、そういうことか、文字も」
「読めました」
ニルスは得意げに言う奈々を連れ、図書室に向かった。どうやら退屈だからもあるが、元々本が好きなようで嬉しそうに目を輝かせている。
しかし、神子が来たら、もっとこう……故郷に帰りたいと泣き喚くか、絶望するか、能力を逆手に駄々をこねるか、そういうものだと思っていた。実際、過去に召喚された神子の記録を読むとそういった例が多かった。
にもかかわらず、この奈々という女性は、ボロボロの状態で召喚されて、本人曰く家族も同然だという猫のクロを見失って、それでも条件を提示し粛々と役目を受けた。退屈だと言って本を読む余裕すらある。やはり面白い女性である。
神子としての修行も始まり、魔力の扱い方やこの世界の歴史、儀式の作法。飲み込みは早いが、魔法の才能はそこそこだと師匠役の神官は苦笑いしていたが、この国のために働いてくれる意思があるだけで充分だ。
そしてニルスは毎日、少しだけ奈々と話すようになっていた。最初はお互いに修行と捜索の確認といった業務的な会話だったが、いつの間にかそれ以外の話もするようになっていた。
しかしクロはまだ見つかっておらず、ニルスは申し訳なく思っていた。
日が傾き、城壁の影が長く伸びる頃。
城門近くで黒い魔物が出たと報告が上がり、ニルスと奈々は急いで現場へと向かった。
「クロ……?」
騎士達が剣や槍を構え、樽の陰に追い詰められているのは、黒くて小さい金色の目をした何かの獣か魔物だ。確かに奈々のいう特徴と一致はしていた。いてもたってもいられずといった様子で近づこうとした奈々を、騎士が制止する。
「神子様、危険かもしれません。近づいては――」
「でも……!」
「待て。確認が済むまで、攻撃は許可しない」
「ですが王太子殿下、正体不明の魔物です」
「神子が探す生き物に酷似している。無闇に傷つければ、神子の心を傷つけることになる」
奈々は思わずニルスを見た。騎士達も奈々も戸惑っている。
「しかし——」
「私が責任を取る」
その一言で、場の空気が止まった。
ニルスが剣の前に立ち、黒い魔物と騎士達との間に身を置けば、騎士達は戸惑いながら武器を下ろし始めた。
「神子、私の後ろからクロかどうかを確認してください」
ニルスがそういえば、奈々は魔物を刺激しないよう、静かに角度を変えたり目を細めて魔物を観て、静かに「クロじゃない」と首を振る。
「そうですか。皆手を止めさせて悪かった。神子、戻りましょう」
クロでなく、ただの魔物なら退治する必要がある。それを間近で奈々に見せたくはないとニルスは奈々の手を引く。奈々はそれに戸惑ってはいたが、ゆるゆる歩き出し、背後で騎士が短く号令を飛ばし、空気が再び戦闘のそれに切り替わった。
「……どうしてあんなことしたんですか」
「何がです」
「危なかったかもしれないのに。ニルス様は次の王様なんでしょう」
「クロを探すと約束したのですから、あれがクロだったら不味いでしょう。それに」
「それに?」
「貴女に悲しまれると、困ります」
何を当たり前のことを。
ニルスが首を傾げると、奈々は視線を逸らしながらぽつりと言った。
「……ずるいですねぇ」
「何がです」
「何でもないです。ありがとうございました」
「? 礼を言われずとも、当たり前のことです」
奈々は小さく笑って、視線を逃がす。
どうしたのだろうかとニルスは再び首を傾げながら、奈々の手を引いて城へと戻った。
「ニルス様、苦手な食べ物や好きな食べ物ってありますか」
翌日の修行後、中庭のベンチで奈々がニルスに尋ねる。
日は西に傾き、石畳が橙の光をまだらに帯びていた。枯れかけた冬草が風にゆれ、どこかで小鳥が一声鳴いて黙る。冬終わりの空気はまだ冷たいが、日向のベンチだけは穏やかな温もりを保っていた。
「……なぜ聞く……というか、それを知ってどうするのです」
「暇だから。会話の取っ掛りだから、別に食べ物じゃなくても好きな色とかでもいいですよ」
「正直かつ適当すぎる」
「嫌ですか」
「いいえ……強いて言えば、砂糖菓子が苦手ですね。甘すぎるものが駄目で」
「じゃあ好きなものは」
「……肉料理、でしょうか。こってりしたものより、あっさりしたものが」
「私もあっさりが好きです。ラーメンで言うと塩派」
「ラーメン」
「あ、これも異世界にはないか。麺料理の一種です。この世界の料理だと城下の端っこにある食堂のスープが近かった」
「城下の?」
「修行の帰りに寄ったんです。美味しかったです」
「……まさか、一人で城下に行ったんですか」
「護衛の人と一緒に、クロが出てこないかなぁって行ったついでに」
神子が城以外に出た場合は行動が報告されるはずだが、そんな報告は聞いていない。少しだからいいと思ったのか、内緒のつもりだったのか。いずれにせよ、護衛には注意が必要である。
「……駄目でしたか?」
「……いや、いいのですが」
少し心配した、と言えなかった。ニルスはそれを飲み込んで、「今度は私も一緒に行きましょう」と言った。
奈々は驚いたように目を丸くし、それから、小さく笑った。
「いいんですか、王太子様は忙しいのに」
「私の業務に神子の護衛もあります」
「嘘くさ」
「……」
「まあ、でも嬉しいです。一緒に来てください」
奈々は素直に言った。ニルスは視線を前に向けたまま、「ええ」と頷いた。
夕陽が中庭を赤に染め上げ、噴水の水面が金粉を散らしたように輝いている。二人の影も長く伸びて、並んでベンチに腰かけた形のまま、石畳の上に静かに重なっていた。
+++
城下の寒風が少しだけ丸くなり、朝の霜が薄くなっても、クロはまだ見つからなかった。
奈々は猫がいそうな場所を、騎士達に教えながら探し、ニルスはクロの捜索に賞金まで懸けた。それでも、見つからない。
そして、見つからない日々が続くほど、ニルス自身にも片づかないものが増えていた。
本来は神子の管理とクロの捜索に身を入れなければいけないのに、これは一体どういうことだ。ニルスは一日に何度も奈々の顔を確認したくなる自分に気づいていた。
修行は順調か。食事は摂れているか。落ち込んでいないか。笑っているか。
ニルスは夜、執務室で書類を処理しながらこれは一体何なんだと首を傾げた。奈々が来る前はこんなことを思う相手は誰もいなかった。王太子としての役割は問題なくこなしている。仕事は順調だし、充実していた。別に孤独でもない。
しかし今は、奈々と話した日と話さなかった日では決定的に何かが違うと感じる。
「おかしい。私は神子の管理をしているだけのはず……」
「――ニルス様」
扉を叩く音のすぐ後、今しがた考えていた人物の声が聞こえた。扉を開けば、隙間から寝間着姿の奈々が見える。
執務室はランプの光だけが頼りで、書類の山が影を作っている。城の廊下は暗く、差し込む月明かりが奈々の輪郭を白く縁取っていた。
「起きてるなら少し話せますか。眠れなくて」
「……あの、こんな夜更けに男性の部屋に訪ねてくるのは……」
「部屋じゃなくて執務室でしょう」
「……どうぞ」
それはその通りである。反論も面倒で、ニルスは奈々を招き入れた。
「……クロのことを考えてたら、眠れなくなってしまって」
椅子に座った奈々がポツリと零す。静かな声だった。ランプの炎が揺れ、奈々の横顔に光と影が交互に落ちる。
「こっちの世界も寒いじゃないですか。あの子寒いの苦手だから毛布にくるまりたがって、いつもなら私の布団に潜り込んでくるんです。一体どこにいるのか……せめて、誰かが拾ってくれていればいいんですけど」
ニルスは言葉を探した。慰め方がわからなかった。しかし、沈黙で流してしまうのは嫌だった。
「……必ず見つかります」
「根拠はありますか」
「城下の捜索網を広げています。城から逃げ出した魔物——失礼、見慣れない生き物の目撃情報自体は複数上がっています。場所は城下の南区画に集中しているので、クロには間違いないでしょう。恐らく、どこかに拠点を作って落ち着いているはずです」
奈々は「そうですか」と息を吐いた。
「ありがとうございます。気を遣ってもらって」
「気を遣っているわけでは——」
「私のために動いてくれてること、分かっています」
奈々は真っ直ぐにニルスを見た。
「ありがとう、ニルス」
名前を呼ばれた。「様」なし。ニルスは少し固まった。
「……様は。ごめんなさい。うっかり呼び捨てにしちゃった」
「いいじゃないですか、二人の時くらい。私もずっと神子って呼んでしまっていましたし……ナナ」
「そっちの方がいいですね」
奈々は少し笑って立ち上がった。
「すみません、遅い時間に。おやすみなさい、ニルス」
「……おやすみなさい、奈々」
扉が閉まった。廊下の月光が一瞬射し込んで、また闇に戻っていく。
ニルスはしばらく閉じた扉を見つめていた。ランプの炎だけが静かに揺れていて、心臓はやけにうるさかった。
おかしい。これは、明らかにおかしい。
そう自分に疑問を持ちながらも、奈々と名前を呼びあったことは、とても嬉しいと感じていた。
ふたりが互いに「ニルス」「奈々」と呼び合うのが当たり前になった頃。
城下南区画の元侍女が、王宮に申し出た。
「一ヶ月ほど前から、うちに居着いている生き物がおります。小さくて黒くて、怖い顔をしていたのですが……餌を与えたら離れなくなりまして。鋭さもなくなったし段々可愛くなってきて……でも魔物だったら処分されてしまうのかと思い匿っていました……申し訳ありません。賞金は結構ですので……」
「いえいえ! 貴女はクロの恩人です……! ありがとうございますぅ……!」
「ナナ、泣くより早く会いに行ってあげないと」
「はっ、そうですね!」
ニルスが奈々を連れて確認に向かうと、家の台所は昼の日差しが差し込んでいた。窓から薄い光が斜めに落ち、床に四角い光の染みを作っている。その温かな光だまりの真ん中に、丸くなって眠っている黒い生き物がいた。気配に気づいたのか、目を覚まし、金色の目でこちらを見ている。
「暗がりで目が光り、確かに魔物のようだが……顔は可愛いと思う。条件に相違はない」
「クロー!」
奈々が対面した瞬間、クロはとりあえず条件反射で逃げようとしたが、行動を読んだ奈々に捕まえられ、ぎゅっと抱きしめられた。
「よかった……! 怪我してない? ちゃんとご飯食べてたんだね……少し痩せた……いや、変わってないか。丸い、丸いね、クロ」
「肉の端切れや小さい魚をやっていたのですが、宜しかったでしょうか……」
「バッチリです! 本っ当にありがとうございます~……!」
抱かれていることが不満なのか、丸いに怒ったのか、クロは不満げに「ぬーん」と鳴く。しかし奈々が頭を撫で続けると、ゴロゴロと喉を鳴らし始める。低く、穏やかな振動が台所の空気に溶けていった。
「……何ですかこの地響きのような音は」
「安心した時とか甘えた時、猫は喉を鳴らすんですよ」
「ねー?」と奈々が嬉しそうにクロを撫でて顎を擽り、クロは喉を鳴らしながら額を奈々にぐりぐり押し付けている。日差しが二人と一匹を丸く包んでいた。それを見ていたニルスは、胸の中に奇妙な感情が生まれるのを感じた。
よかった、と思った。心からよかったと思った。奈々が笑っているから。奈々が泣きそうになっているから。奈々が嬉しそうだから。
ニルスは考えるのを無理やり止めようとしたが、答えはもう出ているような気がする。
「はぁ~~~久しぶりの猫吸い……ちょっと臭いや」
奈々はクロを抱きしめたまま、黒い毛皮にしばらく顔を埋めていた。肩がわずかに震えている。泣いているかと思ったが、次の瞬間、小さく笑う声が漏れた。
「……よかった。本当に」
その声音は、ニルスがこれまで聞いたどの声よりも柔らかい。
神子だからではない。この国のためでもない。
ただ、この奈々が笑っているのを見ていたかった。
見つかったクロは、正式に王宮の住人となり、クロを保護してくれた女性は、子育てが一段落した元侍女かつクロの扱いに慣れているということで、奈々付きの世話係として王宮に勤めてもらうことになった。
「見つかってようございました。しかし……あの生き物の扱いはどうしましょう」
神官長の質問にニルスは「扱いは決まっています」と答えた。ニルスは奈々とクロの安全と居場所の確保を約束していて、それは父王も知っている。王宮で保護でも充分だとは思うが、念には念を、だ。
「神子が連れてきたこの世界に一匹しかいない生き物……神獣ということにしましょう」
「は?」
「神獣として、王宮での地位を保証します。異論は?」
「な、ないですが……」
「では決定です」
こうしてクロは、世界でただ一匹の「神獣」となった。
当のクロは、そんなことを知る由もなく、新しい住み家の窓辺で適当な毛づくろいをしていた。
クロが王宮の住人になってしばらくして。
ニルスが書類を届けに奈々の部屋を訪れると、奈々がソファに座って本を読んでいた。その膝の上にクロが丸まって眠っていたのだが、その光景はニルスの心を、ざわつかせた。
「……邪魔しました」
「あ、ニルス。入っていいですよ」
「……いや、書類だけ」
「ごめんなさい。クロが膝に乗っていて動けないので、持ってきてもらってもいいですか?」
「……」
そう言われては断れない。ニルスが部屋に入ると、クロはゆっくり目を開き、金の目で品定めするかのようにニルスを見据えていた。
「……」
「……う~……」
「……これは怒っているのですか?」
「あー、ほぼ初対面だからかな。ゆっくり手を出してみてください。指の匂いを嗅がせてあげると安心するから」
奈々に言われるまま、ニルスは人差し指を差し出すと、クロは鼻をひくひくさせてしばらく匂いを嗅いで……そっぽを向いた。
「……嫌われましたか」
「いや、そっぽ向くのは拒絶じゃないです。嫌いだったら逃げるか引っ掻くか叩いてくるから」
「……そうですか」
ニルスはその後も、時折奈々の部屋を訪れた。
クロは最初こそ警戒していたが、三日後には匂いを嗅いでそのまま去り、五日後には一瞥だけして眠り続け、一週間後にはニルスが座ったソファの端っこに乗ってきた。
「仲良くなってる」
奈々が言った。
「なってません」
「クロが自分から近づくの、珍しいんです。気に入られたんですね」
ニルスは内心浮かれたが、問題はここからだった。
ある日の昼下がり。
昼の光がカーテン越しに差し込み、部屋全体が薄い金色に染まり、奈々の寝顔と黒い丸い塊が、穏やかに並んでいる。
ニルスが奈々の部屋を訪れると、奈々がソファで昼寝をしていて——クロがその上に乗っていた。
具体的には、奈々の胸の上に乗り、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、額を奈々の顎に押しつけていた。
「……」
何という状況だ。羨ま……微笑ましい。
「私も……」
いや、何でもないと内心で否定していると、奈々が目を覚ました。
「あ、ニルス。また来てくれたんですか」
「……ええ」
「クロがどいてくれなくて。膝も胸もぜんぶ占領される。重いんだこれが」
奈々は苦笑しながらクロを抱え直した。クロは「ぬー……」と文句を言いながらも、大人しく奈々の腕の中に収まり直して、ニルスを見やる。まるで奈々は自分のものだと言わんばかりに。
ニルスはその光景を見て嫉妬、これは嫉妬だと唐突に理解した。しかし相手は奈々の大切な家族、しかも自分が神獣として扱うと決めたものだ。
排除は得策ではないどころか論外だ。なら、やるべきことはひとつである。
翌日から、ニルスは当然のような顔で奈々の部屋に来ては、ソファに座る。クロが奈々の膝に乗ろうとすると、自然な動きで奈々の隣に座ってクロより先に肩を寄せる。
するとクロは奈々の膝の半分とニルスの太ももの端に乗ることになり、お互いを牽制しながら微妙な距離感になる。
ニルスはクロを牽制しつつ懐柔しようとしていた。
「なんかさ、クロとニルスが仲悪いみたいに見えるって侍女さんに言われたんですけど」
「そうですか」
「でもニルスって毎日クロのために、いいご飯手配してくれてるじゃないですか。玩具も揃えてくれて」
「……神獣の待遇として」
「こないだクロに肉の切れ端あげてたの見ましたよ」
「……神獣への供物として」
「嘘くさ」
ニルスは視線を窓の外に向けた。
「……ナナが可愛がっているから。仕方なく、良くしてやっているだけです」
「ふうん」
奈々は笑った。
「こっそり撫でていたのも、仕方なく?」
「……見ていたのですか」
「見てました」
「……」
「可愛いでしょ、クロ」
「……まあ、そこそこ」
ニルスは少し間を置いて、ようやくそう答えた。
「嘘つき」
「そこそこです」
奈々はくすくすと笑い、ニルスはぶっきらぼうに返してしまう。クロはそんな二人の間に割り込むように「にゃあ」と鳴いて、奈々の膝に前足を掛ける。ニルスはそれを見て、ごく自然な動作でクロの背中を撫でた。
クロはしばらく固まって——やがてゆっくりとゴロゴロ言い始めた。
「……仲良くなってるじゃないですか」
「そこそこです」
ニルスはそう繰り返し、奈々はからから笑った。
クロが見つかり不安が解消されたからか、奈々の修行も一気に進み、実際に瘴気を浄化していく段階へと進んだ。
「ここ、ですか」
「はい」
地面から立ち上る黒ずんだ靄は、瘴気だと神官は言った。はっきり見えるほど濃くはないが、放置すれば頭痛や倦怠感を引き起こす。井戸水にも僅かに臭気が混じり、段々と飲めなくなっていくのだが、敏感な子どもや体の弱い老人などには既に影響が出始めているという。
奈々は井戸の縁に手をかけ匂いを嗅ぎ、「臭い……」と顔を顰めている。ニルスも同じように鼻を近づけると、確かにどこか錆びた金属とカビ臭さが混じったような匂いがした。
「無理はなさらずに」
「はい。とりあえず、やってみます」
奈々は目を閉じ、呼吸を整えた。手から零れた優しい光が井戸の縁から水面へと落ちていく。
ざわり、と空気が震えた。
風もないのに、周囲の洗濯物がわずかに揺れる。井戸水の表面も一瞬だけ淡く光り、それから静まった。
「……いけた?」
奈々が目を開けると、神官が慌てて桶を下ろし、井戸水を汲み上げ恐る恐る匂いを確かめ――目を見開いた。
「……臭気が、ありません」
近くで様子を窺っていた女性が、半信半疑で水をすくい、恐る恐る口に含む。
「……おや。いつもの、嫌な味がしない」
ぽつりと漏れた声は、驚きと安堵が混ざっていた。奈々は井戸を覗き込み、首を傾げた。
「……変わりました?」
「明らかに」
神官も深く頷く。ニルスも水の匂いを嗅いだが、普通の水の匂いだ。
そのとき、小さな男の子が奈々の服の裾を引いた。
「ねえ、もう大丈夫? 遊んでいいの?」
「うん? どうしてダメだったの?」
「お母さんが、体に悪いからって」
奈々は一瞬だけ息を呑み、それから、にこりと笑った。
「大丈夫。多分もう平気……ですよね?」
「はい」
男の子はぱっと顔を輝かせ、走っていった。地面を蹴る軽い足音が、やけに澄んで聞こえる。
それが、瘴気で苦しんでいたこの国にとってどれほど大きなことか。
奈々は井戸を覗き込んだまま、小さく呟いた。
「よかった。水って大事ですよね」
「ええ。本当にありがとうございます」
「どういたしまして」
身近な場所から順に、瘴気を奈々が神子として浄化し始めた頃。
ニルスはいよいよ自分の感情を無視できなくなっていた。
奈々が危ない場面では気が気でなかった。奈々が笑うと自分も笑いたくなった。奈々が落ち込んでいると何か言葉をかけたくて仕方なかった。奈々が城下に行くと言えば全て自分がついていきたかった。奈々が他の誰かと楽しそうにしていると、それがたとえ神官であっても妙な気持ちになった。
これを、恋と言うのだろうか。しかしニルスには経験がなかった。経験がないので確かなことは言えないが、こんなに心をひとりが占めるのは、恋だろうとは思っていた。
しかし、どうすればいい。
相手は瘴気を浄化するために召喚された神子だ。この世界の人間ではないし、そもそも奈々が自分をどう思っているかわからない。
とにかく確かめてみるか。いや、どうやって。それを聞くというのは、ニルスが神子を好きだと言っているも同義だ。
ニルスがぐるぐると考え込んでいたある夜、奈々の部屋の前を通りかかると、中から声がする。
「クロ、こら! そこは駄目! あー! 落ちる、落ちる——!」
どしん、という音が響き、ニルスが慌てて扉を開けると、奈々が床に倒れていた。
「大丈夫ですか!」
「……いたた。大丈夫です。クロが本棚に登るの止めようとして……」
どうやらクロが本棚の上から飛び降りようとして、奈々の背中を踏み台にして着地したらしい。飼い主にこんな仕打ちをした犯人は部屋の隅で伸びをして、くるりと丸まった。反省の色が見えない。
ニルスがそれを見て呆れながら手を差し出し、奈々がそれを掴んで立ち上がりかけ——体勢が崩れる。
気づけば、奈々がニルスの胸に倒れ込んでいた。
近い。顔が、近い。
しかしなぜか体は固まってしまい、離れられなかった。奈々の黒髪がニルスの顎に触れ、微かに石鹸の香りが鼻をかすめた。
「……ニルス? 顔が赤いよ」
「……気のせいです」
「全然気のせいじゃないと思う」
奈々は少し笑った。そして少し真剣な顔になった。
「ひとつ聞いていいですか」
「……どうぞ」
「私のこと、どう思ってますか」
「……神子だと」
「そういう意味じゃなくて」
ニルスは黙った。
奈々はまだニルスの胸のあたりに手を置いたまま、真っ直ぐにニルスを見上げていた。ランプの光が奈々の黒い目に映り込んで、小さな炎になっている。
「……私は」
ニルスは観念して口を開いたものの、珍しく言葉に詰まった。
「……貴女のことが」
「うん」
「……ずっと、気に、なっています。ただそれが、どういう意味を持つのか、あなたが私をどう——」
「『好き』ですよ」
「え」
ニルスは本気で聞き間違いだと思った。口を開こうとしたが、言葉が上手く出てこない。そんなニルスを奈々は真っ直ぐ見つめたまま、少しだけ頬を赤らめ、はにかんでいる。
「だって、分かりやすいんですよ。クロのことになるとすぐ顔に出るし、私が少し咳しただけで大騒ぎするし」
「それは当然の配慮で……」
「ううん。配慮じゃない。優しさです」
奈々はそう言って、ニルスの胸元を軽く掴んだ。
「私のこと、大事に思ってくれてるでしょう」
その一言で、胸の奥にしまっていたものが崩れた。
「……ええ。思っています」
自覚するより先に、言葉が出た。
「あと、クロもね」
「それは、そこそこです」
「何でそこは頑ななの! この世界の都合で召喚された時は正直『えぇ……』って思いましたけど、最初、私の姿を見て、神子だからじゃなくて普通に心配してくれたでしょう。その後もクロのことを一生懸命探してくれて、神獣にして守ってくれた」
「それは神子のために……」
「本当にそれだけ?」
「…………いえ」
奈々は笑った。すべてお見通しだと言わんばかりに黒い瞳が笑っている。唇の端がほんの少し持ち上がって、それだけで充分だった。
「だいぶ前から気づいてましたけど、ニルスが言い出すの待ってました。言い出しそうで言い出さないから、しびれを切らしちゃいました」
「……」
ニルスはしばらくの間、奈々を見つめ、こほん、と誤魔化すように咳払いして、奈々の肩に手を置いた。
「……私も……好きです」
観念してニルスが好きを返せば、奈々はホッとしたように息を吐いた。奈々も緊張していたようで、笑って誤魔化すように視線を落とした。
「よかった。じゃあそういうことで」
「……そういうことで、とは」
「好き同士ってこと。今後もよろしくお願いします、ニルス」
「……よろしく、お願いします」
ニルスは口元が緩みそうになるのを堪えた。いつもならそのまま堪えるところだが、今は堪えることなく奈々に向かって笑顔を向けた。
クロはそんな二人を部屋の隅から一瞥して、またそっぽを向いた。「興味なし」といった様子だったが、その後しばらくして奈々とニルスの足元にやってきて体を擦り付けてきたので、認めてくれてはいるらしい。
ニルスは心の中で「よかった」と思ったが、そちらは敢えて口には出さなかった。
奈々の浄化が国中に広がり、水の匂いに誰も眉を顰めなくなった頃――奈々はニルスと結婚し、ルーゼン王国に留まることになった。
クロは相変わらず神獣として扱われ、城下の民にも人気者になった。「縁結びの神獣」「会いに行くと幸運が訪れる」という噂が広まったせいで、多くの人がクロを見に来るようになったが、クロは大体日当たりのいい窓辺か、奈々の膝か、ニルスの執務室の机の端で丸まっていた。
ちなみに、ニルスの執務室に来るようになったのは、比較的最近のことだ。
「……何ですか」
「にゃあ」
「仕事中なんですが」
「にゃあ」
ある日ニルスが書類を処理していると、クロが来て机の端に乗り、そのままじっとニルスを見つめている。
ニルスはため息をついて、ちょうど脇に置いてあったクロ用の干し肉を一切れ差し出すと、クロはそれを食べ、くるりと丸まり机の端で眠り始めた。日によっては書類の真ん中や本の上で堂々と眠るので、今日は割と良心的である。
「……」
ニルスは書類に目を戻し、そっとクロの背中を撫でる。クロはゴロゴロと喉を鳴らして、ごろりとお腹を見せた。獣としていかがなものかと思うほどふくよかな腹が、陽の光を受けてわずかに艶めいている。
「仲良し」
「見ていたのですか」
「さっきから」
「入ってきてください」
奈々は部屋に入ってクロを見て笑った。
「クロ、ニルスの机で寝るの好きですよね。可愛がってくれるって分かってるから」
「……そこそこです」
「まだそこそこって言う」
「そこそこです」
奈々はくすくすと笑って、ニルスの肩に頭をもたせかけた。
「ありがとう、クロの面倒見てくれて」
「……ナナが可愛がっているから。仕方なく」
「うん、知ってる。仲良くしてくれてありがとう」
奈々は笑ったまま言った。
「でも仕事の邪魔だよね。クロ、部屋に帰ろう」
「……起きなさい。獣としてその眠り方はいかがなものかと思いますよ」
「ふふ」
ニルスはそう注意するが、クロは変わらずヘソ天のまま眠っていた。腹を見せてゴロゴロと。
この世界で唯一の、黒い神獣は王太子と神子の間で、今日も平和に過ごしていた。
それからもクロは、世界で唯一の猫として多くの人々に可愛がられていく。
けれど風呂の日だけは別で、その日ばかりはニルスも奈々の助けに呼ばれるのだが、二人がかりでも大惨事になるのは変わらなかった。
数年が経っても王宮の風呂場から「痛い痛い!」「こちらを!」「ぎゃあ!」という声が聞こえる日が、月に一度やってくる。城の者たちは皆、その日を「王太子夫妻による神獣の沐浴の儀」と呼び、遠巻きにしているのだった。
もっとも、当人たちはそんな呼び名など知らない。ただ今日も、黒い神獣に引っかき傷を増やされながら、湯気の向こうで笑っている。
異界から来た神子と、この国の王太子。世界を救ったふたりのはずなのに、風呂場では毎月敗北している。
それでも――その騒がしい音が聞こえるたびに、城の者たちはどこか安心したように顔を見合わせるのだ。
この国は、今日も平和だと。




