第9話「襲撃と呼称変更」
昼の依頼を終えて、夕方の風。通りは少し冷たくなって、旗の端が乾いた音を立てる。指先はぽかぽか、足はまだ前に行きたがっている。胸の奥がトン、と一度鳴って、すぐ落ち着く。ご褒美は温かいの、そして甘いの、ちょっとだけ。
「今日もよく動いた。——少年、帰りは裏手を抜けよう」
「了解。温かいのを食べて帰ろう。甘いのも少し」
倉庫街の細い通りに入る。石壁が近い。足音が吸い込まれていく。
鈴が、一度だけ鳴った。胸の奥がキュッと締まる。嫌な音。出番、かも。
──スイッチ。
前、右、上。視線の流れを切って、肩を石壁に寄せる。影の中から三人。布帽子と、二人。
「通名、教えてくれる?」
布帽子が笑ったように言う。指に鈴の紐を巻いている。「客寄せだよ」
「市場は終わった。——退いて」
リセの声は低いけど柔らかい。その一瞬の隙に、別の影が音字の紙片を振った。「なぎ、なぎ、な——」
「なぁぎ」
わざと伸ばして返す。喉の奥で息を丸め、母音を滑らせる。足は止まらない。視線は流す。よし、練習の成果。
鈴の音。石が跳ね、縄が投げられる。ボクは膝を落として滑り、足元の縄を踏む。脇から一人。刃が光る。
刃が袖をかすめ、布が裂けた。上腕に浅い線。ひりっとして、頭が冷える。——近い。
リセが半歩前に出て、鞘で刃をはじいた。火花。男の手首が跳ねる。ボクはその肘を払って、膝裏を軽く蹴る。体重が抜ける。一本。
「右上」
ボクが言う。リセが視線だけで頷き、跳ねた影の足を払う。石壁に背中が当たる前に、ボクが前襟を掴んで引く。二本目が崩れた。
鈴が三度、早く鳴った。紙片の声が続く。視線が絡む。足が絡まるような、嫌な引きが来る——
ボクは足元の砂を親指で払って、細い砂幕を一瞬だけ上げる。視線と音は、ほんの少しの遮りで崩れる。呼吸を短く二つ。相手の二拍子に、合わせず、ずらす。
マントがふわりと肩にかかり、強い腕が腰を抱いた。リセだ。胸元に引き寄せられて、背中が壁から離れる。うわ、近い。匂い。心臓が二度跳ねた。
「凪——!」
耳元で彼女の息が強くなる。鞘が鳴る。鈴の男の手首へ剣の腹が素早く入って、紐がはじけた。紙片が散る。頼もしい。好き、こういう瞬間のリセ。
ボクは足を送って、転がった紙片を靴で踏み潰す。もう一人の手首に指を掛け、軽く捻って地面へ。肘で石を叩いて、刃を落とさせる。終わりが近い。
遠くで衛兵の笛が鳴った。巡回の足音が近づく。倉庫の見張りがこちらを振り向いた。
布帽子が舌打ちして後退る。「続きは、また」
鈴の紐を袖に隠し、影へ消える。残りも散った。
静かになった路地で、ボクは息を吐いた。胸の鼓動が、ゆっくり下がる。
「大丈夫?」
「うん。助かった。——いま、『凪』って」
リセが瞬きをする。頬が少しだけ赤い。視線が、ほんの少し揺れた。
「あ……その。呼びたくて、呼んだわけじゃ」
「嬉しかったよ」
笑って言う。胸の奥が軽くなる。「助かった、リセ」
「少年……いや、凪。怪我、見せて」
「うん。袖、ちょっとだけ切れた。洗えば大丈夫。……貼り薬、甘い匂いのやつがいい」
上腕に浅い擦り傷。リセが水袋を差し出し、布で押さえてくれる。手が丁寧で、温かい。
「名前を呼ぶの、危なかったね」
ボクが言う。
「……ごめん」
「いいよ。嬉しかったから。次は『なぁぎ』でも通じると思う」
「……努力する」
「ふふ」
「練習、続けよう」
石壁にもたれて、少しだけ空を見上げる。風が旗を鳴らす。遠くで鐘。
「帰ろう。温かいのにしよう。花飾りは、今日はないか」
「ない」
「じゃあ、甘いの」
「賛成」
通りへ出る前、リセが小さく呼んだ。「凪」
「うん」
それだけで、胸の奥が軽くなる。通名で、ちゃんと呼ばれるのは、いい。
名前は秘密のまま。通名は、凪。今日は、そう呼ばれた。
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土日火木 21時更新予定です。お楽しみに。