第7話「被害者救出と言霊司」
朝いちのギルドは、木の匂いとパンの匂いでお腹が鳴りそうだったけれど、受付嬢の顔で一瞬で切り替わる。「救助要請です。民家で倒れている方がいます。言霊司からの依頼です」
「了解。すぐ行く。場所は?」
「西区の路地裏。通名は『藍』さん」
「行こう」
西区は洗濯物の匂いがする。紐に渡した布が風で泳いで、石段が続く。胸の奥がトン、と鳴る。間に合う、急ぐ。半開きの扉の前に青い紐——神殿の印。深呼吸一つ、ノック二回。
「入るよ」
リセの声は静かで、頼りになる。返事はない。中は薄暗い。机の上の器が一つ割れていて、床には若い女性が横向きに倒れていた。光が頬をかすめている。生きてる? 膝をついて、指先で肩に触れる。脈はある。呼吸は浅い。まぶたがぴくり。
「藍さん」
名前を呼びそうになって、舌を奥で止める。駄目。名は刃にもなる。
「名、呼ばないで」
リセが小声で合図。わかってる、でも言ってもらえると、心が締まって集中が増す。
「うん。——聞こえる? こっちは『凪』。危なくないよ。通名だけでいいからね」
部屋の隅に、紙の束が散っていた。筆致の違う断片が混ざっている。こういうの、危ない。拾わない。——でも、見る。線の始まりの“とめ”が濃くて、終わりが軽い。練習の線。逆に、始まりが薄くて途中で重くなるのは、盗み見て写した手。混ざってる。空気を指で切ってリセに合図。彼女がうなずいて、扉の外へ視線をやる。
「神殿、呼ぶ」
「お願い」
心臓が少し早い。息は浅くしない。藍さんの手を取って、掌の温度を確かめる。温かい。大丈夫、間に合う。窓の隙間から祭礼歌が遠くで揺れて聞こえた。だめ、口の形が勝手に祈りをなぞりそう。飲み込んで、笑顔に戻す。
薄色の衣の言霊司が駆け込んできた。灰の瞳、薄青の帯、指先には墨の染み。香の匂いがほっとさせる。「通名は?」
「藍さん。真名は不明。呼びかけで倒れた可能性が高い」
「了解です」
彼女は懐から銀糸の小さな輪飾りを取り出した。「鎮名の輪です。声の刺さりを弱めます。支えて」
「手伝うよ」
輪を持つ手を支える。短い祈りの言葉が紡がれて、節回しが耳の奥の古い感覚を撫でていく。(この旋律、知ってる。好き。けど今は)——飲み込む。今は藍さんの呼吸だけを見る。
「息、落ち着いてきた」
リセが脈を測って言う。「搬送しよう。担架は?」
「ここに」
言霊司の従者が布の担架を広げる。三人で呼吸を合わせて持ち上げ、玄関の段差を越える。路地は狭い。人が集まりはじめている。声が重なる前に、先にこちらが声を重ねる。
「通名で呼んであげてね。真名は言わないで。ゆっくり通って、ありがとう」
人の輪が斜めに割れていく。視線の流れがほどけるのを、手で示して導く。こういうの、好き。人が安全に動ける道を作るのは、すごく気持ちいい。
神殿の門前は静かだ。言霊司が先に走って扉を開け、簡易の寝台へ運ぶ。藍さんの呼吸は浅いけれど、さっきよりぜんぜん均一。「よし」と胸の中でガッツポーズ。
「外因の可能性が高いです。……“呼び”の痕があります」
言霊司が散らばっていた紙束の控えを見ながら言う。「書き損じの署名が混ざっていたようですね。名の断片は危険です」
「署名?」
「個人の名を書いて練習したもの。断片でも、悪用されることがある」
「じゃあ、捨てるときは——」
「破って、水に。神殿に持ち込んでもらっても構いません」
「了解。ギルドの掲示にも出す」
藍さんの指がかすかに動いた。まつ毛が震える。椅子を引いて、できるだけ柔らかい声を選ぶ。
「凪です。ここは神殿。安全だよ」
うっすら開いた瞳が、こちらを見つける。口が小さく動いた。「……あい」
「うん、通名でいい。無理しないで」
彼女の視線が、言霊司の輪飾りに留まる。「それ……きれい」
「鎮名の輪。名前に刺さる言葉の勢いを、少し鈍らせます」
言霊司が穏やかに答える。「今日は、よく休んで。通名で呼び合って」
リセが立ち上がる。「凪、外を回ってくる。呼びかけの主が近くにいるかもしれない」
「一緒に行く」
「任せて。私は少し聞き込み。君は門前で流れを整えて」
「了解。門は守る、得意」
神殿の階段で、通りの人たちに短く伝える。「通名でね。真名は——大事に、だよ」
頷きが波みたいに広がって、蜂蜜の匂いが風に乗る。胸が少し緩んだ。こういう時、街はちゃんと優しい。
戻ると、言霊司が小さな紙片を包んでいた。先ほどの書き損じの一部だ。封じ紐を二重にして、印を一つ。「お願いします」
「これ、解析に回します。あなた方が拾った札片(遺構の)は、別部屋で保管しています。関連が出たら、ギルド経由で」
「助かる」
「少年」
リセが戻ってきた。眉が少しだけ険しい。「路地で、名を尋ねていた男がいる。布帽子に鈴」
「市場の彼だね」
「たぶん」
リセは言霊司に向き直る。「顔見知りの衛兵に伝えます。神殿側でも警戒を」
「承知しました」
手続きと聞き取りが終わるころ、藍さんは浅く眠っていた。頬の色が戻っている。よかった。本当に、よかった。
「今日はここまで?」
小声で尋ねると、リセがうなずいた。「今日はここまで。——凪、よく動いてくれた。ありがとう」
「どういたしまして。こういうのが好き。いっぱい動けて、嬉しい」
神殿を出ると、陽が傾きかけていた。通名札を指で弾く。軽い板が、陽の下で小さく鳴る。
名前は秘密のまま。呼び方ひとつで、守れるものがある。うん、それが好き。明日はもっと、上手くやる。わくわくしてきた。
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土日火木 21時更新予定です。お楽しみに。




