第4話「市場騒動と通名の掟」
朝から通りがうるさい。いい匂いがする。焼いた根菜と、油の音と、果物の甘い香り。屋台がびっしり並んで、旗がひらひらしている。
「今日は見回りを兼ねて、市場の警備だよ」
リセが言う。「人が多い。——少年、離れないで」
「了解。……うわ、蜂蜜の焼き菓子。いい匂い」
「あとで。今は仕事」
「わかってるって。終わったら、一個だけ」
露店の軒先を抜けながら、ボクは通名札を指で軽く弾いた。木の板の二文字が薄く揺れて見える(通名札は“通り名”を刻む札。名をぼかす軽い護りが入ってる)。名伏せの紋は、上衣の内側に白墨で描き直した(名前に絡む術の効きを少し“滑らせる”簡易符)。二本、曲げて、止め。手が勝手に最短の描き順を選ぶ。(この描き方、昔からだ)
「君、紋の線……手早いね」
「好きなんだ、こういうの。お守りの書き癖、身体に残ってて」
「頼もしい」
通りの中央で、小さな輪ができていた。子どもが泣いて、母親が抱き上げている。足元の石が薄青く、きらっと光った。
「何があったの?」
ボクが声を落として尋ねると、近くの屋台の主が小声で答えた。「名を呼ばれたって。『そこの君、名前は?』って。返事した途端、足がすくんでね」
「軽い足止めだね」
リセが顔をしかめる。「声と視線で歩調を鈍らせるタイプ。——少年、どうする」
「まず、目を逸らさせる。次に道を作る」
ボクは母親と目を合わせて、手を上にひらひら振った。「こっち見て。深呼吸して。——いいね」
もう片手で地面の光を靴裏でこすり、線を崩す。青いきらめきがほどけた。
旗を一本借りて、高く掲げる。「人の流れ、こっちへ」。手短に合図を二つ。通りの端に小さな迂回路を作る。人が流れれば、音と視線は散る。散れば、足は自由になる。
「君」
背中に乾いた声。視線を向けると、布帽子の男がひとり、鈴付きの紐を指に巻いている。目が笑っていない。
「名を訊くの、やめよう」
ボクは言った。「それ、遊びじゃないよね」
「ただの客寄せだよ。名前を呼ぶと、集まる」
「じゃあ、試してみて」
男の目が細くなる。「君は?」
——視線がまとわりつく。指の鈴が揺れて、音がノドに絡む。
──スイッチ。
ボクは半歩だけ位置をずらし、人流の“向き”をひとつ変える。男の視界から一瞬消える。紐の鈴に指先だけ触れて、逆巻きに回す。音が裏返って、男の喉がひゅっと鳴った。旗を低く一度振って、視線をさらに切る。設計どおり、流れが戻る。
「やめておこう」
リセの声が、柔らかいけど低い。「ここは市場だ。客を縛る遊びは、二度としないで」
布帽子の男は肩をすくめ、紐を袖に戻した。目だけが、まだ笑っていなかったけど。
「少年、ありがとう。……次の輪」
「了解。行こう」
通りのあちこちで、小さな足止めが起きている。呼びかけに反射して足が止まる、それだけの軽い術。だけど、荷車の流れが乱れると、それだけで怪我人が出る。——なら、流れを設計する。
「旗、もう一本。木箱を二つ、こっちに。——ありがとう」
屋台の主と短くやり取りして、即席の“見えない柵”を作る。人は旗と箱の斜めの列を本能的に迂回する。合図は肩越しの指二本。リセが荷車の手綱をゆっくり引き、速度を落としてもらう。男の鈴は鳴らない。鳴らす余地が、もうない。
「名前を訊かれたら、あなたの“いつもの呼び名”だけで返して」
ボクはすれ違いざまに声をかけていく。「それで十分」
「はい……」
露店の少女に、ボクは上衣の内側を見せた。「これ。名伏せの紋。名前を呼ばれたときの効きを少し鈍らせる、お守りみたいな線。こう、二本曲げて、ここで止め。やってみる?」
「できるかな」
「大丈夫。ほら、ゆっくり」
少女の指が白墨を握って震える。ボクは手の甲を軽く支えて、線の角度を整えた。描き終えると、少女の目がぱっと明るくなる。旗の陰で、さっきの列が自然に流れ直す。よし、検証。効いてる。
「ありがとう」
「うん。これで少し、名前が滑るよ」
声かけを続けながら通りの端へ回る。新しく「通名でどうぞ」の札を掲げた屋台に軽く頷いて進むと、古道具の屋台が目に入った。錆びた鈴、欠けた木版、古い布。視界の端で、裂け目のある木片が光を吸う。(……この彫り)
口の奥で、言葉が先に形を作った。祈りの定型。舌が勝手に並べようとして、ボクは唇を結ぶ。今は、違う。
「少年?」
リセが小さく首を傾げる。
「なんでもない。あとで、神殿に聞いてみたいだけ」
「了解。——あ、あっち」
通りが急にざわついた。荷車と荷車の間で、人の流れが固まっている。呼び声が重なり、いくつも「君」「ねえ」が空中で絡む。
「視線を切るよ」
ボクは旗竿を一本借りて、布を高く掲げた。「こっち見て。大きく息」
「君、上手いね」
「好きなんだ、こういうの」
荷車の車輪が石を噛む音。誰かがつまずき、悲鳴が上がる。
──スイッチ。
足音がぶつかる前に、ボクは滑り込んで肩で受け、体重を流す。押された子を抱えて、横へ。リセがその背に腕を回し、荷車の手綱を引く。車輪が止まり、息が戻る。
「無事?」
「う、うん……」
「よかった。お母さんのところまで行こう」
小さな騒ぎが、少しずつほどけていく。ボクは旗を返して、リセと目を合わせた。
「少年、助かった。……君の動き、目の前で見ると勉強になる」
「ありがと。リセの止め方も好き。堅いけど優しい」
「そう?」
「うん」
昼前、通りを流れる声の質が変わった。からかうような呼びかけが減って、代わりに「通名でどうぞ」「名は大事に」の看板が増えていく。さっき教えた紋を、真似して描く屋台まで出てきた。
「いい流れ。……お昼、行く?」
「行きたい。さっきの蜂蜜の焼き菓子」
「一個だけ」
「二人で半分こ、なら二個でも実質一個」
「理屈がおかしい」
「でも、嬉しい」
屋台の陰で、さっきの布帽子の男がじっとこちらを見ていた。目が笑っていない。
「付かれてる」
リセが低く言う。
「うん。距離、取ろう」
ボクは屋台の裏手へ、通路を二本ずらす。人流の向きを斜めに切って、視線から外れる。
──スイッチ。
角を回った先で止まり、袖の内側の紋を親指でなぞる。布帽子が曲がり角に差しかかる。リセがさりげなく立ち位置をずらし、見えない壁を作った。
「市場では、やめておこう」
リセが穏やかに言う。「次に同じことをしたら、神殿と衛兵に話が行く」
「客寄せだって言ったろ」
「怪我人が出る客寄せは、やめるんだ」
男は舌打ちして、通りの人波に紛れた。鈴の紐が一度だけ鳴る。耳に嫌な余韻が残った。
「……さて」
ボクは肩の力を抜いた。「約束の焼き菓子」
「仕事の報告が先」
「はーい。報告、焼き菓子、半分こ」
「順番が増えてる」
神殿へ向かう途中、古道具屋の木片を思い出す。あの刻み。口の奥に、祈りの言葉の形だけが残っている。音にはしない。ただ、懐かしい。
「少年」
「ん?」
「さっきの紋の教え方、優しかった。……助かったよ」
「どういたしまして。こういうの、好きなんだ。名前を守るの、気持ちいい」
「いい言葉だね」
鐘が鳴る。市場の喧噪が少しだけ和らぐ。ボクは通名札を指で弾いた。軽い板が、陽の下で小さく鳴る。
名前は秘密のまま。通名で堂々と。うん、こういう日も好きだ。
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土日火木 21時更新予定です。お楽しみに。