第3話「小迷宮の共闘」
朝の空気はきゅっと冷たく、迷宮口の吐息はしっとり湿っていた。石段の下から吹き上がる風に、古い苔と鉄の匂いが混じる。出る前に、宿の湯で指先を温めてきたから、今は刃の感覚がいい。個室が静かだと、準備がすいすい進む。こういうの、本当に助かる。
「今日は簡易調査。無理はしない。地図づくり、罠の有無、魔獣の気配だけ。——少年、いいね」
「了解、任せて。最初の一歩をきれいに刻もう」
装備の確認。革手袋、短いロープ、油の染みた布。小さなランタンの火を絞り、背のポーチに白墨を差し込む。ナイフの刃を指の腹で軽く撫でると、いつもの返事が指先から戻ってくる。うん、今日も大丈夫。
「合図はいつも通り。止まる、下がる、見る。名は呼ばない」
「名は呼ばない。よし、忘れない」
口にすると、気持ちが締まる。通名札は胸の内ポケット。名伏せの紋は衣の裏。音が響く場所ほど、言葉の扱いは慎重に。
石段を降りるにつれ、外の音が遠のく。壁の縁に白墨で印をつけ、分岐では重ねる。靴底に伝わる砂の粒の大きさで、誰かが最近通ったかどうかだいたいわかる。ここ数日に踏まれた気配は薄い。静かな迷宮は、呼吸が合うとぐんぐん進める。
「空気が動かない」
「塞がってる区画があるかも」
最初のホールは狭い。天井の梁が低く、身を屈めると肩が触れる。左の壁に、古い金具が並んでいた。リセが視線で問う。ボクは首を横に振って合図——やめておこう。落ちるものは、落ちる。
「触らない。ばねが死んでても、落ちるものは落ちる」
「了解。身軽に行こう」
細い通路へ。前をボク、後ろにリセ。足裏で床の段差を拾い、指先で壁の段を確かめる。角の手前で止まって、鏡片で先を覗く。反射の中に、暗い塊が二つ跳ねた。
「二。小さい」
「行ける?」
「行ける。癖、見える」
呼吸を二つ置いて、位置を合わせる。
──スイッチ。
一歩入ると、暗がりから影が跳ねた。鼻面が低い。牙が光る。足首を狙ってくる癖。覚えてる。つま先で床を叩き、わざと半歩遅らせて踏み込む。影の頭が上がった瞬間、ナイフの背で顎を打つ。もう一体は横から。リセの剣の腹が滑り込み、壁に叩きつけて気を奪う。息が合うと、楽しい。
「早いね」
「軽いのは、数より癖。次、行こう」
倒れた小魔獣——目は暗さに強い種類。牙は大きいが、体は軽い。噛まれたら嫌だが、怖れるほどではない。
通路の奥で、床石の色がわずかに違った。段差は半分の指の幅。膝をついて息を止め、耳を澄ます。石の下に小さな空洞——ひそひそ声みたいな反響が返ってくる。
「踏み板」
「回避できる?」
「できる。——先に、試す」
ポーチから小石を三つ。順番に置く。軽い一つ目では反応なし。二つ目で、板がわずかに沈む音。三つ目は置かない。重さの閾が見えた。次は靴の踵で縁だけ押す。板の“効く”面と“効かない”縁がわかる。地図の端に小さく印。
「縁を越える。合わせて。せーの」
壁の穴を目測し、リセに手の合図。リセが片膝をついて盾代わりの鞘を構え、ボクは縁に靴を掛けて跳ぶ。着地と同時に風が通り抜け、背後で金属の擦れる音がした。振り返ると、手前の天井から錆びた鎖が降り、先端の錘が空を切って揺れている。
「まだ生きてる」
「触らない。戻るときは別の縁を行こう。——印は二重にしておく」
白墨で“入”と“出”の向きを分け、戻り用の縁に小さく点を打つ。行きと帰りで違う足を使うと、踏み抜きにくい。面倒くさい。けど、守りはだいたい面倒が強い。
短いホールを抜けると、小部屋がひらけた。壁には剥げかけた紋が残り、中央には石台。台の上には何もない——はずなのに、埃の形が不自然に欠けている。最近、何かが置かれていた跡。胸が少しだけ早くなる。何を、誰が。
「誰かが先に?」
「たぶん。持っていかれてる」
——状況を組む。埃は四角。角が丸い。台の縁の手前にだけ“擦れ”がある。重さは中くらい。持ち上げ→手前へ引き→持ち替え。二人だと擦れは二重になるけど、一筋だけ。じゃあ一人。時間は? 埃の縁が柔らかい。昨日〜今朝。足跡は薄いけど、乾いた砂の乗り方が新しい。
光を使う。ポーチから鏡片を二枚。片方で台の上に斜めの光を作って、もう片方で壁の剥げた紋へ散らす。刻みの浅いところ、深いところの影が浮く。模様の“読み”が必要な仕掛けなら、正面からは触らない。角度で見る。見るのはタダ。触るのはコスト。
台の縁に、薄い屑のようなものがかすかに残っている。乾いて脆い層が、指先の風だけでもほどけそう。手袋の上から布をもう一枚重ねて端を摘む。引くまでもなく、細い欠片が自重でほどけて落ちた。そっと息を吐く。最小限で触れた。
「見ない方がいい?」
リセが問う。ボクはうなずく。
「落ちそうだったから、端だけ押さえた。処理は……どうする?」
「神殿で扱ってもらおう。最低限で包んで、封じ紐を二重に結ぼう」
リセが小袋を開き、封じの印を取る。欠片を落とし、紐を固く結ぶ。息を吐く音が部屋に溶けた。
部屋の壁の一角に、かろうじて読める刻みがあった。古い文字。ボクは声に出さず、指先でなぞる。
「『問うな』『触れるな』『名は門』……」
「読めるの?」
「形は似てる。意味は、なんとなく」
「“名は門”。通るための鍵であり、閉じるための鍵、ってとこかな」
小部屋を出て、別の枝道を確認する。短い階段の先は崩落。引き返して別の分岐へ。薄い空気の流れがある方を選ぶ。足元の砂の粒が変わる。外気が混じっている。
戻り道の設計。行きは右壁沿い、帰りは左壁沿い。印は高い位置と低い位置で分ける。落ちるものは、頭より高いところにいる。だから、帰りの印は低く。鏡片は角に一枚置いておく。あとで誰かが来たら、ここで光が揺れる。痕跡は“見せるため”にも使える。
「今日はここまで」
ボクは言った。「地図はここで一段落。無理に奥は要らない。帰ったら、温かいのを食べようよ」
「同意。帰ろう」
戻りの道は来たときより短い。目印の白墨が安心の重みを持つ。踏み板の前では別の縁に靴を掛け、鎖を無視して通り抜ける。最初のホールで一度だけ立ち止まり、耳を澄ます。追う気配はない。
外に出ると、陽は高くなっていた。風が肌の汗を冷やす。リセは鞘口の革を指で整え、軽く頷いた。
「少年、今の良かった。息、合ってきたね」
「そっちの守りが堅い。噛み合うと、楽しい」
「互いに、ね」
ギルドに戻る前に、神殿に寄る。門前で言霊司が待っていた。昨日の女性だ。灰の瞳が今日も落ち着いていて、指先に新しい墨の染みが見える。
「また会いましたね」
リセが小袋を差し出す。「遺構の小部屋で。触りは最小限」
彼女は表情を引き締め、封印を確かめる。
「助かります。……“名に触れる術”の痕が薄く残っています。解析して、結果はギルド経由で」
「お願いします。助かります」
石段を降りながら、リセが息を吐いた。
「“名は門”。あの刻み、気になる」
「わざと見せてるのかも。鍵穴だけ残して、鍵を持っていくやり方」
「嫌な比喩だね」
ギルドに戻ると、昼のざわめきが始まっていた。報告を済ませ、簡単な昼食を取る。テーブルの上で、地図の上に指を置く。
「ここが踏み板。ここで魔獣が二体。こっちは崩落。奥は空気が薄い」
「明日は市場が騒がしい日だ。軽い見回りを兼ねて、通名札と名伏せの紋の使い方をもう一度確認しよう。被害の話が増えてる」
「了解」
窓の外、通りには屋台の骨組みが立ちはじめている。人の声は弾み、どこか落ち着かない浮つきが混じっている。こういうざわめき、嫌いじゃない。
ボクは通名札を指でなぞる。刻まれた二文字が、薄い木の上でたしかに揺れて見えた。護りの“揺らぎ”。名は門。開けるためにも、閉めるためにも、扱いは変わらない。
呼ぶべきときに呼ばないこと。呼ばれたくないときに、呼ばれないこと。それだけで、助かる命がある。シンプルで、強い。そういうのが好きだ。
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土日火木 21時更新予定です。お楽しみに。