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竜の嫁入り、雨のち晴れ

作者: 百鬼清風

 竜に嫁いだ令嬢なんて、聞こえはいいけれど、実際のところはただの政略結婚である。しかも嫁ぎ先は、空の果てにそびえる“蒼の塔”。竜騎士団の総帥だなんて威風堂々として聞こえるけれど、つまりは戦ばかりしている無骨な男ということだ。


 私はセレナ・アルマリス。名門伯爵家の長女で、決して目立たないが、嫁に出すにはちょうど良いと言われ続けた女だ。そんな私に白羽の矢が立ったとき、父は言った。


「セレナ、光栄に思え。竜を従える男の妻になれるのだぞ」


 光栄、ねえ……。そのときの私の顔、鏡で見てみたかった。


 蒼の塔に着いたその夜、私は緊張で全身が凍りついていた。塔の中は無駄なく整っていたが、妙に生活感がなかった。まるで主がこの場所に留まっていないように。


「……まさか、夫になる人は不在ですか?」


 案内役の老騎士は、申し訳なさそうに頭を下げた。


「申し訳ありません、殿は現在、東方戦線におります。数日で戻るかと……」


 私は心の中で何度も膝を打った。これはつまり、“様子見”というやつだ。嫁がどんな女か、先に見定めるという卑怯な手段に出たのだろう。


 そして五日後――彼は本当に戻ってきた。


 扉が開いた瞬間、空気が変わった。冷たい冬の風のように鋭く、けれどどこか熱を孕んだ気配が廊下を駆け抜ける。


「……この娘か」


 低い声が胸の奥に響いた。長身で漆黒の鎧を纏った男が、私を真正面から見下ろしていた。


「セレナ・アルマリスです。……お帰りなさいませ」


 声が震えた。でも、どうにか言えた。


「リュクス・ヴァルグラン。よろしく頼む」


 それだけ言うと、彼は私を通り過ぎた。握手もなければ、視線すらほんの一瞬。それでも私は、妙にその背中を追いたくなってしまったのだ。


 それが、すべての始まりだった。


 翌朝、彼は私に言った。


「すまないが、夫婦のふりをするだけで構わない。お前に情けをかけるつもりはない」


 私の唇が引きつったのを、彼はどう思ったのだろう。


 でも、私はにっこりと微笑んでみせた。


「お望み通りに。情けなんて、期待しておりませんので」


 本当は、少しくらい優しい言葉をかけてくれると、ほんの少しだけ、思っていたくせに。


 そんなこんなで始まった新婚生活は、まるで砂漠のように乾いていた。朝食も別々、顔を合わせるのはたまに廊下ですれ違うときくらい。


 それでも私は、少しずつ塔の中を歩き、書庫を見つけ、古いレシピ本を読み漁り、彼の好物を調べ上げた。そう、こっそりと。


 そして迎えた満月の夜、私は勝負に出ることにした。


「今日は……お食事をご一緒にいかがですか?」


 廊下で立ち止まった彼は、ほんのわずか、眉を動かした。


「どういう風の吹き回しだ?」


「今日は私の誕生日なんです」


 嘘だった。でも、一緒に過ごす理由が欲しかった。


 黙っていた彼は、やがてため息をついた。


「……十五分だ。それ以上は付き合えない」


 私はにっこりと笑った。心の中でガッツポーズを取りながら。


 夕食は、蒸したハーブ鶏と蜜入りワイン。少し奮発した甲斐があって、彼は黙ってすべて平らげた。


 ふと、彼がぽつりと呟いた。


「……お前、前の妻に似ている」


 言葉が突き刺さった。そんな……予想もしなかった言葉。


 私は静かに問い返した。


「前の妻、ですか?」


「ああ……三年前に、戦で亡くなった」


 彼の顔には、どこか遠いものを見るような寂しさが浮かんでいた。そのとき、私は知ったのだ。


 この人は、優しさを忘れてしまったのではなく、優しさをしまいこんでしまったのだと。


 だから私は言った。


「じゃあ、私はただの替え玉ですか?」


 彼はぎょっとした顔をした。きっと、そこまで踏み込まれるとは思っていなかったのだろう。


「……いや。違う。似ているが、お前は――」


 言葉は途中で切れた。


 私は立ち上がって、笑った。


「十五分、過ぎましたね。ごちそうさまでした、殿」


 その夜、私は涙を流さなかった。だって、この人が人間らしい表情を見せたのは、初めてだったから。


 その翌日、彼が私の書庫に訪れた。


「……続きは、あるのか?」


 私はにやりと笑った。


「明日は、私の“本当の”誕生日なんです」


 そうして、私たちの夫婦生活は、少しずつ、動き出したのだった。





 竜の塔には秘密が多すぎる。


 蒼の塔に暮らすようになって、私はそのことを身に染みて実感していた。誰も答えてくれない質問。封鎖された地下階。誰もいないはずの夜の階段から聞こえる、羽音のような風切り音。けれど何より最大の謎は――夫、リュクス・ヴァルグランその人だった。


 彼は滅多に感情を表に出さない。けれど一度だけ、私の言葉に口ごもったあの夜。あの反応は、どう考えてもただの演技ではなかった。


 以来、私はほんの少しだけ積極的になっていた。朝食のパンを焼いて彼の部屋の前に置いておいたり、廊下で出会えば笑顔で挨拶をするようにしていた。


「おはようございます、殿」


「……ああ」


 短い返事。だが、以前は頷きすらなかったのだ。これは大きな進歩だと私は勝手に解釈した。


 そんなある日のことだった。塔の屋上で洗濯物を干していると、風の音に紛れて妙な匂いが鼻をかすめた。


「……獣?」


 乾いた血と煙草のような、どこか焦げ臭いにおい。気づけば、いつの間にか塔の裏庭に見知らぬ騎士が集まっていた。


 その中心にいたのは、もちろん彼だった。鎧を脱ぎ、上半身裸で剣を振るう姿に、私は思わず目を逸らしそうになった。けれどすぐに、それどころではないことに気づいた。


 彼の背に、薄い鱗のような光がちらついたのだ。風に吹かれて、ほんの一瞬。けれど確かに、それは人間の肌ではなかった。


「……見たな」


 いつの間にか彼がこちらを向いていた。冷たい灰色の瞳が、まっすぐ私を捉えている。


 私は首をすくめた。


「す、すみません! 洗濯していただけで、別に……覗いたわけじゃ……!」


 慌てて弁明すると、彼はため息をついた。


「別に責めてはいない。……来い」


「えっ?」


「少し話す」


 私は手にしていた洗濯籠をその場に置いて、彼の後を追った。


 案内されたのは、塔の地下、書庫のさらに下にある階段。私は今まで立ち入りを禁止されていたその場所を、初めて足を踏み入れた。


 そこには、空を模した巨大なホールが広がっていた。天井に張り巡らされた魔石、壁には飛竜の骨、中央には――巨大な紋章と、鎖でつながれた何か。


「これは……何ですか?」


「竜だ」


 彼の言葉に、私は首を傾げた。


「え? あなたの、ですか?」


「……俺自身だ」


 沈黙が落ちた。頭の中で言葉の意味がうまく繋がらない。


「つまり……あなたが、竜?」


「正確には、竜の血を引く“混種”。人と竜のあいだの子だ」


 そんなこと、小説の中だけの話だと思っていた。けれど彼の声は真剣で、何よりその瞳が、ただの嘘ではないことを告げていた。


「それを隠している理由は?」


「竜は、恐れられる。だから王も、民も、俺を“道具”としてしか見ていない。だが……お前は、どう見る?」


 私は息を呑んだ。これは、試されている。


「……殿が、どんな存在であっても。私の夫であることに変わりはありません」


 彼の目が見開かれた。それから、ゆっくりと伏せられる。


「……そうか。ならば、一つ頼みがある」


「はい?」


「俺を、飼いならしてくれ。お前だけが、それができる気がする」


 心臓が、跳ねた。


 それは、求婚にも似た宣言だった。


 ただし、牙を隠す竜からの――。




 竜を飼いならす方法なんて、誰か教えてくれないかしら。


 冗談ではなく、本気でそう思っていた。夫リュクスの正体を知った翌朝、私は自室のベッドの上でぼんやりと天井を見つめていた。あれは夢ではない。彼が見せたあの鱗、瞳、そして底知れぬ孤独は現実だった。


 飼いならしてくれ、だなんて……そんなこと言われて、どうすればいいのよ。


 そもそも、“飼いならす”って何? 撫でてやればいいの? 褒めて伸ばす系? それとも、餌付け?


「……やっぱりご飯よね」


 導き出した結論は、結局そこだった。食事は心を繋ぐ。犬も猫も夫も、おいしいご飯でなびくはず。たぶん。きっと。


 というわけで、私は塔の厨房に籠もる日々を始めた。あらゆるレシピ本をひっくり返し、竜の体質に合いそうなメニューを研究し、ときには獣医書らしき古文書まで持ち出した。


「……鱗の生成には高タンパク低脂肪がよい、っと」


 見れば見るほど、彼はもはやペットの扱いだった。


 でも、本気だった。


 彼が笑うところを、見てみたかった。


 そして、ある晩。


「これは……何だ?」


 食堂にやってきたリュクスは、皿に載せられた料理を訝しげに見つめた。


「蒸し鶏の薬草煮込み、竜の代謝調整に合わせた特製ソース付きです」


「……まさか、俺のために?」


「ええ、もちろん。ご主人様の健康のために、愛を込めて」


 すると、彼の眉がわずかに上がった。


「……ご主人様?」


「ほら、飼いならすって言ったじゃありませんか」


 彼はしばらく無言だったが、やがて噴き出すように笑った。


 笑った。


 あのリュクスが、肩を揺らして笑ったのだ。私は目を見張り、その姿をまるで奇跡でも見るように見つめてしまった。


「そうだな……そうだった。飼い主殿、食べさせてくれ」


「えっ、自分で食べてくださいよ」


「冗談だ」


 そう言いながら、彼は黙って食事を始めた。最初は警戒するように、けれどやがて、ほんの少しだけ口元が緩んでいった。


「……うまい」


「そ、そうですか。よかった……!」


 私は自分の胸をぎゅっと押さえた。何だろう、こんなに嬉しいのは。


 そしてその夜、彼が私の部屋をノックした。


「セレナ」


「はい?」


「明日、街へ出る。お前も来るか?」


「えっ、いいんですか?」


「たまには……日光を浴びるのも悪くないだろう」


 そうして私たちは、初めて二人きりで城下町へ出かけることになった。


 その翌日、塔を出て街を歩いた私は、初めて見る夫の姿に驚かされた。


 人混みを嫌うかと思いきや、彼は意外にも子どもたちの頭を撫で、年寄りに道を譲り、菓子屋でラムキャンディを買った。


「……ラムがお好きなんですね?」


「ああ。前の妻が……好きだった味だ」


 その言葉に、私は一瞬だけ胸が痛んだ。でもすぐに、息を吸って笑った。


「なら、今度は私の好きな味も覚えてください」


「……例えば?」


「いちごです」


「わかった。いちごの匂いがしたら、お前だと覚えておく」


 なぜかそれが、ひどく嬉しかった。


 きっと、少しずつでいい。飼いならす、なんておこがましい。でも彼の中に、私の“匂い”を残せたなら――それで十分だった。






 誰もが羨む竜の妻でも、風邪はひく。


 城下町からの帰り道、にわか雨に見舞われてしまった。馬車を使うほどの距離でもなかったし、彼が「たまには歩け」と言うものだから、私も調子に乗って街をうろうろしたのが敗因だ。濡れ鼠になって塔に戻り、そのまま熱を出した。


「……バカかお前は」


 寝台の横に立つリュクスの第一声が、それだった。ひどい。看病の第一声がそれって。


「うぅ、すみません……でも、天気予報なかったし……」


「魔法で予測できたはずだ」


「じゃあ、殿がしてくれたらよかったのに……」


「……言われなかったからな」


 会話が噛み合っているのかいないのかよく分からない。でも、私は目の前で腕を組む彼の顔を見て、なぜか笑ってしまった。


「……なぜ笑う」


「いえ、ただ。怒りながらも、ちゃんと来てくれるんだなって」


 リュクスは少しだけ黙ってから、横に置かれた盆の上のスープを手に取った。


「……食えるか?」


 言葉少なに、スプーンを差し出してくる。私は熱でぼんやりしながらも、それを受け取ろうとした。


「手が震えている。貸せ」


「え、ちょっ……!」


 あれよという間にスプーンを取り上げられ、リュクスの手で口元まで運ばれる。


「……あーんとか言いませんからね」


「言おうとしていたのか?」


「違います!」


 火照った顔が、ますます熱くなる。


 けれど、それでも彼の手は優しかった。大きな手。冷たくて、でも丁寧で、私の顔をちらりと見ながら、少しずつスープを飲ませてくれる。


 いつの間にか、私はそのまま眠ってしまった。


 目を覚ますと、夜だった。部屋の明かりは落ちていて、カーテンの隙間から月の光が差し込んでいる。


 不意に、何かが視界に入った。


 ベッドの傍ら。椅子に座ったまま、うつむいて眠っているリュクス。鎧を脱いだ彼の肩がかすかに上下していた。


 眠ってるの?


 私は、そっと身を起こした。まだ少しふらついたけれど、枕元の毛布を取って、彼の肩にそっと掛けた。


 すると。


「……起きてるぞ」


 ぼそりと低い声が落ちた。


「ひゃっ、ごめんなさい、起こしちゃ――」


「違う。ずっと起きてた」


「え、えぇ……なぜ……?」


「お前が熱でうなされるたびに、何度も“行かないで”と呟いた」


 ……。


 何てことを。


「覚えてない……です……!」


「そうか。だが、俺は聞いた。だから、ここにいた」


 私は顔を両手で覆った。熱がぶり返した気がする。


「子犬のような声だったぞ。牙も爪も出せず、ただくぅんくぅんと鳴いていた」


「うわああああああ!」


「その姿も、悪くない」


 冗談とも本音ともつかないその言葉に、私の心臓がまた一つ、跳ねた。


 彼は椅子から立ち上がると、私の額に手を当てた。


「……もう平熱だな」


 そして、そのまま指先が髪に触れた。優しく撫でるように。


「セレナ」


「はい」


「もし、また雨が降ったら。そのときは、俺の下に来い。傘も屋根も要らない。俺が、お前の上に翼を広げる」


 それは、竜にしかできない誓いだった。


 私はただ、黙って頷いた。


 そして思った。


 ああ、この人に牙を向けられても、私は笑っていられる。


 そんな愛しさが、胸に満ちていた。





 雨の夜、彼の言葉を思い出すたびに、胸の奥がふわりと温かくなる。


 私の上に翼を広げる。そう言った彼の声は、これまでのどんな命令よりも優しく、真っ直ぐだった。


 それ以来、私たちの距離ははっきりと変わり始めた。彼は書類仕事をするとき、私を隣に座らせるようになり、塔の中庭を歩くときも私を連れて行った。無言の時間が多いけれど、それは心地よい沈黙だった。


 ある日、彼が突然言った。


「そろそろ、正式な“式”を挙げよう」


「……式、ですか?」


「そうだ。本来ならば、竜の血を引く者とその伴侶の契りは、蒼月の夜に誓いを立てる」


 蒼月。それは年に一度、空に浮かぶ月が青く光るという特別な夜のことだと、古い書で読んだことがある。


「まさか、その儀式を?」


「ああ。お前に……本当の妻になってほしい」


 私は、しばらく言葉が出なかった。


 本当の、妻。


 それは形式的な政略結婚ではなく、心を重ねて歩む者として彼に選ばれること。


「……わかりました。やりましょう。私、頑張ります」


 その日から、私は竜族の花嫁としての準備に追われることになった。


 蒼月の夜。塔の頂で、私は青いドレスに身を包んでいた。リュクスが用意してくれた特注のドレスは、深い蒼を基調とし、裾には小さな銀の刺繍が夜空の星のように煌めいていた。


 鏡に映る自分を見て、思わず笑ってしまった。


「まさか……こんな日が来るなんて」


 あの冷たい目で見下ろされた初夜から、どれだけ遠くまで来たのだろう。


「綺麗だ」


 振り返ると、そこにはすでに礼装に身を包んだリュクスがいた。肩まで伸びた髪は後ろで軽く束ねられ、鎧ではなく上質な蒼の上着をまとったその姿は、まるで夜空の王だった。


「う……あ、ありがとうございます……」


 言葉がうまく出なかった。


「行こう。皆が待っている」


 塔の頂上には、竜騎士団の幹部たちと、数人の賢者が集まっていた。空には青い月がぽっかりと浮かび、幻想的な光を降り注いでいる。


 中央に立つと、儀式が始まった。


「誓いを」


 司祭のような老賢者が促すと、リュクスが私の手を取った。


「セレナ・アルマリス。お前を、我が命と魂の半身とする。嵐の夜も、戦の朝も、お前を守るために翼を広げる」


 その声は、風の音よりも静かに、しかし確かに届いた。


「……リュクス・ヴァルグラン。あなたを、私の心の居場所とする。寒い夜も、孤独な朝も、あなたと歩むと誓います」


 次の瞬間、空が光に満ちた。


 蒼月の光が、彼の背に翼を浮かび上がらせたのだ。漆黒の大きな翼が、夜空に花開くように広がっていく。その翼は私を包み、空気が一変した。


「これで、我らは一つ」


 そう言って、彼は私の額にそっと口づけた。


 式は静かに終わった。誰も大声を上げることなく、祝福の視線だけが私たちに向けられていた。


 その夜、私は彼の部屋で目を覚ました。


 ベッドの上、彼の腕の中にいることに気づき、動悸が止まらなくなった。


「……寝られなかったか?」


 囁くような声が頭のすぐ横から聞こえた。


「す、すみません、起こしちゃった?」


「いや。……お前の寝息は、心地よい」


「へ、変なこと言わないでください……」


 もぞもぞと動く私を、彼の腕が軽く締めつけた。


「これからは毎晩、こうして眠ろう。お前の鼓動を聞きながら」


「……ロマンチックなこと、言いますね」


「竜は、ひとたびつがいを得たら、それを決して手放さない」


「……怖いですね」


「逃げたいか?」


 私は顔を彼の胸に埋めて、そっと呟いた。


「……もう逃げられません。だって、もうあなたの翼の下で眠るって決めましたから」


 その夜、私は確かに彼の鼓動を聞いた。強く、優しく、私の心に寄り添うような音だった。






 結ばれてからの生活は、思っていたより穏やかだった。


 相変わらず塔の朝は静かで、リュクスは無口なままだ。でもその代わり、彼の行動はとても雄弁だった。


 朝食の席に座ると、いつの間にか私の好きな果物が並んでいたり。寒い夜には、私が毛布を引っ張る前に、彼の腕が自然と私を包んでくれたり。


 言葉は少なくとも、そこには確かに“愛されている”という感覚があった。


「セレナ、今日は街に行くぞ」


 ある日、突然彼がそう言った。最近は珍しくない。用がなくても、彼は私を塔の外へ連れて行こうとする。


「また、いちごのラムキャンディですか?」


「……そういうことにしておこう」


 不器用な言い訳。けれど私は知っている。彼は私に、外の世界を見せたがっているのだ。塔の中だけに閉じ込めない。かつての前妻にできなかったことを、私にはしたいと思ってくれている。


 その日、私たちは市場を歩き、子どもたちに混じって屋台の焼き菓子をつまんだ。手を繋ぐのは最初は恥ずかしかったけれど、今では自然になった。


「殿、見てください。あの服、似合いそうじゃありませんか?」


「……俺に?」


「違います、私です。お金出してください」


「……強欲だな」


「愛されてますから」


 彼は苦笑し、財布を差し出した。私はその笑顔だけで、何度でも着飾れる気がした。


 帰り道、空が少しずつ暗くなっていった。春の嵐が近いのか、風も冷たくなり始めた。


「雨が来そうですね」


「ああ。急ごう」


 でも、間に合わなかった。


 塔の手前で、雨が降り出した。濃い灰色の雲が空を覆い、冷たい水が頭上から降り注ぐ。


 私は腕で頭を庇いながら、彼のほうを見た。


「どうしますか?」


 リュクスは小さく息を吐くと、私の前に立ち、背を向けた。


 そして――翼が広がった。


 漆黒の、大きな翼。以前見たときよりもずっと堂々と、そして自然だった。


 その翼が、私の上に差し伸べられる。


「ほら。言っただろう。雨が降ったら、俺が傘になると」


 私は笑って、彼の背にそっと手を伸ばした。


「はい。だから、もう逃げません」


 彼の翼の下で、雨音は優しい音楽に変わった。


 それから数日後、私は塔の庭に一通の手紙を見つけた。彼が書いたものだと、すぐに分かった。達筆だけれど、少しだけ線が震えている。


『セレナへ


 お前が来てから、塔の空気が変わった。


 最初は恐れていた。お前まで失えば、もう立ち直れないと。


 でも今は、恐れよりも希望が勝る。


 いつか、翼の下ではなく、肩を並べて歩めるようになりたい。


 それまで、もう少しだけ、飼いならされていてやる。』


 私はその手紙を胸に抱いて、空を仰いだ。


 あの日の雨は、もう止んでいた。


 雲の切れ間から差す光が、優しく塔を照らしていた。


 雨のち晴れ。まるで今の私たちみたい。


 いつか本当に、肩を並べて歩ける日が来たなら、そのときはこう言おう。


 ――あなたの翼の下も好きだけど、あなたの隣が、私はいちばん好きよ。

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