悪役令嬢の姉を持った妹の話
──たまに思う。姉が悪役令嬢になったのは、私のためでもあるかもしれないと。
「シルヴィア・アーランド公爵令嬢。僕と婚約してくれないだろうか。君のことが好きなんだ」
「え、無理です」
世にも珍しい、王太子直々の婚約の申し出を、私、シルヴィア・アーランドは辞退いたしました。
その件について、どうやらユリエル第二王子殿下は大層ショックをお受けになられたようです。
「だって、無理に決まっているではないですか。私は、あの──『オルリーサ・アーランド』の妹なのですから。チェスター第一王子殿下の弟君であるユリエル様の婚約者など、恐れ多い。海のように広い慈愛の心をお持ちのユリエル様が許しても、他の誰もが許しませんわ」
私の慇懃無礼な言葉を聞いて、ユリエル様は心底うんざりしたお顔をなさった。
「オルリーサ嬢のことは……大変申し訳なかったと思っている」
「立ち回りが下手だった姉にも問題はあります。その件については既に話のついたこと。『詫び婚約』は結構です」
また破棄されないとも限りませんし、という言葉はさすがに不敬なので心の中にしまっておく。
私の姉「だった」オルリーサ・アーランドはユリエル様の兄であり、「元王太子」であるチェスター様と婚約していました。
姉はそつなく次期王妃、王太子の婚約者としての仕事をこなしていたはずだった、チェスター様が男爵令嬢に入れあげて姉をないがしろにしはじめるまでは。
とても控えめでおとなしい人だと思われていた姉はある日を境に豹変し、件の男爵令嬢にいやがらせをしたり、公の場で彼女を怒鳴りつけたりして、チェスター様の心はどんどんと離れ、男爵令嬢に傾いていきました。
そのうちチェスター様は自分勝手な判断により「オルリーサとの婚約を破棄し、男爵令嬢を正式な婚約者とする。未来の王妃を侮辱したオルリーサは追放する」と一方的な断罪劇を開始しましたが、チェスター様はそれを聞いた王家の方々にあっと言う間に廃嫡されました。
王家のあまりの決断力の速さに、さすがの私も開いた口がふさがりませんでした。
その一方、姉の方でも何を思ったのか、馬鹿正直に王子の断罪を鵜呑みにして、「私は公爵令嬢にふさわしくありません。さようなら。シルヴィア、元気でね」と書置きを残して姿を消しました。
裁判所の通達も、両親の仲裁さえも待たずに、です。
非常に不可解な言動を残して、姉は悪名を背負ったまま王都からいなくなりました。
その後の姉の行方はしれません。
私は姉のことがとても好きでしたので、わんわんと泣いて、しばらくは部屋から出これなかったものです。
そんな悲惨な過去を持つアーランド公爵家では、オルリーサ姉様はまったく存在しないか、ごく幼いころに亡くなった人のような扱いを受けています。
まあでも、当家には出来のいい兄がいますから、娘二人が使い物にならなくても安泰なのですが。王家に貸しもありますしね。
それなのにユリエル様だけが、私への救済のようなノリで自分が王太子になったのをきっかけに、今度は私をかつての姉の位置に押し込もうとしてくるのです。
そんなのはまっぴらごめんです。だって、姉が不可解な人物になってしまったのはきっと王家との婚約のせいですものね。
公爵令嬢という生まれつきの身分に縛られて、王家とかかわるな。それこそが姉が私に残したメッセージに他ならないのですもの。
「詫びとかではなくて。何度でも言うけれど。僕は君が……」
すっと人差し指を口に当てると、ユリエル様は魔法にかかった、あるいはしつけのよい犬のように大人しくなりました。
「なんにせよ、私どもに心を砕く必要はありません。……それとも、浮気者の血を引く王家には誰も嫁ぎたくないと言われましたか?」
ユリエル様は胸を押さえてはーっと苦しそうに長いため息をつき、そのままうつむきがちになりました。ああ、そこまで言うつもりはなかったのですけれど、つい口がすべってしまいました。これはまさしく不敬罪に当たります。
「シルヴィアにそう思われても仕方がないことを王家はしたのだけれどさ」
こんなに挑発しても、ユリエル様は私を追放なさる気はないみたいです。その点は兄王子とは性格がかなり違うところですね。
ぽーっと、汽笛の音が聞こえました。「時間」がきたようです。
「それでは」
この日のために用意していたトランクを手に取り、ユリエル様に背を向けると、彼は私の正面に回り込んできました。
「シルヴィア。なぜ荷物を自分で持つんだい。僕が持つよ」
「結構です。これからは、自分の力で生きていかなくてはいけないので。荷物ぐらい、自分で持てます」
「は?」
「それではユリエル様、ごきげんよう。永遠に」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って」
彼の横を通り抜けて駅への道を進みますが、ユリエル様は私の後をついてきます。
「次の予定があるの?」
途中まででも一緒に行かない? なんてことを言いながら、ユリエル様は私の背後にぴったりとくっついています。
「残念ながら、ここから先は片道切符なのですよ」
「はい?」
「私もアーランド家の令嬢にはふさわしくないでしょうから、家を出るのです。だからついてこられると困るのです」
一瞬、周りの音が全て遠ざかって、世界に二人きりになったような気さえしました。
「……それって、僕との婚約を断ったから!? それで自分も公爵令嬢にはふさわしくないって、家出するつもり!?」
「そうですね」
ユリエル様から呼び出しを受けた日は旅立ちの日でしたので、ありがたく家を出る口実にさせていただいのでした。それで、駅にほど近いセントラル・パークでお話をお伺いしていたのです。
「シルヴィア、電車に乗ってどこに行くつもりなんだい」
「乙女の秘密です」
驚くべきことに、ユリエル様はホームまで追いかけてきました。
「待って」
さらに驚くべきことに、ユリエル様は汽車に乗り込んできました。この思慮深そうな顔をしながら何も考えていないところ、大変失礼ながらチェスター様とそっくりです。
扉が閉まり、汽車は動き出してしまいました。
「きちんと説明してくれ」
ユリエル様は四人掛けの一等客室、私の向かいの席に陣取りました。
「……ここは私の貸し切り客室なのですが」
「え、あ、ごめん」
「そもそも、ユリエル様は切符を持っていらっしゃるんですか?」
「……持ってない」
ユリエル様は切符を買うお金すら所持していないでしょうに、わざとらしく財布を探す仕草をしています。
「次の駅で降りてくださいな」
「次の駅って?」
……間の悪いことに、これは特急なのでした。次の駅までは大分ありますので、彼の尋問からは逃れられないようです。
「シルヴィア、君はどこに行こうとしているんだ」
ユリエル様は私から借りたお金で、売り子から飲み物やお菓子などを購入しています。本当に悲壮感のない人です、私とは性格が合いません。
「そんなに深刻そうな顔をしないで……ほら」
アンニュイな顔なのは生まれつきですし、差し出してきたのは私のお金で購入したものですよね。どうせ買うつもりでしたから、いいのですけれど。
「君が話してくれるまで、僕は尋問を続けるぞ」
「……秘密を守れますか?」
「守る」
小さく深呼吸します。
「姉を探しに行くのです」
「オルリーサ嬢の居場所が分かったのか?」
「公爵家の情報網をなめてもらっては困ります」
窓の外には、王都とはまったく違う麦畑の風景が広がっていました。ちらりと視界の端に映るユリエル様の方が私にとっての日常であるはずなのに、今は彼の存在の方が浮いています。
「あのころの姉は妙でした」
「うん」
「ですから、姉はきっと『自由』を手に入れるために、わざと逃げ出すことにしたのだと考えました。だから姉をとっつかまえて、その罪を暴くつもりです」
軽い冗談のつもりでしたが、ユリエル様は顔をしかめました。
「オルリーサはあえて悪役令嬢の仮面をかぶって、自ら社交界を去った……と君は考えているんだね。それを曝いてどうするんだい。連れ戻すの」
「別に……」
それはまさしく、何も決まっていないのです。私はただ、大人になるのが──姉の代わりに公爵令嬢の責務を負わされるのが嫌で、こうして逃避行しようとしているだけなのですから。
「お姉さんがどうしているか、ただ心配だからこっそり会いに行きたいと言えばいいだけなのに」
ユリエル様は呆れたように言いましたが、なんだか少し、楽しそうでした。
「違います。まあ、家出先の確保のために、脅迫の材料を手に入れておこうとは思いますが」
「じゃあ、やっぱり僕もこのままついていこう」
「だめですよ。降りてください」
次の駅に近衛はまだ到着しておらず、私はユリエル様の放流に失敗しました。彼を一人にはしておけませんから、仕方がありません。
「ここです」
三つ駅を通り過ぎた頃にはもう大分日は傾いていて、ユリエル様は西日のまぶしさに顔をしかめていました。
「こんなに近い場所に?」
「灯台下暗し、ということですね」
なるほどね。と言いながら、ユリエル様はまだ私の後ろをついてきます。
「駅に居てくださいよ。姉が逃げたらどうするつもりですか?」
「弟として、兄の不義理をきちんと謝罪しなくてはならない」
「謝罪は私が代わりに受けました」
「とにかく、なんでもいいから置いて行かないでくれよ。何しろ一文無しなんだからさ」
……国王夫妻がこの様子を見たら泣いてしまうかもしれませんね。
「彼女は何をして暮らしているんだ?」
ユリエル様の好奇心はとどまる所をしりません。
「姉は定食屋の嫁に収まったようなのです」
「あのオルリーサ・アーランドが?」
「不用意にその名前を口にしないでいただけますか?」
「ごめん」
そんなことを話しているうちに、件の店に着きました。到着はしたのですが、先ほどまで軽かったはずの足は鉛のように重くなり、ドアの前でぴたりと止まってしまいました。
「シルヴィア。大丈夫かい」
ユリエル様が心配そうに私の顔を覗き込みました。
「わかっています」
わかっています。私は怖いのです。姉がいるのか、いないのか。いたならば、どうして私に相談せずにいなくなってしまったのか聞きたくなってしまいます。その答えを聞くのが怖いのです。
「じゃあ、先に入ってるよ」
「……私を置いて、先に入るつもりですか?」
「最初から一人のつもりだったんだろう?」
ユリエル様はさっとドアを開けました。……間抜けなフリをして、結構小憎たらしい人です。
「いらっしゃいませー!」
明るい声を張り上げたのは、長い髪を一つにまとめ、いかにも街の女性といった様子の服を着てはいるけれど、間違いなく私の姉でした。姉は私に一瞥をくれてから、そっぽを向きました。大した胆力です。
「二名様ですか?」
「はい。できれば、奥の席がいいんだけれど」
「では、こちらに」
姉とユリエル様は顔色一つ変えずに、平然と客と店員のような会話をしています、他のお客はユリエル様と私の貴族然とした服装を見て度肝を抜かれているというのに。
まったく、二人とも非常識な人です。
「あちらの方は、旦那さん?」
「ええ。エドと言います」
姉が夫と呼んだ男には見覚えがあります。公爵家の使用人です。
「あの男、見覚えがあるぞ」
ユリエル様がまるで我が意を得たりとばかりに、にやりと口角を上げ、人差し指を立てました。
「うちの執事だったエドワードですね」
ユリエル様よりは私の方が交友関係が広い自信が……いえ、当家のことですから知っていて当然なのですが。
さすがにこの組み合わせは想定していませんでしたが、合点がいきました。最初から駆け落ちをするつもりだったのですね。
「リサ、一番テーブルの注文取ってくれ!」
一番テーブルとは私たちのことです。エドワードのくせに、すっかり姉の夫気取りですか。憎たらしい。
「はぁい。ご注文をどうぞ!」
定食屋の若おかみになりきってしらを切りとおす姿、実に堂々としたものです。それならこちらにも考えがあります。
「本日の定食を、二人分。それから白ワインの一番高いのをボトルで。……こちらの方にはオレンジジュースを」
「ちょっと! なんで僕だけオレンジジュースなのさ」
「人の金でお酒を飲むつもりですか?」
「……あとでまとめて返すよ」
「まあ、いいですよ。先ほどの借りはここで返します」
「借りって、なんのこと?」
ユリエル様はますます楽しくなってきたのかにやにやが止まらなくなったようなので、私は彼の顔を見ないことにします。
そうしているうちに大量の飲み物と食事が運ばれてきましたが、まったく進みません。
平然としているユリエル様とは違って、私はワイングラスを握りしめたまま、じっとうつむくことしかできません。
「シルヴィア、君って実はお酒がそんなに好きでもないのに、格好つけてワインを飲んでるだろう」
大分客が減ってきたころに、ユリエル様がふとそんなことを口にしました。図星です。
「あなたは本当に、人間観察がお好きですね」
「興味のある人だけだ。……オレンジジュースを白ワインと混ぜると、飲みやすくなる」
そう言って、ユリエル様はピッチャーに入ったオレンジジュースを私のグラスに注いで、新しい飲み物を作り出してしまいました。
なんて雑な性格の人なのでしょうか。彼はこうしていつも私を振り回します。……飲みやすくなったことは、認めますが。
「お客様に、サービスです」
リサがことりとテーブルの上に置いたのは、チョコレートケーキでした。屋敷でよく出ていたものと違って、もっさりとして、焦げた塊のような見た目です。思い出なんかありません。でも、どっと昔の記憶が心の中になだれ込んできました。
「……私には姉がいました」
ぽろりとこぼれた言葉に、リサは足を止めました。
「姉はいつも、私に優しくて。チョコレートが好きだと言ったら、いつも私のためにチョコレートを取っておいてくれました。私はいつも、姉の真似をして、彼女の後ろをついて回って過ごしました」
「仲のいい姉妹だったんですね」
リサはまるで、他人事のように返事をしました。
「でも……姉は何も言わずにいなくなってしまいました。私は姉にとって、どうでもいい存在だったのでしょうか」
姉は私のお手本でした。それを失ってしまって、これからどうしろと言うのでしょうか。
「……お姉さんは、きっとあなたに、周りのことなんて気にしないで好きな風に生きていいのよ。だってあなたは私の妹なんだから、と言いたかったのじゃないかしら」
「大事なことは口にしないと、伝わらない。それでこっちはこんなにこじらせているっていうのにさぁ」
ユリエル様が自分のグラスに残った白ワインを注ぎながらひとりごとのようにつぶやきました。
「そういった自分の考えで突っ走りがちな人は、自分と性格は違うけれど、その違いを尊重して、静かに考えをまとめる時間をくれる人を側に置くべきなのですよ」
と、リサは笑いました。
「おかみさんは、そういった観点で人生の伴侶を選ばれた?」
「ええ」
「なるほど。色々、人生の助言をありがとう」
ユリエル様は新しく作ったカクテルを飲み干してしまって、テーブルはすっかり空になってしまいました。遠くから、私を現実に引き戻すように、汽車の音が聞こえました。
「私……もう……行かなくては」
ちらりとユリエル様を見ると、彼は静かに目を閉じて、頷きました。別れの時です。
「もう遅いから、泊まって行きませんか?」
リサと、リサの夫のエドが優しく言いました。
「ありがとうございます。でも……迎えが来るので」
だからここにはいられません。ユリエル様が私を追って汽車に乗り、そのまま行方不明になったことはとうに知られているでしょう。
せめて駅辺りまでは戻っていないといけません。そうしないと、近衛兵がついでに発見した姉まで連れ帰りかねませんから。
「さようなら」
「また、来てくださいね」
背中にかけられた言葉に、反応することはできませんでした。そんなつもりはなかったのに一粒だけ涙がこぼれてしまいました。
「はい。どうぞ」
ユリエル様の側からは見えていないはずなのに、彼は目敏くハンカチを渡してきました。こうやって常に監視されていると思うと、おちおちセンチメンタルにもなれません。
夜更けの駅は人の気配はありませんが、駅は小高い丘の上にあって、こちらに向かってくる馬車の明かりがいくつも輝いて、水平線をのぼってくる星のように見えます。
「お迎えですよ」
「君もだ」
それはまだ、わかりません。だって私は自由なのですから。
「ねえ、ユリエル様。私のこと、好きですか?」
私の問いに、ユリエル様が肩を少しすくめました。
「そうでなければ、悪役令嬢の妹で、偏屈な性格で有名なシルヴィア・アーランドに直接告白するもんか」
「私のことが好きなら、このまま、私と一緒に逃げてしまいませんか?」
ふと思い立って、そんなことを尋ねてみました。
「……僕は君たち姉妹みたいな性格じゃないからなぁ」
「でしょうね」
「それに、僕は……君に謝罪しなくてはいけないんだ」
ユリエル様はゆっくりと口を開きました。
「僕は兄が恋に溺れ、破滅に近づいていくのを傍観していた。……つまり、婚約破棄事件が起きることを予見していながら、対策を打たなかった。……兄の婚約がなくなれば、アーランド公爵家と新たに縁談を結ぶのは自分だと思っていたから。……そういう男は、振られて当然だ」
長いこと、何も考えていないと思っていたユリエル様にも、複雑な思考回路があるみたいです。
「つまり臆病な卑怯者ってことですか?」
「そうだ。そうして僕は何も得ることができずに、責務だけ残った。敗北だよ」
素直で正直な所は評価できます。
「姉は、自分の自由を手にするだけではなく、残された私も自由になれるように、自ら悪役令嬢の汚名を被りました。だからユリエル様にどうこうできる話では、最初からなかったのだと思います」
私と姉は違う存在なのですから、姉の選択についてどうこう言うことはできません。姉が自分で自分の人生を決めたように、私にも選択の自由と、責任があります。
姉は私に逃げ方を教えてくれました。でも私は彼女ほどに、まだうまくできていません。
私の覚悟が決まる前に、迎えの馬車はどんどんと近づいてきます。
「シルヴィア、君さえよければだけど。一緒に帰らないかい」
考えをまとめる時間が必要だ、とユリエル様は私に向かって手を差し出しました。やっぱり、結構ズルい人です。
「……近衛兵に捕獲されるまでに、私を説得できればいいですよ」
「よし。頑張ろう」
私はその手を取ります。だって、もう少しだけ、会話を続ける時間はあるでしょうからね。