-34- アズル村への道のり
正直なところ、エバンはアズル村について多くを知っているとは言い難かった。
海沿いに位置する場所にあり、その地形を活かして漁業を基幹産業としている漁村だということ。それ以外は農業にも力を入れており、総合的には、食糧生産においてラスバル村にも並ぶ規模の村であるということ。知っているのはせいぜい、それくらいだ。
ロヴュソールからはやや離れた場所にあり、輸送効率などの観点から、これまでは取引がなかったらしい。
しかし話がまとまれば、ラスバル村に代わる取引先となるのは間違いないように思えた。だからこそ、国王も兵士を向かわせる決定を下したのだろう。
「ねえ、あなたは行ったことがあるの? その……アズル村に」
ルミアーナは製作されたばかりの新たな杖に腰掛け、飛んでいた。彼女の銀髪やマントが風を受け、たなびいているのが見えた。
エバンは、首を横に振った。
ルミアーナは杖で、エバンは馬のブルックスで。
ともに同じ任務を負ったふたりは、それぞれの手段でアズル村へと向かっていた。
「いや、行ったことはない……名前を知っているだけだ」
これまで食糧の仕入れ先としては、規模も大きく距離的にも最適なラスバル村一択だった。そもそもエバンにはアズル村に行く理由がなく、興味を持つ機会すらなかったのだ。
君はどうなんだ? と問い返そうとしたが、不要だと判断してやめた。
口ぶりからして、ルミアーナも自分と同様だと思ったからだ。
「それでも、場所は大丈夫だ。ブルックスは、アズル村への道を知っているらしいからな」
エバンは、ブルックスの背中を軽く叩いた。
勇敢で賢い牡馬である彼は、ラスバル村でともに戦ってくれた。先日には負傷したルミアーナを助け出すにあたり、彼女を見つけ出すという非常に重要な役割を果たした。
ルミアーナと同じように、エバンにとっては頼もしい仲間だ。今回の任務においても、活躍を期待していた。
「そう、さすがね」
ルミアーナはブルックスの名付け親でもあった。
そこでふと、エバンはルミアーナの胸元のブローチに目を留めた。
黒薔薇を象ったそのブローチは、ロヴュソールで売られている品だった。
「アヴァロスタのブローチは、外したのか?」
それまで彼女が着けていたのは、虹色で翼を象ったブローチだった。あれは、特級魔導士であることの証明でもあったはずだ。
エバンの問いかけに、ルミアーナは細い指先で黒薔薇のブローチに触れた。傷のひとつもなく、新品であるのが見て取れる。
「ええ。あれを着けてると、アヴァロスタの者だって言いふらすようなものでしょう?」
エバンは息をのんだ。
考えてみれば、当然だった。アヴァロスタと敵対関係にある今のルミアーナが、あのブローチを着け続けていられるはずがないだろう。
「ロヴュソールの象徴である黒薔薇……素敵ね。お店で見つけて一目惚れだったわ」
修繕された服やマント、ポーチにブーツまで、ルミアーナはロヴュソールに保護される前と同じ服装だった。しかし唯一、ブローチだけが別物に変わっていた。
「それじゃあ、あのアヴァロスタのブローチは……」
捨ててしまったのだと思った。
自分を裏切り、魔族に魂を売った者から贈られた物など身に着けたくないだろう。自分が同じ立場になれば、すぐにでもゴミ箱に放り込むか、地面に叩きつけて踏み砕き、粉々にしてしまうかもしれない――エバンはそう思った。
しかし、ルミアーナは首を横に振った。
「捨ててはいないわ。あれは私の、育ての親からの贈り物だから」
「育ての親?」
意外な返答に、エバンは思わず問い返した。
ルミアーナは視線を逸らし、遠い眼差しでどこかを見つめた。
少しのあいだ無言で空を飛んでいたあと、おもむろな様子で口を開く。
「『クリアンディエ』って名前に、聞き覚えはない?」
「クリアンディエ……?」
エバンの反応だけで、ルミアーナは答えを察したようだった。
「知っているみたいね。そう、アヴァロスタ女学院の前の学院長よ」
「ああ、そりゃもう……」
エバンは頷いた。
クリアンディエ……それは、今の学院長に替わるまで、長らくアヴァロスタの学院長を務めていた人物の名だ。会ったことがないので分からないが、非常に高名で優れた魔女だったと聞いている。
ロヴュソールにおいても、実際に会ったことがある者は少ないだろう。しかし、その名は広く知れ渡っているはずだった。
「歴代のアヴァロスタ女学院の最高指導者の中でも、とりわけ優秀な魔女だったって……」
ルミアーナは頷いた。
「そして、私にとっては母親代わりだったのよ。もうずっと前……行き倒れた私を拾って、引き取って育ててくれたのが彼女だったの」
「えっ……」
ルミアーナの憂いを含んだ横顔を見たまま、エバンは言葉を詰まらせた。
知る由もなかった、彼女の過去が垣間見える言葉に、何も言うことができなくなってしまったのだ。
無表情というほどではなかったが、どことなく感情に乏しく、いつも物悲しそうな表情を浮かべている女の子――エバンはルミアーナをそう感じていた。
悲しい過去があって、自分には想像もできないような痛みを抱いているのかもしれない。いつもどこか物悲しげで、まるで仮面を被っているかのような表情は、彼女の心の闇が形となって現れたものなのだろうか。エバンはそう思った。
「まあ、私のことばかり聞いても面白くないでしょう」
ルミアーナが、エバンに向き直った。
「私からもあなたに質問があるんだけど、いい?」
はぐらかすように会話を切り上げるルミアーナ。彼女は風に泳ぐ銀髪を片手で押さえた。
彼女は出生や生い立ちに関して何か事情があるらしく、気になるものがあった。しかし、あまり深入りするのも無神経だとエバンは思い、無理に訊こうとは思わなかった。
「ああ、何が訊きたい?」
一方的に質問を投げ続けるのは不平等だと思い、エバンはルミアーナに促した。
「教えてほしいことはいくつもあるんだけど……あなたはどうして、髪長姫の眷属に選ばれたの?」
確信を突くような問いかけだった。
エバンは少しの間を挟んで、
「まあ、君とそう変わりはない。そもそも、魔妃が何を考えているかなんて分からないが……俺もオプスキュリアにとって、利用価値があると判断されただけのことだろうさ」
あえて多くは語らず、そう答えておいた。
たぶん、ルミアーナにとって納得のいく回答ではなかっただろう。
「そう、分かった。知り合ったばかりで色々訊くのも野暮だし、いつか時期が来たら教えてほしいものね」
ルミアーナは深入りしてくることはなかった。
質問はお互いにひとつずつ、そう思ったのかもしれない。
いつか時期が来たら、と彼女は言った。エバンは口には出さなかったが、その時期が来る頃に、自分とルミアーナの命があることを願わずにはいられなかった。
魔族の侵食が進んでいる今の世では、いつ命を失っても不思議ではない。
「とりあえず今は、アズル村に急ごう」
エバンの言葉に、ルミアーナは頷いた。積もる話もあるが、任務のことを忘れてはいけない。
やがて、潮の香りが漂い始めた。海に近づいていることの証明だった。
この香りも久しぶりだな、エバンがそう思った時だった。
突然、ブルックスが足を止めた。
「っ!」
ブルックスの背に跨っていたエバンは、勢いそのままに大きく前傾した。
とっさに掴まったお陰で、投げ出されはしなかった。それでも、驚いたことには違いない。
「どうしたの?」
ルミアーナも停止し、地面へと降り立った。
ブルックスは前方を見つめたまま、落ち着かない様子で声を出し続けていた。
勘の鋭い馬だ、何かに気づいて足を止めたのだろう。
「どうしたブルックス、何かに気づいたのか?」
エバンはブルックスの背中から降りて、彼を落ち着けながらその視線の先を追った。
荒野の一角に、蠢く黒い物体を見つけた。
それから、グチャリグチャリという肉を掻き回すような気味の悪い物音。潮の香りに混ざって、血や腐った肉の臭いが漂っていることに気づく。
胸騒ぎがした。
ブルックスに括り付けた荷物の中から剣を取り、エバンは黒い物体を注視する。
「あれって……」
両手で杖を構えながら隣に歩み出ようとするルミアーナを、エバンは片手を伸ばして制した。彼女を盾にするつもりはなく、自分が先んじて確認しようと思っていた。
黒い物体が、バサリと大きな翼を広げた。
そう、その黒い物体には翼があった。翼だけでなく、巨大なクチバシや、鋭いかぎ爪も備えていた。
離れていれば気づかれない、そんな甘い相手ではなかった。
その怪物はエバンとルミアーナにすぐに気づき、振り返った。クチバシに肉片のような物体がぶら下がっていて、ボタボタと赤い液体が滴り落ちているのが見えた。
その目は灰色に濁っていて生気がなく、ただの生物ではないことを物語っているように感じられた。
翼にかぎ爪、鋭利な嘴、鳥の化け物だった。しかし、鳥にしては大きすぎた。そのかぎ爪で、馬一頭を連れ去ることが可能に思えるほどの巨大さだ。
「っ!」
魔物だと確信したエバンは、剣を鞘から引き抜いた。
そう、あれは魔物だ。
人間の命を容易に奪う力を持つ、恐るべき化け物なのだ。
「鳥の魔物、ジャギラス……!?」
後方にいるルミアーナが言った。
エバンは剣を構えた。鳥の化け物は死体を漁っていたが、すでにエバンとルミアーナに狙いを変更していた。思いもよらぬ豪華で新鮮な馳走を見つけ、狂喜しているように感じられた。
喰い荒らされていた死体は、すでに原型を留めていない。しかしどうやら人間ではなく、魔物の死体のようだ。
「魔物の死肉を喰い漁ったせいで、魔力に侵されたんだ……!」




