15. 紅緒と密会
さて、帰り道、結城家を出て4人で駅に向かう途中で、俺の携帯電話が鳴った。
朝のこんな時間に誰かと思ってあわてて出ると、紅緒さんである。
「ちょっと、忘れ物があるんですけど、戻ってくれませんか」
「忘れ物をしちまったらしい。一度戻るから・・・」
3人と別れて、俺はひとりで結城家に引き返した。いったい何を忘れたんだろう。
玄関チャイムを鳴らすと、すぐドアが開き、紅緒さんがいた。
「どうも、連絡ありがとう。それで、俺は何を忘れたの?」
「実は、ちょっと話したいことがあって・・・」
「は?・・・いったい、なに?」
女の子一人の留守宅に上がりこむのもいけないと思ったので、玄関での立ち話である。
「たいしたことじゃないんですけど、ちょっと気になったことがあったので」
少々遠慮気味な紅緒さんである。
「なんだい?紅緒さんの気になったことって」
俺がそう言うのを聞くと、急に紅緒さんは眉をひそめた。
「紅緒さん?・・・うーむ」
なんだかいやな雰囲気である。
「どうしてさん付けなんですか?」
彼女は何で眉をひそめているんだろうか、俺にはよく理解できないでいた。
「だって、紅緒さんは、『紅緒さん』って感じだし」
「・・・まったく!」
俺の理由も聞かずに、彼女は強い口調で俺に言った。
「今後、『さん』なしで、ちゃんと『紅緒』って呼んでください」
ああ、確かに、俺は彼女を「紅緒」って名前だけで呼ぶのに少々照れくさいものがあって、なんだか躊躇してしまっていたのである。単なるあだ名のことなんだから、どうでもいいじゃないかってこともあるんだけれども、相手をちゃんとあだ名で呼ぶってことが、親密になる第一歩になるわけなので、彼女と親密になるには、これは改めなくてはいけないと思った。まあ、親密といっても、あくまでバンドのメンバーとしてということなのだけれども・・・。
「じゃあ・・・紅緒・・・が気になったことってなんなの?」
なんだか照れくさいけど、なんとか言ってみた。
「ええっと・・・それはですね・・・」
あだ名をちゃんと呼ばれた紅緒は、ちょっと照れくさそうに微笑んで俺に話し始める。
「千草先輩が遠慮というか手加減をしてるんじゃないかって・・・それが気になったんです。今のさん付けもそうなんだけれども・・・そんな気がして・・・あと、なんだか本気じゃなかったみたいな気もして・・・。
これから一緒にやっていくのに、疑問を感じたままじゃ嫌だから、ここで話を聞いておこうと思って・・・」
俺は紅緒の言うことに思い当たることがあった。確かに、今日の俺は、皆の演奏に合わせて譜面で求められるように弾くだけであって、伸び伸び生き生きとやっていたのか、とか、思う存分にやっていたのか、と問われれば、そうではない。
俺がなんと答えていいのか迷ってしまって、困った顔で黙っていると、紅緒が続けた。
「あのー・・・これは・・・本気じゃない人は不愉快だとか嫌いだとか言うことじゃなくて・・・一緒にやる時に、遠慮してたり変に気をつかってやるんじゃあ、千草先輩が楽しくないんじゃないかと思って・・・」
そうか、そういう風に気になったのか、と思った。
俺のことをそういう風に気遣ってくれるなんて、紅緒はいい娘だ。
バンド野郎は、普通は、相手のことはどうでも良くて自分の快楽を追求することしか興味のないやつが多いのである。特にオレのまわりではみんなそうだった。で、他人のことを考えない個人の欲望の追求が互いにせめぎあって、バンドの音が出来、みんなが気分良くなるのである、とか言っちゃう野郎がいたりするのである。
「いや、なんか気遣ってくれてありがとう」
「・・・」
「紅緒の言うことは正しいけれども、ちょっと違うと思う」
「え?」
「君たちのやりかたに合わせて、様子を見ながらやってたのは事実だ。それから、大学入ってからずっと自分の部屋でひとりでやっていたから、他人とやるのは久しぶりなので、調子がでてないのも事実なんだ。そういうことが、紅緒が遠慮してるとか手加減してるとか感じた原因なんだと思う。でも、個人的にはみんなと一緒にやって楽しかったし、実は、来る前には、ちょっとお遊びで、みたいないいかげんな気持ちもあったんだけれど、徹夜を乗り切った今は、全力を挙げて真面目にやろうという気持ちになっている。みんながお断りってことなら話は別だが、これからも一緒にやらせてもらえればうれしいと思っている」
俺の話を紅緒は一生懸命聞いてくれていた。
「わかりました。ちょっと安心しました。それから、みんな、千草先輩は歓迎ですから。・・・でも・・・実は、私・・・最初先輩とやるのはあまり気乗りがしなかったんです・・・私はひとりでがんばるつもりだったし・・・」
「でも、今日、ふたりでやって・・・そのぉ・・・よかったでしょ」
「そうなんですよね。今日、先輩と一緒にやったらすごく気持ち良かったです」
紅緒はちょっと恥ずかしそうに言う。
「今までは、みんなとやっていても、最後のところは私は一人って感じがしちゃってたんです。それで、夜にベッドの上でひとりでやってたりするとそういう気持ちが強くなって、やってることは気持ちいいんだけれども、なんだか孤独な感じがしてたりして・・・あのー・・・一緒にやれる相手がいるっていいですね、ふふふ」
「・・・・」
「これからどんどんふたりでやりましょうね」
「・・・・」
紅緒の言ってることが、さっきからなんかいやらしいことのように聞こえてきていた。
夜のベッドでひとりでやって気持ち良くなってた・・・
俺と一緒にやるっていいですね・・・
これからもふたりで気持ちよくなりましょう・・・
聞いてるこっちが急に恥ずかしくなってきた。
「・・・どうしたんですか、黙っちゃって・・・」
「いや・・・これからも・・・ふたりで・・・やっていこうねって・・・」
「・・!」
やっと気づいたらしい。紅緒の顔が赤くなってきた。
「やるって、演奏ですから・・・ね」
「うん。わかってる」
紅緒って、いわゆるクラス委員タイプの真面目で硬い感じの子だと思ってたんだけど、なんだか可愛いところがあるじゃないか、と思った。
帰りの汽車の中で、いろいろと大変そうだけれどもなんだか楽しいことがはじまったな、と思いながら、夢も見ないで爆睡した。




