言葉遊び無し
憂鬱さで重みの増した足。
爪先に力を込め地面を蹴る。
歩みが止まってしまわぬよう、さくさく進む。
気休めのチョコレートを一粒舐め、心地よい甘さと空気に溶け出たカカオの香りで、ざわざわと騒ぐ心臓を宥めながら進む。
騎士団長宛ての事務書類を持って行く途中だ。
封筒に入っている書類の詳しい内容までは知らないが、親展、かつ急ぎの書類で、目の前で中身を確認してもらい、返事まで持ち帰るように、と指示を受けている。
同じ王宮敷地内ではあるか別棟となっている騎士団棟は、自分にとっては鬼門だ。
筋骨粒々で血気盛んな男達の巣窟。
自分のΩという第二の性は抑制剤を服用することで抑え込んではいる。
αを誘うフェロモンも、発情期でもなければ漏れ出してはいないはず。
それでも、女性並みの背丈と痩せっぽけた華奢な体に、母によく似た面立ちのせいか、βの男性からもしばしば言い寄られてしまう。
力で敵わない相手が多くいる場所は、どうしたって気が張る。
加えて、多忙を極める騎士団長に確実に会える保証も無いというのに、直属の上司である財務副長官はなかなかに無茶振りだ。
「紅茶でいいかい?」
「……仕事ですので、どうか、お構い無く」
「遠慮はしなくていいよ。ちょうど、いい茶葉を貰ったところでね、私も飲んでみたいと思っていたから」
先程まで執務室にいた副団長は、騎士団長に何か耳打ちをされ部屋から出て行ったまま戻って来ていない。
他の団員や下働きの姿は部屋の中には元々無かった。
ということで、紅茶は騎士団長が手ずから入れてくれている。
何とも畏れ多い状況だ。
向かったところで会えないかもしれない、という考えは杞憂に終わり、有り難いことに待たされることもなく騎士団長に会えた。
というのも、自分を行かせた直後に上司が伝魔鳩で前触れを出していたからだ。
なんと、騎士団長自ら騎士団棟の入り口で自分の到着を待ってくれていた。ただただ恐縮するばかりである。
「少し薄暗いから気を付けて?」と騎士団長に手を差し伸べられ、激しく動揺した。
折角の厚意を無下にはできない、恥をかかせる訳にもいかない、と瞬時に判断し、混乱したまま自分の手を軽く乗せたのだが、騎士団長の執務室前までそのまま手を引かれ歩くこととなりドギマギした。
剣ダコがあり、ごつごつと男らしい大きな手で、しっとりと温かかった。
封筒を渡し、廊下で立って待とうとしたのだが、重厚な扉を開いてニコリと微笑む騎士団長に部屋の中へと促され、腰に手を添えられ革張りのソファーに誘導され、今現在に至っている。
流石は騎士団長。
全てが流れるようにスマートだ。
現騎士団長は、力のある侯爵家の二男で剣技、体術、共に凄まじく、また、美貌の人である、と職場でも評判だ。
涼やかな目元、隊服を着ていても分かる均整のとれた筋肉、体つき、一つ一つの丁寧で美しい所作にも惚れ惚れする。
階級的にも家柄的にも格下の自分が相手でも見下げた様子は無い。
さぞや、女性にモテることだろう。
「今でも、チョコレートは好きかな?」
「! ……は、いっ」
小皿に二粒、チョコレートも乗せてくれた。
何気無い風に優しく問われた言葉を脳内で反芻する。
胸に込み上げてくるものがあって、でも気の効いた返事が思い付かず、チョコレートを一粒摘まんで口に入れた。
ふわぁと落ち着く香りが鼻に抜ける。
自分がまだ10代前半で第二性が分かる前のこと、家族と街に出掛けていた際、αの近衛の男に裏道に引きずり込まれ、襲われかけた過去がある。
事件のことを知る上司の配慮で、自分は他部署へはめったに足を運ばない。
Ωという引け目もあり、昼食も、持参したものを自分の職場である財務副長官の執務室でそのまま食べている。
騎士団棟への用事は、普段は他の事務官が任せられていた。
何故か今日は自分が行くようにと命じられたが、上司は過去の事件の際に、自分を助けてくれたのが彼だったと知っていたのだろうか?
あの時は、ただただ怖く、切りつけられた痛みもあってポロポロ泣いていた。
襲ってきた男を伸した後、「よく耐えたな」と駆け寄ってきてくれた彼に、体の震えが止まるまでずっとしがみついていた。
見ず知らずのガキでしかなかった自分のことを、背中を撫でながら抱き締めてくれた。
その時、「こっちを向いて、口を開けてごらん?」と言葉が降ってきて、泣いてぐちゃぐちゃな顔をあげて口を開けたら、まん丸いチョコレートを一粒入れてくれた。
「元気が出るからね」と言葉を添えて。
それで泣き止んだからだろう、「チョコレート、好きなんだね」と頭をぽんぽんと撫で、優しく笑いかけてくれた。
その後は治療師やら憲兵やら、色んな大人がやって来たと思うけれど、当時の記憶は曖昧で、どうやって家族と再会して家に戻ったのかもろくに覚えていない。
それでも、抱き締めてくれた腕の強さや包み込んでくれた温もり、口の中で溶けていくチョコレートの甘さもカカオの香りも、体全体、皮膚も産毛もフル稼働したみたいに、彼とのことだけはよく覚えている。
「何年も前のことですのに、覚えてくださっているとは思いませんでした」
テーブルを挟んで二脚ある、二人掛けソファー。
向き合って座るものと思いきや、彼は自分のすぐ横に座った。
慈愛に満ちた柔らかな眼差しで見詰められ……直視できない。
書類は見てくれないのだろうか?
催促すべきか、とも思うが、急ぎなことも用向きも既に伝えているし、繰り返して失礼になってもいけないと感じる。
騎士団長が気分を害して返事をくれなくなってしまっても困る。
「忘れたりしないよ。本当は、もう少し早く会いたかったのだけどね。なかなか、君の職場は守備が堅くて。財務長官殿にも副長官殿にも、他の事務官達にも君がとても大切にされていて、変な虫がつかなくてそれはそれで有り難く、良いことではあったのだけど、そのせいで君の姿もろくに見られなくて、歯痒くもあったかな」
「……あ、の、あ……りがとうございます。それと、急ぎの書類ですので、ご確認いただけますか?」
真っ赤になっただろう顔を隠すこともできず、くすくすと笑われてしまった。
照れてしまったことが恥ずかしく、先程までの心配は頭の片隅に吹き飛んでいったため、とっさに本題へと話題を変えた。
にこやかで柔らかい雰囲気のまま、やっとで封筒を開けて中身を確認してくれる。
「君は、これが何の書類か知っている?」
「いえ。急ぎ、かつ親展の書類とだけ」
ふふふ、と目を細めて綺麗に笑って、「見みるかい?」と書類を見せてくれた。
「婚……姻、届?」
「そうだよ。ご実家にはもう何年も前から、それこそ君がまだ学生の頃から話をさせてもらっているからね。君がその気なら、と内諾は貰っているよ。ただ、君の上司の許しがなかなかとれなくて、時間がかかってしまった」
騎士団長の口から紡がれるスペルで、羽ペンの白い羽が漆黒に染まる。
魔法でインクが込められたペン先で、婚姻届に騎士団長が署名し、空白となっているもう片側に、自分の名を書くよう促された。
「本当はね、君をしっかり口説いてから、君の心がこちらをちゃんと向いてから、と思っていたのだけれど。君はαが苦手だろう? 君が二十歳になるまでは接触はするな、と財務長官殿に言われていたんだ。でも、もう今日で君も二十歳だし、二十歳になれば君も結婚が出来るのだから、いっそのこと、夫婦という形から入ってしまおうと思ってね」
隠してあったのだろう、プロポーズの花束を渡され、跪かれ、手の甲にキスが落とされた。
「私と結婚してほしい」
頷くと、抱き締められ口付けられた。
懐かしい、大好きなカカオの香りに包まれ、その香りに酔いしれた。