57.ミラベルの君
「オブシディアン様は、こんなに長くこちらにいて大丈夫なのでしょうか?」
「ああ、夏期休暇中だと言っていた」
オニキス様の婚約者としての私はオブシディアンとは徹底的に顔を合わせないようにしている。オニキス様にははっきりとは確認していないけれど、私が本当に冥王の愛し子とやらだったとしたら、面倒を避けるために姿も素性もできるだけ隠しておきたい。
日中は基本的にメイド姿で過ごした。
何回も試行錯誤したのでスモモを使ったタルトの仕上がりは完璧になっていたけれど、さすがにオニキス様からそろそろ他のものを作って欲しいと頼まれた。
図書室で新しいレシピに当たっていると背後から声をかけられた。
「やあ、ミラベルの君。研究熱心だね」
慌てて振り向くとオブシディアンの姿があった。
オブシディアンとはほとんど口を利いていない。もちろん名前を名乗ったこともない。メイドの私がずっとミラベルを使った菓子を作っていたので勝手にそう呼んでいるようだ。
オニキス様はどこにいるのだろう。あたりを伺うけれどオニキス様もマルティンも見当たらない。完全にオブシディアンと二人きりになってしまった。
とりあえず、しゃべらずに黙って頭を下げる。
「驚かせて済まない。実は、厨房に最近王都で流行り出した珍しいソースを届けさせておいたから、君もあれで何か作ってみるといい。……菓子には向かないかもしれないが。邪魔して悪かったね」
それだけを言うと図書室を出て行った。ほっと息をつくと入れ替わりでオニキス様がやってくる。
「いま、オブシディアンが出ていくのが見えたが、何かあったか?」
「いえ。普通に連絡というか、厨房になにか届け物があるらしく――」
「ああ」
「……オブシディアン様からは一方的に連絡を言われただけで、お話もしてないです」
「そんなことは心配していない」
そんなことを言いながら私の鼻を軽くつまむ。
「あの、ごめんなさい」
「何がだ?」
「婚約魔術のことです。あれはオブシディアン様のことは関係なくて、私を守ってくださろうとしてたんでしょう?」
精霊の愛し子であるモモカを篭絡しようとする貴族がいるなら対の存在である私にも同じような危険はあるはずだ。防御魔法には自信はあるけれど、媚薬のようなものを盛られてはどうなるのか想像もつかない。
「……君は、クレメンティーネ様と仲がいいから、結婚式に参列したいのならば私のパートナーとして連れて行くことも考えていた」
あの社交嫌いなオニキス様が私のためにそんなことまで考えていてくれたなんて。
嬉しさと驚きでオニキス様を見上げる。
上手く感謝の言葉が出てこない私をわかっている、というように抱きしめてくれた。
***
オブシディアンの言っていた「珍しいソース」が気になったので厨房に向かう。
「ああ、リア様。どうなさいました?」
すっかりおなじみになったテオが出迎えてくれる。オブシディアンが持って来たというソースについて聞いてみたところ、どうやらマヨネーズらしかった。
「以前いただいた卵のサンドイッチに使われていたソースですな。うちでは夏場は使わないようにしているんですがね」
見せてもらうと瓶に入れられてきちんと密封され、衛生的に流通はしているようだった。卵の洗浄などの問題はどうクリアしているのだろうか?
まあ、魔法や精霊の加護がある世界なのだからどうにでもなるのかな……?
「オブシディアン様はこれでお菓子を作ってみればとおっしゃっていたのですけれど、難しいですよね」
「少量をヨーグルトかチーズに混ぜるか、あるいは塩味が強めの焼き菓子には合うかもしれませんな」
「ありがとう! 試してみますね」
試しに一瓶貰っていくことにした。最近タルトを作れるようになったので塩味を利かせたタルト生地を作って、フィリングにカスタードとリンゴの砂糖煮なんかは合いそうだ。もしくは甘めのタルト生地にチーズのフィリングか、お菓子ではなくいっそキッシュのようなものを作るか。
レシピをあれやこれや考えながらマヨネーズの瓶を眺めていると、キュヒラー商会の文字が見えた。あいまいな記憶だけれど、たしか私が勘当されていなければ、ここの三男を婿に取らされる話だったはず。
モモカがこの世界に持ち込んだマヨネーズが、私を捨てた実家と繋がりのあるキュヒラー商会によって王都に流通しているとすれば、やはりリーゼとブライトナー家が間を取り持ったと考えるのが妥当だろう。
マヨネーズのおかげでブライトナー家が立ち直っているのならばそれに越したことはない。お義母様はともかくお父様には良くしてもらった時期もあったのだし。
それに、卒業舞踏会で二人の暴走がなかったら、オニキス様との関係は正しく「政略結婚」だったろうし、髪が長くて魔力の制御が全くできない私を扱いあぐねていたかもしれない。まあ、可能性の話ではあるけれど。
……ブライトナー家が没落したら、またリーゼは私を頼ってくるだろう。たいして信頼もしていないくせに。そして私はそれがわかっていても小さな命を抱えたリーゼを切り捨てることはできない。でも、それはオニキス様の迷惑につながることは目に見えている。別荘で嫌というほどわかった。
リーゼにも義母にも思うところはある。けれども私の近くでは不幸になって欲しくなかった。
とても利己的な願いだとは思うけれど。
***
マヨネーズを使ったお菓子の試作もあまり捗らないうちに、オブシディアンが館を離れる日がやってきた。
明日、出立するというので今晩は挨拶に出るようにとオニキス様に言われる。
「オニキス様、寂しくなっちゃいますね」
「そうだな」
珍しく素直にオニキス様が頷く。
「君にはずっとメイドの真似事のようなことをさせて申し訳なかった」
「それは気にしないでください。私も楽しかったですし、働いている方が性に合うというか」
そんなことを話しつつダイニングルームに向かう。
オニキス様はもうオブシディアンの前でも普通にしていいと言ってくれたけれど、まあ、急にフレンドリーな態度をとれるわけもないので、普通に食事をして終わった。
いつも通り二人はまだお酒を飲むというので退室の挨拶をしたところオブシディアンに引きとめられる。オニキス様の様子を伺うと残ってはどうかと言うのでシガールームについていくことにした。1杯くらい付き合ってもいいだろう。