50.エスコートの波乱
「……泣いてはいない」
そう言いながらもオニキス様は一向に顔を上げる様子はなかった。私も黙って髪を撫でる。しばらくすると規則的な寝息が聞こえてきた。
いま私の胸を占めている気持ちをどう言い表せばいいのだろう。
嬉しい。愛しい。でも先のことを考えると不安が影を落とす。この幸せな瞬間のまま、この世界が閉じてしまえばいいのに。
***
眩しさで目を開けるといつかの朝のようにオニキス様が肘枕で私を見下ろしていた。
「おはよう。昨日は夢も見ずにぐっすり眠れた」
「おはようございます……」
オニキス様の視線は私の顔ではなく襟元あたりに注がれていた。
「君は一人で寝るときはそのような寝巻を着ているのか」
……そうだった。夕べはオニキス様が戻らないとゲルタに言われて、ナイトドレスではなくいつもの子供が着るようなコットンの寝巻を選んで着ていたのだった。
上下がセパレートになっている。上着は前開きのボタンで止めるタイプで、いわゆるパジャマだ。
「そうしていると君は本当に子供のようだ……」
そんなことを言いながらも肩口のあたりを撫でて綿の肌触りを確認したり、前を止めているボタンをしげしげと眺めたりしている。
「なるほど、夜着にはこのような生地が好まれるのか……」
オニキス様の目が研究対象を見つけたときのキラキラした輝きを帯びて来た。
「ナイトドレスのつるつるとした肌触りもいいですけれど、綿のやわらかい肌触りも好きで。汗を吸うので寝汗をかくような時期はとくに」
「なるほど。上下が分かれているのは?」
「ナイトドレスは寝相があまりよくないと、裾が思わぬところまでまくれ上がってしまって。ナイトドレスにズロースの組み合わせでもよいのですが」
「たしかに君はあまり寝相が大人しいタイプではないな。ボタンが前にあるのは?」
「……男爵家では自分で朝の支度をする必要がありましたので、この前開きの寝巻が都合がよかったのです」
「そうだったか」
質問を一通り終えて満足したのか、何か考え込み始めた。おそらく新しいナイトドレスか寝巻の構想に意識を持っていかれてしまっているのだろう。
「オニキス様、私は支度に時間がかかりますから、先に起きていただいて大丈夫ですよ。……早く研究室に行きたいのでしょう?」
オニキス様はハッと私の顔をみると起き上がって、いそいそとガウンを身に着ける。
「ありがとう、リア。愛しているよ」
そんな軽口を聞きながら私の頬にキスをする。
「もう! 朝食はちゃんと召し上がってくださいね」
ああ、と振り返らないまま手を振りながら自室の扉を開けてさっさと出て行ってしまった。
……行為の最中に告げられる男性からの「愛してる」の言葉は信じてはいけないと誰かに聞いた気がする。では、このタイミングで言われた「愛している」は果たして真に受けていいのだろうか。まあでも、オニキス様が結婚相手に唯一望むことは「研究の邪魔をしない娘」だったし、本心ではあるのだろう。
嬉しいけれどちょっと悔しいような複雑な気分だ。
***
クリスティアーネからの呼び出しがあったのはその日の午後だった。相談をしたいことがあるから学園のスターリングの研究室まで来て欲しいという。オニキス様も日中は放っておいて欲しいだろうからちょうどいい。
「リア様。お久しぶりです。何かお変わりはありまして?」
モモカと会ったことを説明するべきだろうけど、フラグだのイベントだのの件はさすがに話せない。謎の庭園でモモカと出会ったことを当たり障りのない範囲で話す。
「オニキスにそっくりの彫像が……?」
「スターリング先生、なにかご存じですか?」
「いや、話を聞く限りグラウヴァインの本邸のようにも思えるが、薔薇が立ち枯れているというのが解せない」
そもそもモモカがフラグと立てて発生させたゲームのイベントらしいので考えてもわからない類の現象だろう。一旦クリスティアーネの話を先に聞くことにした。
「それが、姉の結婚式の日程が確定して、招待状を用意しているところなのですが……」
「王弟のアイオライト殿下が愛し子殿にエスコートの打診をしたところ返事を渋られているらしくてな」
「それって、モモカ様がオニキス様にエスコートの逆指名をする可能性があるってことですか」
「そこまで愛し子殿が愚かだとは思いたくはないが」
「モモカ様に常識的なふるまいを期待しても無駄ですわ。……ですから、アダマント様はオニキス様が式には出られないように当日の護衛には宮廷魔術師団を駆り出そうと画策してくださっているのですが、近衛騎士団の面子をつぶさないかという懸念もあって」
「いずれにしても王太子の結婚式に愛し子殿をエスコートすれば周囲は当然愛し子殿の結婚相手だと認識することになる。愛し子殿はそれがどんなに自身を危険にさらすことになるか理解しているのか?」
「危険、なのですか? オニキス様ではなくてモモカ様が?」
驚いて、二人の顔を見つめる。
「王弟殿下やグラウヴァイン公爵家を敵に回す愚を犯す貴族はおりませんけれど、オニキス様は伯爵として独立なさっているでしょう? オニキス様が全身全霊をかけてモモカ様を保護なさる態度を示せばまた別でしょうけれど」
「どういうことですか?」
「誰からの後ろ盾もないモモカ様など篭絡して既成事実を作ってしまえば良い、と考える貴族は少なくないということです。モモカ様だって魅了魔法を使うのですもの。ね?」
そう言ってクリスティアーネは意味ありげに、ローテーブルの上に用意されていたお茶菓子のチョコレートを口に入れる。
「……媚薬?」
「そういう技術に長けた者を長年囲い込んでいる家ももちろんございますわ」
「ジェイドの、ダールマイアー家などは、代々優秀な薬師を囲っているな」
スターリングがそう言って目を細める。何かを企んでいるようだけど彼の考えていることを予測することは私には無理だった。
今日の話はオニキスに伝えても良いと言われて私は研究室を後にした。