46.ミントと恋人の概念
久しぶりに戻ったグラウヴァイン邸にはすでにマルガとケヴィンはいなかった。かわりにベテランの貫禄のある女性が迎えてくれる。
「まあ、リア様、はじめまして。ゲルタと申します。マルガから引継ぎは済んでおります」
「マルガの……お母様ですよね。マルガにはいつも本当によくしてもらっています」
そう私が告げると、すこしだけ母親の顔になって目を細めた。
「オニキス様とお話がしたいのですけれど、いまどちらにいらっしゃるかしら?」
この時間であればおそらく薬草園にいるはずだと教えてもらい薬草園に向かう。
薬草園の中腹でたたずむオニキス様の姿を捉えたとき、自分でも予想していなかったくらいの胸を締め付けられるような大きな感情に襲われた。
春休みのあの日、ここでオニキス様に出会わなかったら、今こんなに幸せな気持ちでここにはいられなかったかもしれない。こちらに気が付いたオニキス様が大きく手を振ってくれる。
「ただいま戻りました」
「おかえり、リア」
漆黒の瞳が午後の光を受けてすこし茶色がかって見える。真っ直ぐに私に向けられる眼差しにはおそらく私と同じ感情が溢れていた。
***
「ミントが繁殖しすぎてしまったんですね……」
オニキス様の足元には、膝の高さ位のミントが大量に茂っていた。生命力にあふれた緑の色濃い葉が所狭しとひしめいている。
「ああ、ケヴィンが館を離れたとたんこの有様だ。代わりに来ている弟のマルティンはまだ薬草園にまでは気が回らなくてな。ひとまずこの範囲から外には繁殖しないように結界石を配置してあるが」
「それって、ミントが使い放題ってことですか?」
オニキス様が面白そうに私の顔を見る。
「そんなに大量に消費できるものでもないだろう」
「前にパイを焼いた時にラム酒と赤砂糖を使ったフィリングをとても気に入って下さったでしょう?」
「うん? ああ、カラメルのような甘く香ばしい香りで、良く出来ていたな」
懐かしい日々を思い出すように目を細めて私の頭を撫でてくれる。オニキス様のこの手がとても嬉しかったことを思い出す。
「ラム酒とミントを使ったとっても美味しいカクテルがあるのです。ミントとライムを軽く潰して、赤砂糖で甘く爽やかに仕上げて、たっぷりの氷と炭酸水で割って……」
「それも、君の夢の世界のレシピなのか?」
「そう……です」
あっ、と思い出してしまった。このカクテル、――モヒートは、社会人になりたての頃に二次会の後に連れて行ってもらったバーで先輩が飲んでいるのを見て密かに憧れていたものだった。
いつか恋人と一緒に飲むなら、カルーアやカシスベースの甘いカクテルではなく、大人っぽすぎるマティーニでもなく、ちょっとだけ背伸びをしたモヒートがいいなと、そんな風に思っていた。
一瞬、オニキス様が眉をひそめたように見えた。憧れの先輩がいたことを気付かれてしまったかもしれない。でも、あんなのアダマントに対する憧れ以下だし、先輩社員にドキドキする同期達と一緒になって浮かれてしまった気持ちの方が大きかったのだから、そんなに気にしないで欲しい。
「必要な材料があれば用意させるから、君はミントを好きなだけ摘んでおいで」
特に気分を害した様子もなくそう言って厨房のほうへ向かっていく。
やきもちを焼かせたいという意図はまったくなかったのでちょっと失敗してしまったなと反省する。憧れのカクテルをオニキス様と一緒に楽しめるチャンスについ油断してしまった。
***
カクテルの材料は知っているけれど分量までは覚えていない。研究所の厨房でラム酒と炭酸水のバランスを試しているうちにちょっと酔っぱらってしまった。でも大分納得のいく味にできたと思う。
応接スペースに戻るとオニキス様がソファで待ちくたびれて眠ってしまっていた。
グラスや材料を乗せたトレイをローテーブルに置いて隣に座る。なんとなく髪の毛を一房とって三つ編みにしていると、目を醒ましたオニキス様に小鳥のようなキスをされる。
「おはよう」
「おはよう、ございます?」
「薬草園に席を作ってもらっている。せっかくだからそっちで頂こうか」
そういってオニキス様がトレイを持って扉に向かう。屋内で二人きりなのでもうちょっと何かしてくれるのかなと思ってしまった自分が恥ずかしい。
薬草園ではミントの茂みの側にガーデンテーブルが設置されていた。
「フレッシュなミントで何杯でもおかわりし放題ですよ」
先端の柔らかそうな葉を摘んでグラスに添える。オニキス様は興味深そうにグラスを眺めているけれど、なんとなく態度がよそよそしい気もする。やっぱり、気のせいではなく、さっきのキスで「職場の憧れの先輩」の思い出を知られてしまったに違いない。
「あ、あの」
「ん?」
「憧れの先輩っていうのはそういう意味じゃなくて、シチュエーションに憧れたっていう感じで……」
「すまん、何の話だ?」
……しまった。完全に勘違いだった。
「えっと、このカクテルはモヒートっていうんですけれど」
「うん?」
オニキス様の顔が完全に私をからかうモードになっている。テーブルに置かれた私の手に指を絡める。
「先輩が飲んでいるのを見て、かっこよくて、こ、恋人ができたら一緒に飲みたいなってずっと憧れていたお酒で……」
「恋人?」
オニキス様が怪訝な顔になる。
「ご、ごめんなさい……。私、一人で勝手にオニキス様とは恋人同士なのかなって思いこんじゃって……」
……いや? さすがにそう思っちゃっても仕方なくない? あんなにいっぱいキスもして、それに私のことを4回もあんなふうにしたのに? 今だってこの手って、いわゆる恋人繋ぎなのに……
「恋人同士という概念が、よくわからない」
冗談ではなくそう言うオニキス様のつぶやきに、別のショックを受ける。
……もしかしてこの世界の、少なくとも高位貴族においては恋人という関係が存在しない?
確かに、貴族社会は政略結婚ありきだし、男性貴族が「見初める」こともあるだろうけど、微妙に恋人という関係性とは言えない気もする。
そう考えると、政治も家柄も関係なく好いた男性にアプローチするモモカの存在というのは高位貴族にとってはかなり特異だし、人によっては魅力的に映るのかもしれない。
「自由恋愛っていう概念はわかりますか?」
「物語や、平民の間では……あるいは結婚に繋がらない関係性としては存在すると理解しているが」
「なるほどです。 ……とりあえず乾杯しましょうか」
そう告げて手を引っ込めようとするけれどオニキス様は絡めた指を離してくれない。
「もう少し詳しく教えてもらわなくてはな?」
私の視線をからめとるように見据えるオニキス様の瞳には意地悪で楽し気な光が宿っていた。