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31.刺繍のナイトドレス

 

 おやつとサンドイッチを食べすぎてしまったので夕食はパスして自室に籠ってマヨネーズの注意事項を文机でレポートにまとめた。細菌がこの世界に存在するなら、ろくに洗浄されておらず、新鮮でない卵は扱いによっては食中毒を引き起こす可能性がある。


 細菌感染による食中毒が起きたとしてそれをどうにかする方法自体はわからない。なにしろ前世は事務職だったしド文系だし。ただ、腹痛、嘔吐、下痢は高い確率で発生するだろうから、脱水にならないように糖分と塩分の両方を含んだ水を摂取させる必要はあるだろう。スポーツドリンクのない世界って不便。


 魔法がある世界なので治癒魔法一発で済む話ではあるのだけど、治癒魔法が使える人材は上位貴族が囲い込んでいて、平民や下位貴族の間で大量感染が発生した場合は魔法ではどうにもならないだろう。


 とりあえず自分でわかる範囲の内容だけはまとめ終わったところで、主寝室側の扉からノックの音がした。


「どうぞ」


 髪を緩く結んでナイトガウンに身を包み、すっかりリラックスした装いのオニキス様がおずおずといった感じで部屋にはいってくる。なんだか珍しい雰囲気だ。手に持ったトレイにはトマトジュースのような赤い液体が注がれたグラスが載せられている。


 私はといえば、着替えるのが面倒でまだメイド服のままだった。


「今日は夕食はよかったのか?」

「ごめんなさい、テオのところでおやつを食べすぎて。モモカ様の卵サンドも頂いたらお腹がいっぱいになってしまって」


 せめてこれを飲みなさいとソファセットのローテーブルにグラスを置く。私が長ソファに座るとオニキス様は正面の1人用のソファに腰を下ろした。最近は隣に座ったり抱っこしてもらって座ることが多かったのでちょっと寂しい。でもまあ、私は湯あみもまだだし仕方がない。


「これはトマトジュースですか?」


 櫛切りにしたレモンとミントのようなフレッシュハーブが添えられたグラスを口にする。トマトの酸味とコンソメスープのような塩味とコクがある。いくらかお酒も入っているようだった。うろ覚えだけれどブラッディなんとかというカクテルがこんな味だった。


「突然、済まなかったな」


 モモカの来訪のことだろうかと思ったけれど、別にオニキス様が謝罪をする筋合いの話でもない。部屋を移った件のことだろう。


「いえ、素敵なお部屋で嬉しかったです」


 視線をちらりと主寝室の方に送る。お詫びだったらこっちのほうだろう。たしかに突然だし。


「実は、リアがクレメンティーネ様と面会をした翌日に、第一王子(アダマント)様から呼び出しがあった」


 クレメンティーネが私から指輪をもらったこと、おかげで悪夢にうなされなくなったとの礼を受けたことを話してくれた。


「アダマント様の話では、精霊の愛し子殿の魅了は本当に厄介らしい。王子自身も全く自覚がなかったそうだ」


 モモカが最初にスターリングの研究室に来た時には私ですらいつの間にか魅入られていた。確かに一筋縄ではいかなそうだ。けれどそれと私たちが主寝室を一緒に使うことになんの関係があるのだろう。


「おそらく精霊の愛し子殿はこれから頻繁にこの館を訪れるだろう。対策はするつもりだが愛し子殿に接触する使用人が魅了される可能性を懸念している」


「そんな……。でも、たしかに、そうですね……」


「まず、マルガとケヴィンは休暇も兼ねてこの館をひと夏離れさせる。交代に本家の使用人をこちらに来させるが、リアの部屋がずっと客間のままでは不自然に思われるからな」


「そういう理由だったのですね」


「リアにはゲルタというメイドを付ける。マルガの母親だ。彼女は仮に魅了されたとしても個人的な感情を仕事には持ち込まないという面で信頼をしている」


 マルガは母子2代でこの家に仕えているのかとびっくりしたけれど、2代どころではないらしい。


「この夏はそれで乗り切ったとして、モモカ様のお気持ちが変わるとも思えないのですが」


「それが悩ましいところだな」


 ため息をついてオニキス様もグラスのカクテルを煽った。思っていた味と違ったようで驚いた顔が可愛らしい。


「トマトジュースだと思って飲むとびっくりしますよね。でもとっても美味しい」


「さあ、リア。そろそろ仕事は終わりにして着替えてきなさい」


 マルガを呼ぶとオニキス様は主寝室の方へ戻っていく。事務的に話を済ませてしまったけれど、仮にも今日から同じ寝室で眠るというのに、その話にはほとんど触れなかった。まあ、あれだけ大きいベッドをわざわざ二つ用意したということは、普通に別々に眠るだけなのだろうけれど。


 湯あみを終えた後は何を着ればいいのだろうか。いつも着ている夜着は子供が着るような寝巻に近いもので、今晩はなにも起こらないにしても初めていっしょに過ごす夜に着るには華がない。


 マルガはどうするのだろうかと思っていると、シルクに似た光沢をもつ生地のゆったりとしたナイトドレスを用意してくれていた。白い布地に淡い色とりどりの糸で小鳥や花の刺繍がほどこされた可愛らしいデザインだ。下着は下履きしか着用しない。胸元が心もとないのでショールを巻いてもらう。


「こちらのナイトドレスはオニキス様がリア様にとご用意なさったものです。可愛らしくてよくお似合いですよ」


 この可愛らしいドレスを私に似合うと思って選んでくれたのだと思うと、嬉しさで胸がいっぱいになる。すぐにでも感謝を伝えたいと(はや)る気持ちで主寝室のドアをノックすると、ドアの前で待っていたかのような素早さで扉が開いた。


 マルガが失礼しますと言って退出する。


 ドアが閉まるや否やオニキス様が私を抱え上げる。


「オニキス様、どうなさったのですか?」


「君が来るのをずっと待っていた」


 そのままぐるぐると回りながら私を姿見の前に立たせる。私の来室を心待ちにしてくれていたようで、いつものオニキス様とは思えない高揚した様子は単純に嬉しい。


 けれどなにかがおかしい。初夜の妻を心待ちにしていた男というよりは、修学旅行の枕なげを楽しみにしている中学生男子のテンションというか……。


「とてもよく似合っているな。着心地はどうだ?」


鏡に映る私の姿を後ろに立って満足そうに眺める。


「このドレス、オニキス様がプレゼントしてくださったのでしょう? 可愛らしくて着心地も良いです。肌触りがとても滑らかで」


「そうだろう! 私が開発したのだからな」


 ……開発?


「開発」と口にした時のオニキス様の表情があまりにも歓喜に満ちていて嫌な予感しかしない。


「早く寝てみなさい。寝心地が悪くては意味がないからな」


「先ほどから何を一体……?」


「今夜は寝心地を確認してくれればいい。さあ、明かりを消しておいで」


 そんなことを言いながら、いそいそとガウンを脱いで椅子に掛ける。ベッドに入り、にこにこしながらフラットシーツを持ち上げて待っていてくれる。


 こんなの、裏にどんな思惑があったとしても抗えるわけなくない……?




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