26.蛙の王子さま
「マルガ、これは一体どうしたんですか?」
館の部屋に大量の花が届けられていた。鏡台の上には黒縞瑪瑙と白金の細工で作られた髪飾りに、揃いのチョーカーと耳飾りが用意されている。
「先日のお詫びにとのことです。それにしてもオニキス様は思いのほか独占欲が強くていらっしゃる……」
あっけにとられている私をマルガが淡々と着替えさせていく。
「あら、リア様、すこしお顔の印象が変わられました?」
化粧を施しながらマルガが首をかしげる。
「そ、そう?」
とぼけてはみたけれど、心当たりはあった。スライムのゼリーで何か作れないかと工夫をしていたときに、ふと思いついて歯列矯正用のマウスピースを作ってみていた。人と顔を合わせないことが確定している就寝時とダンジョンに潜る時にずっと装着していたのだ。効果がでるのはもっと時間がかかると思っていた。これほど短時間で変化があったとすれば嬉しい誤算だ。
着替えが終わった後マルガに連れてこられたのは裏庭だった。今日のドレスがなんだか丈が短めだった理由がわかる。
オニキス様が馬を従えて待機していた。
「今日は一体どうなさったのですか?」
「ああ、責任を果たしていないとの誹りをうけたからな」
「あれはモモカ様の思い違いですよ」
「また馬に乗せて欲しいと言っていただろう」
なぜか耳元で囁くように言われて思わず耳を抑える。
馬に乗せられ連れてこられた湖の畔に、春にはなかったはずの東屋が設置されていた。ゼラニウムのような紫色の花が東屋を飾るように咲き乱れている。
「綺麗……ですけど、これ、前に連れてきてもらった時にはなかったですよね」
「君が二人で花を見たいというから用意した」
東屋の中はソファとローテーブルが配置され、柔らかなランタンの光がテーブルを照らしていた。テーブルの上には一口サイズのオードブルとタルトが並べられ、アイスバケツには二本の瓶がささっている。
「中も素敵です……」
でも、なんというか、ちょっと雰囲気がありすぎてドギマギしてしまう。私をソファに座らせるとオニキス様は慣れた手つきでフルートグラスに2本の瓶から飲み物を注ぐ。
パチパチとはじける白ワインと桃のカクテル。ベリーニだ。やけに近い距離でオニキス様が私の隣に座り、乾杯をする。このカクテルにはハムのテリーヌの塩気が合うと、オードブルを一つ摘み私に食べさせてくれる。餌付けにももうずいぶん慣れた。
「精霊の愛し子殿は随分と君の妹……だったリーゼ嬢と仲が良いようだな」
「学園では一緒にいる姿は良く見かけましたね」
「リアとは面識はあるのか?」
「遠くから見かけるだけで、モモカ様と直接話をしたことはありません」
そんな話をしながら私の髪を弄んでいたオニキス様の指が、不意に首筋を撫でる。びっくりして首を捩ると耳の付け根を柔らかく唇でなぞられた。
「ん……オニキス様、何を? ……痛っ?」
急に心臓の辺りに小さな針を刺されたようなチクリとした痛みを覚える。
目を眇めたオニキス様が空を掴むような仕草をする。そのまま掌を開くと手品のようにピンク色の金平糖のような結晶が現れた。
「……秋波もここまで来れば呪詛だな」
オニキス様が東屋の外の暗闇にまるで何者かの気配をとらえたように視線を送る。誰かにじっと見られているような妙な肌寒さを覚えた。オニキス様が防御陣を構築する詠唱をするとさっきまで漂っていたヒヤリとした気配が心持ち緩んだ気がした。
「モモカ殿の気まぐれには困ったものだ」
「クリスティアーネ様のお話を聞いた限りでは、きっかけは卒業記念舞踏会らしいですよ」
「全く心当たりがない。とりあえず全方向に愛想を振り撒いていたからな!」
「胸を張って言うセリフではありませんね」
モモカはオニキス様のこんな社交嫌いの子供っぽい面を知っているのだろうか。研究室で垣間見せた大人のクールビューティーを想定していたら幻滅してくれないだろうか。
「どうすれば精霊の愛し子殿の不興を買えるだろうな?」
「……クリスティアーネ様はオニキス様は恋人としては魅力的だけれど、社交には消極的なところが欠点のように仰ってました。パーティに出るよりも研究の方がお好きでしょう」
「こればかりはなあ」
そう。オニキス様は気を抜くと他人の魔力を読めてしまうので、パーティなど人が多く集まる場所は普段よりも気を張らなくてはならず辛いはずだ。私を子供呼ばわりしていた時も、「なにを考えているかわからない」ところが良いようなことを言っていた。
「それまではモモカ様は第一王子にご執心だったようです。学園でも楽しそうにお話されている姿をよくみかけました。舞踏会の件は私も中座してしまったのでわからないのですが」
「女性とはそんなに急に心変わりをするものなのだろうか?」
「そうですね……、蛙化現象という説を聞いたことがあります。好いている男性に思いが通じそうになると途端に相手に対する思いが冷めてしまうという不思議な心理があるそうですよ」
「蛙化……?」
「呪いで蛙にされた王子様がお姫様に呪いを解いてもらう童話がありますよね」
この館の図書室の本にもその話はあった。青髭の童話もあったし、グリム童話は一通り抑存在する世界なのかもしれない。
「ああ、『蛙の王子』の童話か」
「現象としては逆なのですけどね。愛しい王子が急に蛙に見えてしまうというイメージが共有しやすいようで、こうした女性の心変わりを蛙化現象と呼ぶ、と聞いたことがあります」
私の夢の世界ではですが、と心の中で付け足す。
「よくわからんな。ともあれ、しばらく顔を合わせなければモモカ殿の興味も他へ向くだろう」
それは希望的観測がすぎるかもしれない。モモカが私と同じ転生者で、パッケージ裏の君としてずっとオニキス様をロックオンしていたとしたら、そう簡単に心変わりするだろうか。
私が考え込んでいると、またオニキス様が私の髪を撫ではじめる。
「思いが通じたと思った相手に突然蛙のように嫌われた王子はどんな気持ちだったのだろうな……」
そうつぶやいた顔がなんだかいつになく沈んでみえる。踏み込んではいけないことのような気がして黙ってオニキス様の胸にもたれかかる。ふいに、東屋の外側になにかがカツンと当たる音がした。オニキス様はちらりと音のする方を見やってから私の額に唇を寄せた。
「……んっ」
私が声を上げるのとほぼ同時にさっきより少し大きな音と軽い衝撃があった。
「これではリアを馬に乗せて帰るのもままならないな。いっそ今晩は二人でここに留まるか?」
オニキス様が半ば冗談半分にそう言うのを聞いて私の心臓が跳ね上がる。とたんに東屋に何かがぶつかる音が響く。
なるほど。私がオニキス様の言葉に動揺するだけでも攻撃が飛んでくるわけね。だとすれば私が心を鎮めれば攻撃はされない……のかな。えーっとこういう時はどうするんだっけ……素数を数える? いや、必要なのはそういう場当たり的な対処じゃない。
「オニキス様、もしかして私の魔力の制御はまだまだ甘いですか」
すこし迷ったように間をおいてオニキス様が口を開く。
「そうだな。感情を揺さぶられると魔力が漏れ出てしまうことがある」
「そこを、モモカ様の守護精霊に感知されてしまうのでしょうか」
「どうだろうな」
「私、もっと完全に魔力を制御できるようになりたい……です」
「リアの魔力制御はケヴィンにも引けを取らぬほどのレベルだが」
なぜそこにケヴィンの名前がと思ったけれど、よく考えれば魔力制御もままならない幼少の頃のオニキス様に仕えるのであれば、ケヴィンの側にそういう能力も必要だったろう。オニキス様にいつもお茶を淹れるのも彼の仕事だ。
「でも、私は、政略結婚とはいえ誰よりもオニキス様に近い存在になるのですから……」
ふと私を見つめるオニキス様の瞳がひどく優しくなったような気がした。せっかくマルガにセットしてもらった髪をぐしゃぐしゃに撫でられる。東屋にぶつかる攻撃の音はしない。
もうこれくらいのスキンシップで心を乱される私ではないですよ、と胸を張ると、「それは少し寂しいかもしれんな」とオニキス様が笑った。