25.不名誉な噂
結局この週末はオニキス様は研究室から出てこなかった。釈然としない気持ちで学園にもどる。そういえば、召喚獣の育成方法の資料も貸してもらい損ねたままだ。
魔法陣を使って魔法を発動する方法は教えてもらったけれど、ダンジョンに何枚も持っていくのも使い勝手がよくない。結局、召喚石と同じ数の召喚スティックを作ることにした。
「あー、スライムが足りない」
オーパーツにあふれたこの世界と言えども、シリコンやプラスチック粘土はさすがに存在しない。かわりにスライムから取れるゼラチン質を使って魔石の固定に利用していた。
取れたてはゼリーのようにふよふよしているけれど、日光に当てると短時間でむっちりと固くなる。UVレジンのような素材でなかなか可能性を感じる。何か他に使えることはないかとついつい狩りすぎてしまった。
……食べられるんだよねこれ。
試しに口に入れてみるけれど、味のないガムのようだし、お腹の中で固まってしまったらと思うとなかなか飲み込みにくい。なにかお菓子を作れないかと思ったけれどちょっと思いつかなかった。
***
クリスティアーネから歯並びの話を聞いてから、食堂に行ってもついつい学生たちの歯並びを気にしてしまう。よく気にして見ると確かに上位貴族のご令息ご令嬢たちの歯は例外なく整っている。けれど、6割くらいの学生たちの歯並びは私と大差ない。
こんなところに意識しない格差があったのかと今更ながら気が付いて愕然としてしまった。クリスティアーネの歯はもちろん隙の無い美しさでため息が出てしまう。
そんなことばかり気にしていたので、リーゼが妊娠しているという噂のキャッチアップが大分遅れてしまった。高学年の女子の間では、ここのところ妙にふっくらしてきたリーゼが妊娠していることは確定事項となっていた。相手がだれか不明なことがなおさら興味を引いているらしい。リーゼのクラスメイトに上級生たちが様子を聞くような動きもあった。
「あら、でもあの方ってめったに社交界にはいらっしゃらないわよね?」
「まあ……リーゼ様は4年生の卒業記念パーティーに参加してらしたの」
「エスコートはどなたが……?」
憶測に断片的な事実が加わって噂は加速していく。気が付いた時には、リーゼの相手がオニキス様だと其処此処で囁かれるようになっていた。事実無根だし子供が生まれてみれば髪の色で事実はわかるはずだし、と静観しているけれど学生たちの戯言とはいえ「歯も揃っていない小娘を妊娠させた」という不名誉をオニキス様が被らされているのは腹立たしい。
ケヴィンに連絡をした方がいいだろうか、と悩む日々が続いていた。クリスティアーネも心配して、噂の出どころを探ってくれていたけれど、誰が火元かはハッキリしないようだった。
そんな鬱々とした日々を過ごしていた時だった。クリスティアーネと研究室を訪ねると、中に来客の気配があった。
「やあ、リア。召喚獣の育成についての資料を渡すのがすっかり遅れてしまった。すまない」
オニキス様だった。クリスティアーネに観察されている気配を感じて表情をとりつくろいながら挨拶をする。
クリスティアーネとオニキス様は本当に初対面だったらしく、スターリングがお互いを紹介していた。
オニキス様が身内以外の貴族と対面しているところを見るのは初めてかもしれない。上位貴族然とした如才ないふるまいを見せられてなぜか少し寂しいような取り残されたような気持ちになる。
「資料を届けにわざわざいらしてくださったのですか?」
「ああ、いや、リアから教えてもらった呪文の数値化についてスターリングに話したら興味があるようだったからな、その話もあって」
二人の話の邪魔になってもいけないと、クリスティアーネと退室の挨拶をした時だった。あわただしい足音がドアの向こうで止まりノックの音が響いた。スターリングがクリスティアーネに応対するように、と目くばせをする。
「どなたでしょう。ただいま来客中なので後程で宜しいでしょうか?」
けれどもそれに返事はなく、扉が大きく開かれピンクブロンドの学生が一人飛び込んできた。モモカだった。
「失礼します。でもどうしてもお話をしたいことがあって……!」
信じられないくらい無礼な行動である。けれども、精霊の愛し子であるモモカを咎めることが出来る人間はこの国にはいない。クリスティアーネは感情を全く表に出さず、モモカを応接用のソファに促しお茶の支度を始める。
モモカの鋭い視線はスターリングではなくオニキス様に向けられていた。その怒りと自らの正義を疑わないまっすぐな瞳をみればモモカの目的は明らかだった。私とクリスティアーネの間に緊張が走る。
「オニキス・グラウヴァイン伯爵! あなたは責任を取るべきです」
スターリングが表情を一切変えず片眼鏡の縁を抑える。オニキス様はただ穏やかな笑みを顔に張り付けていた。
「責任とはいったい何についてのお話でしょう、精霊の愛し子様」
モモカにそう話しかけながらもなぜか私の方をちらりとみたオニキス様に慌てて首を振る。クリスティアーネがそんな私を見て笑いをこらえている。
「私の友達の……リーゼ・ブライトナーがこのままでは退学になってしまいます」
さすがに殿方の前で妊娠という単語を口にするのは抵抗があるようでモモカの言葉はなんとも歯切れが悪い。何を言われているのか全く分かっていないオニキス様がスターリングに視線を送る。
「モモカ様。おそらく学生たちの間でうわさになっている件でいらしたのだと思いますが」
「は、はい」
「リーゼ本人はモモカ様のこの行動をご存じなのですか」
「えっ? あ……、だって、こんなこと本人が自分で言える訳ないですよね、だから、私……」
スターリングが恐ろしく優し気な表情でモモカに微笑みかける。
「……モモカ様、噂は噂です。精霊の愛し子としての自覚を持って慎重に行動なさってください」
「でも! 私……」
友達を心配しているのは本当なのだろうけど、それだけではない切実さがモモカの顔にはあった。
「モモカ様、オニキスがそのような無責任な行動をする人間ではないことは私が保障します。……おそらくなにか誤解があるのだろうと思います」
モモカの顔が不自然なほど明るくなった。
「そうですよね。私も、オニキス様がそのような方ではないと信じていました」
完全に話がすり替わっているのだけれど、モモカはスターリングのこの話で何を納得したのだろうか?
それなのに、モモカはいやに晴れやかな表情でスターリングに礼をいい、笑顔を張り付けているオニキスに謝罪をし部屋を後にした。退室のタイミングを失っていた私たちも、モモカに続いて部屋を出る。
なんだったのだろう、今の茶番は……?
モモカの姿が完全に消えた後クリスティアーネがぼそりと「あのままオニキス様をふしだらで無責任な男性だと誤解させておいた方が楽だったかもしれませんわよ」と呟いた。