10.ご褒美
夜半にふいに攻撃の気配を感じて目を覚ました。攻撃と言っても、机の角に足をぶつけたくらいの衝撃ではあったが。来客部屋を通って廊下に続く扉を開けてみるがシンと静まり返っている。気のせいかと寝台に戻ったところに続けて二度ほど同じような気配を感じる。
しばらくは気を張っていたがいつのまにか眠ってしまった。
起きて支度をしながら、そういえばリーゼに防御魔法をかけていたことを思い出した。いちおうは心配しながらダイニングホールに向かう。もし、リーゼが姿をあらわさなかったらと不安に思っていたのに、当の本人はのんびりとした様子でやってきた。お行儀悪く小さいあくびを繰り返していたが、至って機嫌もよくフレッシュジュースを2杯も飲んでいた。
リーゼの身になにかあったわけではなさそうだ。寝相が悪くてどこかにぶつかったとかそんなところだろう。
いずれにしてもリーゼが眠っているときまで魔法をかけ続ける必要はない。意味のないことで安眠を妨害されるのもいやなので、今晩からは夜はリーゼの防御魔法は解いてしまおうと決める。
朝食の片づけを済ませると、昨日と同じように研究室の厨房に向かった。オニキス様は研究に没頭しているらしく今日はナッツの香りにもつられてこない。ケヴィンにお菓子を託した後は、レシピ調査のために図書室に向かう。
今日の図書室にはリーゼの姿はなかった。A嬢とC嬢ことアーデルハイトとクリスティアーネが何やら楽しそうに歓談している。盗み聞きにならないように、軽く会釈をして書棚に向かう。二人ともたしか侯爵家のご令嬢で跡継ぎの長男が別にいたはずだ。
「一体いつまでこちらにいなければならないのかしら。危険とは言っても護衛騎士を増やせばよいだけのことですのに」
「そろそろ退屈してきましたわね。でも春休み中なのにスターリング先生にお会いできるのだから私は新学期が始まるまではずっとこちらでも構いませんわ」
「まあ。クリスティアーネ様ったら。朝ジェイド様がいらしたときにスターリング先生のご予定を伺っておくべきでしたわね」
「あら、アーデルハイト様だって、このまえカーネリアン様がいらしたとき頬が赤くなってらっしゃいましてよ。こちらでの護衛をお願いしたらよいのでは?」
気になる異性の話で楽しそうに盛り上がる二人はまるで日本の女子高校生のようだ。年の頃もちょうどそのくらいなのだから一番の関心事なのはどの世界でも同じなのだろう。
ジェイドが来ていたのにはまったく気が付かなかった。顔を合わせても嫌味を言われるだけなので会わずに済んでむしろ良かった。それにしても彼女たちからすればグラウヴァイン伯爵家は家格で劣る。話の様子からスターリングは彼女たちに「婚約者候補」であることは説明していないように思えた。
特にクリスティアーネは思いを寄せているスターリングからそんなことを伝えられればショックを受けるのではないだろうか。まあ、女子学生特有の憧れに近い気持ちなのだろうとも思うけれど。スターリングに会う機会があったらそれとなく探りをいれてみたい。上手く聞き出せる自信は全くないけれど。
***
今日もいつものように研究所の厨房でパイを焼いていると珍しくオニキス様が応接スペースに顔をだしていた。
「子供。ここ2、3日で大分魔力抜きのパイが上手く作れるようになったな。褒美をやろう」
手招きをされる。ケヴィンを見ると、妙にニコニコしている。恐る恐る近づくと、ラッピングも何もないむき出しの奇妙な形のナイフを渡された。刃渡りは3㎝ほどで、持ち手の木の部分はペンのような形をしている。
「ありがとうございます……」
「明日からはパイの表面にそのナイフで模様をつけるように。細かく美しい模様がつけられるように集中してやってみなさい」
「はい……! がんばります」
「魔力制御は常時できているようだな……今日の分の髪を寄越せ」
頷いてキャップを外すと、急に頭の上にオニキス様の手が置かれた。驚いて顔をあげると私の背の高さにかがんだオニキス様の顔が目の前にあった。ニコニコしながら私の髪をわしゃわしゃと乱しながら撫で、ついでに髪を1本ぬかれてしまった。
「ひゃっ!?」
驚いて大きな声をあげた私をなぜかとても楽しそうにみつめる。
「子供、なかなかやるではないか。精進しろ」
褒められたことを喜べばいいのか、子ども扱いしすぎだと怒ればいいのかわからず固まっていると、オニキス様はパイを手にさっさと研究室の扉へ向かってしまった。
「オニキス様! 私は子供ではなくてもうレディなんですよ! 気を付けてくださいませ」
その言葉には振り向かずちょっと肩をすくめる、ケヴィンがごめんねのジェスチャーをしてオニキス様のあとを追う。二人の姿が完全に見えなくなると、急に頭に置かれたオニキス様の手の感触を思い出してしまった。なんだか頬が熱い。
オニキス様はいったいどういうつもりなのか。私を一流の菓子職人に育てようという親心なのかもしれない。違う気もするけど。何はともあれ図書室に行かねば、と思ったがナイフを持って館を歩き回るとあらぬ疑いをかけられそうなので、木綿の布でくるんで、厨房の奥に大事に仕舞った。