三 授業と血の臭い
まずいな。授業が全くわからん。
朝から三時限目までの学校で過ごした感想は、それに尽きた。
覚悟はしていたことだが、先生達が黒板に書いていること、話していること、指名されたクラスメイトの発言、どれもこれもちんぷんかんぷんだった。
同級生の全員が全員、今やってる勉強を理解しているわけじゃないんだろうが、俺は悪い意味で別格だ。
さっきから必死でノートに字を書き写してみてはいるけれど、その読み方の半分がわからないってんだからどうにもならない。
何で一行の問題の答えを出すまでに、黒板の三分の一くらいを埋めるくらいの式がいるんだよ。
坂本先生が勢いよくチョークを走らせ、数字や英語? やらを書き連ねていく様子を見つめ、途方に暮れるしかない。
そんな今は算数……じゃなかった、数学の時間だ。
駄目だこれは。
帰ってから姉ちゃんの手を借りでもしないと、太刀打ちできない。
できないということを実感すると、自分のやっていることが急に馬鹿らしくなってきた。
文字を写すだけなら、後からいくらでも追いつけるだろ。
俺は握っていたシャーペンを机の上に投げ出して、教室をぼんやりと眺める。
平和で、安全だ。
空調の入った室内の空気はどこまでも快適で、緊張感のかけらもない。
誰も自分の背中が無防備なことを気にしていないし、扉や窓の外から突然危険が襲ってくるなんて考えてもいないだろう。
俺だけだ。
俺だけが恐怖と切り離され、ただ座っているだけのこの状況に居心地の悪さを感じている。
緩み切った思考に緊張が溶かされて、だんだんと瞼が重くなっていくのを感じた。
どうせ分からないなら、危険なことなどないのなら、寝ていようが起きていようが同じだ。
俺は襲ってきた睡魔に抗わず、頬杖をついて静かに目を閉じた。
瞼の向こう側に、室内の明るい光を感じていたのは僅かな時間のこと。
それすらもすぐに気にならなくなり、意識が暗い闇の中に沈んでいく。
最初に聞こえたのは、誰かの荒い息遣いだった。
つんとした血の匂いを鼻が感じ取る。
それは自分のものか、それとも別の誰かか。
肌に感じるのは生暖かいぬめり気だった。
暗闇の中で光る目が、こっちを見ている。
視界が揺れているのは、俺が走っているせいだ。
追われている。逃げなければ。
必死で手足を動かしているはずなのに、背中に低い唸り声が、人間のそれではない足音が迫ってくる。
すぐ後ろにいるおぞましい何かが吠えたのが分かった。
思わず振り返った俺の目に映るのは。
肉を抉る爪か、骨まで噛み砕く牙か、刃か、炎か、それとも……
ただ上から振り下ろされただけの、手刀だった。
「起きたか? 久郎」
声がして、自分がきつく握っている手首の主の顔を呆然と見つめた。
坂本先生が眉根に皺を寄せて、それでも少し笑いながら俺の前に立っている。
その先生の右手を、俺は自分の顔に当たる直前のところで掴んでいた。
「いい反射神経だが、そろそろ放してくれよ」
握った所の骨が軋むほどに力を込めている。
そのことに気付いて、慌てて指の筋肉を緩める。
「……あの、すみませんでした」
俺が掴んでいたところをさする坂本先生と、こっちを凍り付いたように見つめている周りの人たち。
「いいさ。眠いんなら、顔、洗ってこい」
「そう、します」
大したことじゃない。
そう装ってひらひらと右手を振った坂本先生に言われるがまま、俺は立ち上がって周りの視線から逃げるように教室を出た。
多分、先生は居眠りしていた俺を注意しようとしたのだろう。
冗談めかしてチョップする、そんな程度のことだったはずだ。
俺は、それに本気で反応してしまった。
無意識に、本気の殺意を返してしまったのだ。
最悪だ。
まともじゃない。
そのことに気付かれてしまったはずだ。
「何て顔してんだよ、お前は」
駆け込んだ男子便所の鏡に映った自分の顔を見て、呟く。
眉の間に刻まれた深い皺と、引きつった頬。
きつく結ばれた口元。
目の奥に宿っているのは、見慣れた光。
忘れなければいけないはずの、鋭利な光だ。
消えろ。頼むから、なかったことにしてくれ。
そんな願いと一緒に俺は蛇口から溢れる水を両手いっぱいに溜めて、自分の顔に叩きつけた。
授業中に居眠りした後、体がびくっとなって起きるあれ。
久郎のは、そのタチが悪い版だと思ってください。