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一 普通の朝が馴染まない

 どうにも最近、危機感というやつが薄れてきている気がする。


 熟睡していい生活に慣れてきた、ということなんだろう。


 部屋のドアを開けて、誰かが忍び込んできたのはすぐに分かった。

 その誰かがくすくすと笑いながら寝床に近づいてきたのも、何か良からぬことを企んでいるのも予想はついていたんだ。


 だが。


「クロ兄っ、どーんっ!」


 何者かが体の上に跳び乗ってくるその瞬間でさえ、俺は温かい布団の中で心地よい眠気に身を任せていた。


 ぼすん、と体の上に落ちてきたそれを、俺は甘んじて受け入れた。

 少し息が詰まるくらいの衝撃はあったが、これでいい。

 ここでは寝込みにいきなり刃物を突き付けられることはない。


 そのことを、体がようやく理解しつつある。


「朝だよー、起きるよー、クロ兄―?」


 きゃいきゃいはしゃぐ声に合わせて、俺の腹の上に跨ったそいつはバウンドする。

 我が妹ながら、テンション高いうえに、容赦ないなおい。


 可愛いから許すけど。


「……遠華(とおか)ちゃん、もうちょい寝かせて」

「あー、ねぼすけいけないんだー」


 身を捩る俺のささやかな抵抗に、掛け布団の向こうの妹が倒れこんでくるのを感じた。

 そのまま俺の体を締め上げるつもりなのか、抱き着いてくる。


「ぎゅーっだよ、ぎゅーっ!」

「ぎゅーっ!」


 ……あん?


 鈴を転がしたような遠華ちゃんの声に、別の声が重なった。

 というか、体に乗っかっている重さもさっきまでの比じゃない。

 侵入者が明らかにもう一人、増えている。


「おはよー、クロ兄」

「おはよう、クロくん」

「ああ、おはよう、遠華ちゃん……おい、姉ちゃん、何してんの?」


 布団から顔を出すと、抱き着いていた二人と目が合った。

 コアラのようにしがみついている五歳児、笑顔が朝日より眩しい遠華ちゃんは全然そのままで構わない。


 問題は、もう一人だ。


「重い。離れて。顔が近いよ、勘弁してくれ」

「ええー、遠華ちゃんだけずるいいいい、あとお姉ちゃんそんなに重くないいい」

「重いだろ、色々と」


 体だけじゃなくて、態度の話もしてんだよ。こっちは。

 十八にもなる姉貴に朝っぱらから抱きしめられる弟の気持ちになってくれ。

 重さで気分も沈むわ。


「起きるから、離れてくれ。遠華ちゃん、今何時かわかる?」


 暑苦しい姉を引っぺがし、俺は体を起こす。

 よく眠れたおかげで、頭はすっきりとしていた。


「えっとね、もうすぐ七時だってお母さんが言ってた」

「つまり、クロくんも学校に行く時間」


 ベッドの上に寝そべったまま、姉さんがにこにこしながら勉強机の横の壁を指差す。


 そこにはピンとシワ一つないブレザーがかけられていた。

 俺が今日から通うことになっている高校指定の制服だ。

 よくよく見れば姉さんは既に俺のブレザーと似通ったデザインの制服姿で、遠華ちゃんの髪の毛もしっかりと櫛で整えられ、編み込みのある凝った結い方をしてある。


 二人とも朝の支度は終わっているということなんだろう。


「ありがとう。俺も着替えるよ」


 そんなにのんびりしている時間はなさそうだ。

 立ち上がって、壁にかけていた制服を手に取った。


「……着替えるよ?」


 ベッドの方をふり返ると、姉と妹が、うつ伏せに寝ころんだまま頬杖をつく、という同じ姿勢でこっちを見つめていた。

 なぜだろう、出て行く様子が全く感じられないんだが。


「さ、着替えちゃって。私たちのことはお構いなく」

「なくー」

「うん、構うよ? 見世物じゃないからね」

「ええー、でもクロくん、ネクタイとか結べる? お姉ちゃんがやったげるわよ」

「それは後で頼むよ。とりあえず出てって」

「もう、いっちょ前に恥ずかしがり屋さんになっちゃってえ」

「やかましい、出てけよ」


 ぶーぶーと頬を膨らませる姉を部屋から追い出して、ドアを閉めた。

 色々と気を遣ってくれているのはわかる。

 でも限度ってもんがあるだろうに。


 昔はここまで過保護じゃなかったはずなんだが。


 溜息をついて、寝間着の上を脱ぐ。

 ブレザーの下のワイシャツに袖を通したところで、


「遠華ちゃん、まだ居たの?」

「いたよー? わあ、クロ兄のお腹ぼこぼこしてるー、かたーい! なんでー?」


 背伸びをしてぺたぺたと腹を触ってくる妹の、無邪気な瞳と目が合った。

 これは、追い出せないなあ。


「まあ、色々あったんだよ……」


 毎日、死ぬほど体を動かし続けるとかね。

 いや、逆か。

 文字通り、動かなきゃ死んでたとも言うほうが正しい。


「ふーん。クロ兄、かっこいいねえ」


 遠華ちゃんに出て行く気は全くないらしい。

 仕方ないと諦めて、俺はさっさと着替えてしまうことにした。



 洗面所で顔を洗った後、鏡で見る自分の姿はどこかしっくりとこなかった。

 どうにも似合っている気がしない。

 それは制服のサイズの問題か、それとも見慣れていないからか。


 別の誰かの体の上に自分の頭が乗っている。

 そんな違和感が拭えなかった。


「そんなに、目立たないよな」


 右の側頭部の髪を少しだけかき上げて、その下に薄っすらと走っている三本の傷跡を見る。

 もう随分前についたものだ。

 今ぐらいに髪を伸ばしておけば、きっと気づかれないだろう。


 どうしてこんな傷ができたのか。

 その理由を詮索されるのは、できれば避けたいところだ。


 最後の抵抗として手櫛で側頭部をがさがさとかき混ぜてから、俺は洗面所を出てリビングに向かった。


「あ、クロくん、やっと来た。ほら、こっち」


 朝食の香りがするリビングに入るなり、姉ちゃんがおいでおいでと手招きしてきた。

 ネクタイを結ばせろということらしい。

 恥ずかしいが自分では出来なかったんだから、ここは甘えるしかないだろう。


「こうしてー、こうしてー、ここでくるっと回して、こう! はい、きゅっ!」


 俺からネクタイを受け取った姉ちゃんは鼻歌交じりに手際よく巻いてしまう。


 いや、ちょっと待て。


「あのさ、できれば巻き方を教えて欲しいんだけど」

「ええ? いいわよ、毎朝私が巻いてあげるから。新婚さんみたいに」


 よし、絶対明日までに自分で調べよう。

 そう心に誓った。

 つうか自分で巻けないと学校でも困る。


「おはよう。なかなか様になってるじゃないか、久郎」

「ああ、父さん、おはよう」


 姉ちゃんの手つきを思い起こしながらネクタイの結び目を触っていると、既に席について新聞を読んでいた父さんと目が合った。


 前髪を上げてかっちりと後ろに固めた髪形に、上はポロシャツで下はジャージという動きやすい恰好。

 我が家の主にして中学校の体育の教師である橋爪太郎のスタイルは、昔のまま変わっていなかった。

 今朝も顧問をしているバレーボール部の朝練を見に行くんだろう。


「ただ、あまりお姉ちゃんに甘えすぎるのはどうかと思うぞ」


 見つめた相手に緊張感を与える鋭い目で、じろりと睨まれる。

 流石は監督として生徒を何度も全国大会に導いているだけのことはある。

 今の俺でも少し気圧されてしまうような迫力だ。


 ちなみに俺の名前の久郎、というのは父さんが教えたバレー部が県大会で九度目の優勝をしたことにちなんでつけられている。

 姉ちゃんが七回目だから奈々子、遠華ちゃんは十回目といった具合だ。

 この徹底したバレーボール愛の男は、俺にとっては厳しい父親なわけなのだが。


「いいか、久郎。今日から新しい生活が始まって気持ちが落ち着かないのはわかる。これから悩むことも」

「ねーパパ―、お醤油とってー」

「ああ、ハイハイどうぞ、遠華ちゃん……で、だ、悩むこともあるかもしれん。しかし、そんな時こそ」

「お父さん、新聞閉じて。テレビ見えない」

「ねえ、奈々子ちゃん? 今、俺ちょっといい話しようとしてるんだけど。わかるでしょ、こう父親らしく」

「そういうのいいから。占い見逃しちゃうでしょ、早く」

「えええー……もう、仕方ないなあ」


 姉ちゃんや妹には何故かうだつが上がらないのも、昔のまんまだ。

 しゅんと肩を落とし、新聞を小さくたたむ父さんを見て、俺は学校では女子生徒相手にどうしてるんだろうなあと心配になる。


「要するに、お父さんは久郎に頑張れって言いたいのよね」

「む、まあ、そんなところだな」


 説教を中断された父さんをフォローするように、母さんが柔らかな口調で話に加わってきた。


 背が高く、厳しい印象の親父とは正反対の、小柄でほんわかした雰囲気の女性。

 それが俺の母親、橋爪春子である。


 母さんは俺の姿をまんまるな目で上から下まで入念に眺めて、


「うん! かっこいい、自慢の息子だ」


 豊かな胸を満足気に反らして、にこっと笑った。

 この明るくて可愛らしい感じを受け継いでいるのが遠華ちゃんで、俺と姉ちゃんはどっちかというと父さん似だ。

 姉ちゃんはお母さんに似たかったと口癖のように言うが、チビの俺は父さんの背の高さをもらいたかった。


 すらっとした姉ちゃんに一生見下ろされ、ガキ扱いされるのかと思うとどうにも気が滅入る。


「久郎が戻ってきてから、色々大変だったけど頑張ったかいがあったわね、ねっ、お父さん」

「……そうだな」


 腰元に手を当て、楽し気に言った母さんに父さんも微かに笑って答える。


 色々大変だった、か。


 両親に見つめられながら、俺はこれまでの半年のことを思い返す。

 俺は中学校というものに一日も通っていない。

 正確には、俺の意志に関係なく通えなかった。

 しかし、義務教育というシステムの上での違いはない。

 俺を姉ちゃんが通っている私立高校に入学させるために、二人が方々を駆け回って頭を下げ、面倒な手続きを山ほどしてくれたことは知っている。


 これまでの自分をなかったことにして、その努力と期待に上手く応えられるかが今はただ不安だった。


「あのさ、母さん、俺……」

「また、学校には行かない、なんて言わないでね。お願い、久郎」


 家に戻って来たばかりの頃のことを思い出したのだろう。

 母さんが悲しそうに目を伏せる。


「確かに、あなたには普通じゃないことがあった。でも、大丈夫。今は私たちがついてるからね。これからは普通に勉強して、年相応に遊んで、友達と笑える幸せな時間を過ごして、いいの」

「…………」

「いいのよ、久郎」


 俺を見据える母さんの目には有無を言わせない光が灯っていた。

 でも、それはとても短い時間のこと。


「それに母さん、息子におっきなお弁当を作ってあげるのが夢だったんだから」


 すぐにいつもの柔和な笑顔に戻った母さんに重箱みたいな弁当の包みを渡されてしまい、俺は何も言えなくなった。

 この弁当、通学鞄に入らない気がするんだがどうすればいいんだろうか。


「……二人とも、ありがとう」

「どういたしましてっ。野菜も残さず食べてくるのよ?」


 何に対して言ったのか曖昧な俺の感謝に、母さんは冗談めかして言い、父さんは無言で頷いてくれた。


「さ、太郎さん、もうそろそろ家出なきゃ朝練に遅れちゃうでしょ! 久郎もさっさと朝ご飯食べちゃって! 奈々子は久郎をちゃんと学校まで連れていくこと! 遠華ちゃんは食べたらちゃんと歯磨きね!」

「はーい」

「らじゃー」


 仕切り直し、と言わんばかりにてきぱきと指示を出して朝の仕事に戻っていく母さんに、姉さんと遠華ちゃんがピッと敬礼をして返す。

 俺と父さんはそれを見て、どちらともなく苦い笑みを浮かべた。


 ウチって、女性陣の方が強かったんだなあ。

 そんなこと五年前は、気づきもしなかった。

 朝起きて、顔を洗って、家族がご飯を食べていて、誰かに見送られて家を出る。

 そういう毎日が当たり前であることは、とても幸せだと思うのです。

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