21 暴言事件について
「あらまぁ、フランツさん。お早うございます」
カメリアがそう言うと、彼は駆け寄るようにこちらへ近付いてきて、
「お早うございます」と言った。「ひょっとして、今から娘を起こしに?」
「あなたは今から、ベルのところへ行くの?」
「ええ、まぁね。色々と話しておきたいことがありますし」
「その感じだと、外で泊まっていたの?」
「ええ、まぁ…… 妻の実家にはあまり来たことが無いし、いきなり泊まるのも悪いと思い直しましてね」
「まさか、野宿とか?」
「いえ、運良く宿が見つかりましてね、そこでぐっすり寝てましたよ」
「そうですか、それなら良かった」
「正直な話、野宿は苦手でしてね。見つかって良かったです、本当に」
「誰だって、雨ざらしの外で寝るのは嫌なものですよ。昨日も色々ありましたし、どうしているのかと思っていましたけれど……」
「いやはや、面目ありません。昨日はすみませんでした」
フランツが頭をかきながら言った。
「あっ、そうそう。今、思い出したわ」
「はい?」
「実は昨日、聞きそびれたんだけれど…… またどうして急に、帰省してきたの? 確か今の今まで、大陸の方で仕事をしていたんじゃないの?」
ケインは、カメリアがそれとなく経営が順調か否かを聞いているんじゃないかと思った。
その経営者であるフランツは、苦笑って話を聞いている。
「会社、順調なの?」
「ええ、おかげさまで。ただ、まだまだ発展途上ではありますがね」
「そこまで成長させているのは素晴らしいことですよ。尊敬致しますわ」
「ありがとうございます」と微笑むフランツ。
「それで…… 順調なのに、何か用事でもあって帰省したの?
正直に言いますけれど…… あまりに突然で、私もそうだけれどベルやユイちゃんが一番、驚いているくらいで…… やっぱり何かあったんじゃないかと心配するでしょう?」
「そうですよね…… ただ、今はまだ何もお話できません。ちょっとした確認をするために戻ってきた、とだけ言っておきます」
「確認?」
「ええ。それが済めば、僕はさっさとこの島から出ていきますよ。
いや、本当ならゆっくり滞在したいんですがね、ユイと和解するにも、時間が必要でしょう? あの状況じゃ、滞在していても一緒だろうと思いましてね」
「中々に難しい問題ですよねぇ。ええ、難しいですとも、心中お察し致しますわ」
「ありがとうございます。また何かあったら、カメリアさんにご相談しますよ。――ただ」
「ただ?」
「実は今、ケインさんに相談がありましてね、ついでに聞いてもらえませんか?」
「え? 自分ですか?」
不意打ちを受けたケインが、思わずギョッとした顔で訊き返した。
「まぁまぁ、そんなに嫌がらないで。仕事のついでだと思って聞いてくださいよ」
「はぁ」
忙しいときは、とことん忙しくなる。
これは証明が困難な、真理真実の一つだろうとケインは思った。
「昨日の夜なんですけど…… その、やっぱり娘のことが気になって、交番の側まで来たんです。もちろん交番の前までは言ってません。あくまで近くです」
それはもう前まで近付いたと言える。だけど、ケインは突っ込まずに黙って耳を傾けた。
「明かりが消えていたんで、もう眠ったんだなと思って、宿へ帰ろうと思ったんですけれど…… 実は、そこで無礼極まりない男と出会いましてね」
「無礼極まりない男、ですか?」
フランツがうなずく。
さっきまでと違って、随分と眉根が眉間に寄っていた。
「その男、僕を散々に罵倒した挙げ句、立ち去って行ったんですがね……! どうにも腸が煮えくり返ると言うか、許せないんですよ……!」
「その…… 失礼ですが、どのようなことを言われたのですか?」
ギロリとフランツが睨む。
ケインは逆に片眉をピクリと動かし、
「子供の悪口合戦になっただけ、というわけではないのでしょう?」
と、かわすように話を促した。
「いいでしょう。
端的に言えば、父親失格だのリエッジ家の面汚しだの…… あとは犯罪者のクセにとか、とにかく名誉毀損も甚だしいことを、これでもかと言ってきましてね」
そう言って、彼はケインに一歩詰め寄って、
「向こうも大声だったし、ひょっとすると交番にいたあの子達が聞いているかもしれない。それって証言になりますよね?」
「なるかもしれませんし、ならないかもしれません。それは裁判所と捜査課が判断することなので」
「そんなバカな……! 言われたら黙って聞いてなけりゃいけないのですか?!」
「まぁまぁまぁ、落ち着いてくださいよフランツさん」と、両手で静止ながらケインが言った。
「いいですか? 暴言は形に残らないから、何を言っても許されると言うわけじゃありません。もちろん、あなたが被害を受けたと言うのであれば、その人間を探し出して、調査する必要があります。
ですから、その男の人相なんかを教えて頂けますか?
自分が担当するかどうかは不明ですが、少なくとも事件として捜査課へ報告くらいはしておきますから」
「ありがたい、ぜひそうしてくれ」
と、フランツは息巻いて言った。
「で、人相は?」
「暗かったので顔はハッキリ分かってませんが…… 背は低めで、鍔の広い帽子にコートを着ていて…… あと、眼鏡と立派な口髭がありました! それだけは薄明かりでもハッキリ見て取りましたよ!」
「なるほど……」と言った瞬間、ケインは何か引っ掛かりを覚えた。
「ぜひ、お願いしますよケインさん。――ケインさん?」
「あ、はい。もちろんです、任せておいてください」
「お願いしますよ? 可能なら豚箱にブチ込んでやる……!」
「とにかく落ち着いてくださいよ、フランツさん。深呼吸でもしてください」
「助言ありがとう。――僕はそろそろ行きます。では失礼」
「待ってくださる?」とカメリアが呼び止める。「最後に一つだけ」
「なんです?」と、少々、うんざりした顔でフランツが言った。
「ニアとはうまくいってる?」
「なんですって?」
「ごめんなさいね…… ちょっと気になったものだから。ほら、あの子って気分屋だし、人当たりも強いでしょ? 敵も多く作る性格だから心配で……」
不意に、フランツが笑い出した。
妙に長い笑いで、それが収まるまでケインもカメリアも待った。
「いやいや、失敬。あいつはそんなことで弱気になるような女じゃありませんよ。つねに自分が中心。他人なんて眼中にありませんから」
「じゃあ、うまくいってないの?」
「まぁ、今はまだうまくいってますよ。ただ、仲良しという段階では、もうありませんね。どちらかというと、伴侶と言うより悪友ですかね」
「悪友…… 物騒ね?」
「場合によっては、伴侶なんて存在よりも頼れますけどね。では、今度こそ失礼しますよ。もう呼び止めたりしないでくださいよ?」
「ええ、ええ。ゴメンなさいね、年だから気になると早く確認したくって」
フランツはまた笑って、「それじゃあ」と言い、立ち去った。
彼が坂を上って姿を消したのを見計らい、
「借金とかは無さそうですかね?」とケインが言った。
「どうかしらね。あの人の会社のこと、可能なら調べてくれないかしら?」
「さすがにアル・ファームにある会社は無理ですよ…… 可能であっても、返信は早くて一ヶ月後とかじゃないですかね?」
「貿易会社だから、確か、この国にも事務所があるはずですよ。そこの財務状況を税務課か何かで聞けば、少なくとも負債が資産を上回っているかどうかくらい、分かるでしょう?」
「まぁ、それくらいならひょっとするとですけど…… これからどうするんですかね、あそこの夫婦と娘さん」
「どうするって?」
「ほら…… あれってもう、離婚しそうじゃないですか」
「そうなの?」
「これには根拠があります」
「あら? なんです?」
「奥さんの実家に泊めてもらえず、外で過ごしていたってことでしょう?
ユイちゃんが交番にいるってことを知ってるってことは、俺達が知らないあいだに家へ一度は帰って、どうなったかを聞いてるってことですよ」
カメリアがニンマリと笑う。
「当たりですか?」
「当たりかどうか分からないけど、私も同意見ですよ」
「じゃあ、ほぼ当たりですね」
「その話はまた今度するとして、今はユイちゃんとアシュリーを起こしに行きましょうかね」
分かりましたとケインは答え、アシュリーの寝顔に遭遇したいと言う気持ちを一瞬だけ抱きつつ、それはいけないぞと、自制心で邪な心を打ち消して、遠間に見える交番を目指した。