19 小さな事件は突然に
カメリアとケインが話をしている頃、交番の明かりは、すでに消えていて静まり返っていた。
明日は朝早くにケインが迎えに来るから、アシュリーもユイも、夜更かしせずに就寝していたのだ。あと、お腹が減っているのを誤魔化す目的もあった。
すると不意に、アシュリーが掛け布団を動かさないよう、慎重にベッドから抜け始めた。
どうやら彼女は寝付けなかったようで、靴を履き、土間の方にある水場へと向かった。
土瓶の中にたまっている、飲料用の水を杓子ですくって焼き物のコップへ注ぐ。
それを飲もうと手を伸ばしたとき、
『どういう意味だッ?!』
と、男性の叫び声がしてきた。
驚いたアシュリーが、水場と厠のあいだにある、格子付きのガラス窓へ顔を向けた。
昼間なら商店街への道が見えるが、今は真っ暗で、代わりにランタンかランプらしい明かりが二つ、見えていた。
その淡い明かりに照らし出された人の姿が、二人分あって、膝の向きから対面しているのが分かる。服装から男性だというのも分かった。
『…………』
『お前になんの関係があるッ!?』
どこか、聞き覚えのある声だとアシュリーは思った。
『…………』
『なんでお前がそんなこと……!』
『…………』
急に声量が落ちていた。そのせいで、話の内容が全く伝わってこなかった。
自然と窓際に顔を近付けていたアシュリーが、耳をガラス窓へそばだてて声を拾おうとしている。
『ユイは娘だッ……! お前がどう言おうが、俺の考えは何も変わらんッ!!』
やっぱり、とアシュリーは思った。
二人の男性のうち、一人は父親――フランツだ。
そうすると残りの問題は、もう一方の男性だが…… 残念ながら、高笑いしているその声を聞いても、アシュリーには全く聞き覚えが無かった。
そのうち、一方の男性が反転し、商店街の方向へと歩いて行く。
『クソッ……! 覚えていろよッ!』
フランツの捨て台詞が聞こえた。
それから彼は、しばらく周囲をうかがっているようだった。
アシュリーは見つかると面倒だと思って、ガラス窓から離れ、道側から見られないようなところへ移動する。
それから少しして、
「アシュリー?」
彼女が驚いて飛びあがる猫みたいに、背筋を伸ばして飛び跳ねた。
「何してるの?」
ベッドから上体を起こしていたユイが、首を傾げながら尋ねる。
「えっと、あの、その……!」
心音が聞き取れるんじゃないかと言うくらいにドキドキしていたアシュリーが、咄嗟に目に付いた焼き物のコップを手に取って、
「み、水を飲もうかと思って……!」
「何? 不審者でもいた……?」
当然のように見透かされていた。
しかし、ここでフランツがいたことを話してしまっては、怒って警備兵に言いつけるという方向に向かってしまうかもしれない。
祖母の演奏会もあるし、それだけは避けたかったアシュリーが、
「さ、さっき、酔っ払いみたいな人が言い争いしてるのが聞こえちゃって……」
「酔っ払い?」
すでにベッドから降りて、靴を履いていたユイが、アシュリーの傍へと寄ってガラス窓を覗き込んだ。
「まだいる……?」と、アシュリーが呼び掛ける。
「な~んにも見えないけど……」
アシュリーはホッとして、一息ついた。
「言い争いだけだった? 殴り合ってたりしてない?」
「し、してないよ。そんな怖いことがあったら、すぐにユイを起こしにいくから……」
「でも、変よね。明かりが無いとは言え、交番前で言い争いをするなんて。しょっ引かれるかもしれないのに」
「そうだね……」
突然、ガラス窓を打つ音が響く。
ビックリした二人が、ガラス窓へパッと振り返る。
外からぼんやりと、明かりが差し込んできていた。
アシュリーはユイの傍へ寄って、彼女の二の腕をつかむ。
「だ、誰ッ……?!」とユイが叫ぶ。
『ユイお嬢様……! ユイお嬢様……! 起きてください……!』
コンコンと定期的にガラス窓を鳴らしながら、女性が呼び掛けていた。
「ひょっとして」と、ユイがガラス窓へ近付く。
「ベティ!」
そう言って、ユイがアシュリーの方へ振り返った。
「大丈夫、ベティだから!」
「ど、どうしてここに?」
『お夜食をお持ちしました!』
ベティもユイ達に気付いたのか、ガラス窓を鳴らすのをやめて、代わりにバスケットを掲げていた。
二人がお互いの顔を見合う。
「鍵って内側からでも掛かるのかな?」
「どうかな……」
「ちょっと確認してみる」
とユイが言って、ガラス窓越しに、「ちょっと待っててッ!」と叫んで、扉の方へと駆け寄った。
それをアシュリーは覗き込むようにうかがい、
「どう?」と言った。
「うん、こっちは行けそう。問題は交番の玄関口だけど……」
「とりあえず、あけてみようか?」
「そうこなくっちゃね」
ユイが顔を横向けて言った。口角があがっていて、楽しそうである。
「どうかしたの?」とアシュリー。
「アシュリーってさ、気弱そうに見えて割と肝が据わってるから好き。イタズラとか好きだった方でしょ?」
「ち、違いますから……!
さっきの言い争いしてた人達が、近くにいたら危ないから……!」
「はいはい、分かってますって。――じゃあ、あけるね」
ユイが、ノブの下にある内鍵の閂を外す。
それから二人は、警備兵たちが業務に使っている、よく見る一室を抜けて玄関口まで来た。
玄関の扉は引き戸で、内鍵が閂だったから、それをパチッと外す。
ランタンを持ったベティが、外に立っていた。
「急にすみません、お嬢様」
「別にいいけど、どうして一人で来たの? ケインさんは?」
「ご就寝前でしたし、これ以上、アレコレ頼むのも…… 少々、うんざりした顔をなさっていたようなので」
「まぁ、そうだよね……」と、ユイが元気なく苦笑った。
「正直、届けようか迷ったのですけれど、さすがにお腹がすいていらっしゃるのではないかと思いまして」
「うん、正直に言うとお腹が減って仕方なかったの。だから早めに就寝したって言うか……」
「冷めないうちにどうぞ」
そう言って、ベティがバスケットを手渡した。
「ありがとう、ベティ。今日はゴメンね、色々と……」
「仕方ありませんよ。聞きしに勝る暴君でしたから」
「そんな偉い人でもないけれどね、あいつ」
「では、これで失礼します。どうか鍵のかけ忘れにはご注意ください。――実は先程、誰かの言い合いが聞こえていたので」
「知ってる知ってる、アシュリーも聞いてたみたいだから」
「そうなのですか?」
ベティがアシュリーへ視線を送ると、彼女は思わず目をそむけ、
「こ、怖かったから、ジッとしていて何も分からなかったですけど……」と答える。
「とにかく、戸締まりだけはお願いします。あと…… ケイン様にはご内密にお願い致します」
「もちろん、怒られるの嫌だもん。――ね? アシュリー」
ユイの呼び掛けに、アシュリーがムッとした顔をしながら、
「怒られるときは一緒だからね?」と言うから、ユイが笑いながら「分かってる分かってる」と言った。
「いいえ、お嬢様」と、急にベティが言った。「怒られるのは、私一人で充分ですから」