エーベリン妃の願い
ファロカ王国とロニ王国は、荒野を国境として隣り合っており、国境争いのいざこざから、長らく仲が悪かった。戦争をしては講和を結ぶ。それが何度か繰り返されたのち、ロニ王国からファロカ王国の王太子のもとに、ひとりの王女が嫁いできた。エーベリンという名のその王女は、絶世の美女とはいわないまでもそれなりに美しく、聡明でもあり、両国の国民たちは、これで平和が訪れるかと期待した。
エーベリンは、両国の和平に力を尽くそうと決意して嫁いできた。自分を平和のための外交官だと認識していた。物語で語られるような恋にあこがれる気持ちがなかったわけではないが、それはあくまで物語のなかの話。現実の王女は国の命運をになっていると言い聞かされて育ち、みずからもそのようなものだと納得していた。王子の愛に頼るばかりの物語の姫君たちより、外交官として選ばれた自分のほうが、能力を期待されているのだという誇りもあった。
もしもロニ王国の王太子となった兄が彼女と志を同じくしていたら、両国の運命も彼女の運命も違ったものとなったことだろう。あるいは、彼女の夫となったファロカ王国の王太子が彼女を真に愛するか、少なくとも理解しておれば、やはり運命は変わったやもしれぬ。
だが、ふたつの国の王太子たちは、いずれも、エーベリンの半分も平和を望んでおらず、彼女を愛してもいなければ、理解することもなかった。
エーベリンは平和を望んでおり、彼女の兄と夫は、いずれ自分の所有物となる国をさらに大きくすることを望んでいた。政略結婚は、その好機をうかがうための戦略にすぎぬ。彼らにとって、エーベリンは、愛する者でも同志でもなければ外交官でもなく、たんなる戦略の駒にすぎなかった。
夫となったファロカ王国の王太子は、エーベリンを愛さなかった。美貌と豊満な肉体をもつ侍女を寵姫として寵愛していたからでもあり、最初からエーベリンを人質と思っていたからでもある。王太子だけでなく、王も王妃も、おもだった重臣たちも、ファロカ王国の高位にある者たちのほとんどは、王太子妃を人質としか見ていなかった。
ただひとり、第二王子のデュークだけが、この兄嫁に思慕の情を向けた。はじめは、彼も、みなと同様にエーベリンを人質としか見ていなかったのだが、両国の平和のために力を尽くそうとする彼女の姿を見ているうちに、いじらしく思う気持ち、尊敬する気持ちが生まれ、やがて、それは、秘めたる恋に変わっていったのだった。
両国の平和は、王家どうしが姻戚となってわずか三年で破られた。ロニ王国の国王が病死し、王太子が新国王として即位すると、妹が嫁いだ長年の敵国を今度こそ手に入れようと欲したのである。
ロニの新国王にとって、エーベリンは政略の駒にすぎなかった。王太子のころからずっと、女を政略の駒として見ていた男であり、姉妹たちへの愛情は薄い。幼いころから聡明なエーベリンに対しては、「あの方が男であったら」と家臣たちが口にしているのを何度か耳にしたこともあり、あまり快く思っていなかった。
亡くなった父王は、娘たちのなかでもとりわけ責任感が強く、聡明な娘なればこそ、長年の敵国にいわば同盟の使者として送ったのだが、新王の見方は違っていた。妹たちのなかでもかわいげのない女だから、捨て駒として、敵国に人質として送ったのだと思っていた。
エーベリンの人質としての用はすんだ。三年の平和のあいだに疲弊していた国力はかなり回復した。間諜たちの報告では、ファロカ王国の王太子は寵姫を愛し、エーベリンを疎んじているらしいが、それでもふたりのあいだには王子がひとり生まれており、王と王妃は孫をかわいがっているという。なれば、嫁の実家に対して敵意が多少はそがれ、油断も生まれているだろう。
それに、王太子が妃を疎んじていても、第二王子は兄嫁に心服しており、民たちも王太子妃を愛しているという。これも、こちらに有利に働くはずだ。
そう計算したロニ王国の王は、ファロカ王国への侵攻を決意した。
「義姉上、お逃げください」
ファロカ王国侵攻の報が伝わると、デューク王子がエーベリンに言った。
「父上や兄上は、義姉上をロニ王国への見せしめとして殺そうとするでしょう。その前にお逃げください。今なら故国にたどりつけましょう」
「いいえ」と、青ざめた顔でエーベリンが答え、腕の中のわが子に目を向けた。
「この子を連れて実家に逃げ帰れば、この子はまちがいなく、ファロカ王家の血を引く者として殺されるでしょう」
「では、その子を残してひとりでお逃げください」
「そのようなことをすれば、この子は父親の手によって殺されます。母からロニ王家の血を受け継ぐ者として」
「それなら……」
デューク王子はごくりとつばを飲み、ひそかに望んでいたことを口にした。
「わたしとお逃げください。わたしがあなたとその子をお守りいたします」
「いいえ」と、エーベリンが答えた。
「そうおっしゃってくださるなら、あなたひとりでこの子を連れて逃げてくださいませ。わたしがいっしょなら、おそらくは見つかって捕らえられてしまうでしょうが、あなたひとりなら逃げ切れましょう。よもや、第二王子が甥を連れて逃げるとはだれも思わないでしょうから」
「義姉上を残してはいけません。あなたはまちがいなく殺されます」
「わかっております。けれども、わたしは両国の和平の使者として嫁いでまいりました。兄と夫の意思がどうであれ、両国の平和を築くのがわたしの使命と考えております。その使命に失敗したのであれば、命であがなうのもやむをえぬこと」
悲愴なその決意は、もはや使命感というよりは、最後の意地であり、誇りであったろう。人生を賭けたすべての努力が無に帰し、誠意のすべてを踏みにじられた者にとって、こうでも思わなければやりきれぬではないか。
「せめてわたしは願をかけましょう。わたしの命と引き替えに、両国に悠久の平和が訪れることを。願わくば、いつかあなたかこの子がこの地に平和をもたらしてくれますように」
毅然として宣言したエーベリンの胸に去来するのが、はたして真に平和への祈りだったか、それとも憤りだったか。それは本人にもわからぬことだろう。
ともあれ、いささか単純なデューク王子は、兄嫁のこの言葉をそのままに受け止め、感動した。
敵意に満ちた視線のなかで、平和のために尽くしつづけてきた気高い女性。その努力と誠意を踏みにじられても、最後まで命を賭けて使命をまっとうしようとするとは、なんと崇高なことか。
感動と悲しみの涙にむせびながら、デューク王子は、まだ赤子の甥を逃がすことをエーベリンに約束した。
デューク王子が赤子を抱いて城を出奔してまもなく、エーベリンは夫によって一室に監禁された。つき従うのは、母国からともなってきた侍女ふたり。不穏な空気のなか、エーベリンの腕に抱きかかえられた赤子は泣き声ひとつ立てぬ。それもそのはず、赤子はそれらしくくるまれた枕にすぎなかったのだが、王太子もその従者たちも、侍女たちですら偽者とは気づかなかった。
「平和のための使者というのがそなたの口癖だったな」
あざけるように、王太子が言った。
「ならば、侵攻してきたそなたの母国の軍に、平和を破った恨み言を言うがよいぞ。そなたを軍の先頭に押し立てようほどに」
敵軍の先頭に自国の王女がいれば、ロニ王国軍は戦意をそがれよう。ロニの国王はすでに妹を見殺しにするつもりでいようが、兵士たちはとまどうに違いない。それが王太子のもくろみだった。
王太子が出陣準備のために去ったあと、故国から付き従ってきていた侍女たちのひとりがエーベリンにたずねた。
「どうなさるおつもりですか、姫さま?」
「どうもこうも、わたしは平和の使者。その誇りをもって、両軍に最後の説得を試みるだけです」
「それはわが軍の士気を下げるだけでしょう」
侍女のいう「わが軍」とは、いうまでもなくこのファロカ王国ではなく、母国のロニ王国のことである。
「それよりも、どうかご自害なさって、王女としての誇りをまっとうされますよう」
「それではわたしの使命をはたせません。最後まで使命をはたすことこそが、外交官としての役目を担って嫁いできたわたしの誇り。そなたたちまでが、とうとうそれを理解してくれなかったのですか」
エーベリンがそういったとたん、侍女ふたりは目配せを交わし、ひとりが偽の赤子をたたき落として、いまひとりが手にした短剣を主君の胸に突き立てた。
いまわの際にエーベリンの心に浮かんだのは、わが子をデューク王子に託したのは正解だったという思いだった。その前に、侍女たちのどちらかに王子を託して逃がすことも考えたのだが、この侍女たちがファロカ王の血を引く王子を生かしておくはずがないと思い、実行に移さなかった。その判断は正しかった。自分をすら殺す侍女たちが息子を生かしておくはずがない。
エーベリンは床に倒れてこときれ、侍女たちは愕然とその亡骸と枕を見下ろした。
ふたりは、エーベリンが嫁ぐ日にその供として選ばれたとき、先王と現王にひとつの使命を託された。もしもエーベリンの存命中に両国の戦端が開かれ、彼女が人質としてロニ王国軍の不利になりそうなら、その命を奪うようにという密命である。
彼女たちには、その命令に背くことなど考えられもせぬ。ものごころついたときから王の命令は絶対だと教えられ、ファロカ王国への敵意を植えつけられて育ったのだ。
それでも、両国の和睦が成り、エーベリンの侍女としてファロカにきたからには、両国の和平が長続きすることを願い、エーベリンの使命を支えるつもりはしていたが、戦端が開かれたとなれば別。彼女たちの価値観からすれば、生きておめおめと敵の人質になるなど恥辱以外のなにものでもない。おとなしく人質になったところで、殺されることに代わりがないとなればなおさらだ。
そんな彼女たちには、エーベリンが主張する誇りは理解できない。というより、それは平和が保たれているあいだのみ通用するもので、戦端が開かれたいま、自分たちの女主人の役割は終わったのだと理解している。
しかも、彼女たちはそれぞれ母国に身内がいる。年上のほうの侍女には騎士見習いとなった息子と王宮で侍女見習いをしている娘がおり、年下の侍女には母親とふたりの妹がいる。命令に背いたりすれば、その身内たちがどうなることか。
主人として仕えている自国の王女を殺すことに、ためらいも抵抗もあれば、深い嘆きもあったが、侍女たちには迷う余地はなかった。それで、かねてからの命令を実行したのだが、王子が枕に化けてしまったのはどういうことか。
不審に思ったが、彼女たちにはそれについて頭を悩ませている時間はない。
侍女たちは泣きながらエーベリンの亡骸を寝台に横たえ、潔く自害したと見えるように、その手に短剣をにぎらせた。そして、自分たちも、先ほど主君を刺殺したときにできた血だまりのなかで、刺し違えて命を断った。
妃と侍女たちの死を知ったファロカ王国の王太子は、侍女たちがロニ王国の間諜で、妃を殺害したと公表した。自軍の戦意を高揚させるための方便だが、じつのところ、それは事実だった。
とはいえ、王太子にとっては、妻が自害したのか殺害されたのかは、どうでもいいことだった。肝要なのは、それによって自軍の士気を鼓舞できるかどうかだ。
王太子の発表を、ファロカ王国の多くの騎士や兵士たちは信じたし、国民もまたそれを信じた。王家との接触も多い上級の貴族たちはともかく、王家を雲上人と仰ぎ見る下々の者には、王太子夫妻の不仲など知るよしもない。
上級貴族や侍女などの宮廷人たちには、王太子妃は夫たる王太子に殺されたのではないかと疑った者もいたが、むろん、そのようなことを口には出さぬ。
ファロカ王国では、王太子妃を殺したロニ王国への怒りの声が上がり、軍の騎士や兵士たちは、王と王太子の前で復讐を誓ったのだった。
怒りと復讐を求める声は、ロニ王国でも起こっていた。ロニ王国の王は、妹の死を知ると、妹はファロカ王と王太子に殺されたのだと発表し、騎士や兵士たちも国民もそれを信じたからである。
ファロカ王国軍はエーベリン妃の仇討ちを叫びながら戦った。ロニ王国軍はエーベリン王女の仇討ちを叫びながら戦った。どちらの軍の兵たちも、自分たちの王が彼女にどれほど非情だったかを知るよしもなかった。いや、知っていたところで同じだったやもしれぬ。軍勢が真に欲していたのは、非業の死を遂げたひとりの女性の追悼ではなく、戦いの理由であったゆえ。
そして両国の戦いは、ときおり和睦による小休止をはさみながら、長くつづくことになったのだった。
甥を連れてファロカの王城を脱出したデューク王子はというと、国境を越えて荒野へと乗り出した。ファロカ王国内にもロニ王国内にもふたりの安全な場所はなかったので、無人の荒野に足を踏み入れるしかなかったのだ。
武人としての訓練を積んでいたとはいえ、デューク王子は王宮でぬくぬくと育った身ゆえ、荒野を旅するなど慣れてはおらぬ。精魂尽き果てそうになりながら、それでもたずさえた乳や水は甥に優先して与え、みずからは渇きに苦しみながら歩きつづけたのは、高潔なおこないといってもよかろう。
荒野を横切り、グラン王国の辺境の村までたどり着いたところで、デューク王子は力尽きて倒れ、村人の手厚い看護を受けた。
荒野を渡ってきた貴人らしき人の報は村の領主にも伝えられ、領主みずからデューク王子を見舞った。
「荒野の向こうでは、ファロカ王国とロニ王国の戦いが再燃したと聞く」
領主が口を開いた。辺境の地を守る領主ゆえ、荒野をはさんで隣接するファロカ王国の情勢はつねに探っており、戦い勃発の報は密偵から受け取ったばかりだったのだ。
「ファロカ王国では、第二王子が行方知れずになったそうな。まさかと思うが、貴公がその第二王子なのか?」
デューク王子は無言だった。名乗ったものかどうか迷ったのだが、何も言わぬことそのものが肯定の答えを返していた。
領主はそれを追求せず、言葉をつづけた。
「エーベリン妃が殺されたそうだな。ファロカ王国はロニ王国に殺されたと言い、ロニ王国はファロカ王国に殺されたと言っている」
「どちらの国も呪われろ」
絞り出すような声で、デューク王子ははじめて口を開いた。
「ふたつの国でよってたかって、両国の平和のために尽くした人を殺したのだ」
領主は興味深そうに寝台の上のデューク王子を見下ろした。
「そなたが何者であれ、それほど故国を嫌っているのであれば、帰りたくはなかろう。わが国の騎士とならないか」
「素性も知れぬ者を騎士に取り立ててもよいのか?」
「かまわぬ。そなたの身なりやしゃべりようを見れば、どう見ても王族か騎士の子弟。それに、あの荒野を赤子を守ってひとりで旅してきた者なれば、召し抱えるに異存はない」
デューク王子はその申し出を受け、素性を隠して名を偽ったまま、騎士となった。赤子にも、兄の王太子がつけた名を隠し、エランドという名を新たに与えて、自分の子として育てることにした。
数年後、デューク王子が妻を娶らぬまま病で没すると、エランドは領主の養子となり、長じてグラン王国の騎士となった。
エランドが二十歳のとき、グラン王国は戦つづきのロニ王国とファロカ王国に侵攻し、これを征服した。エランドもそれに従軍し、ファロカ王国の王を斃して手柄を立てた。斃した相手は王位についた実父だったが、それはエランドにはつゆ知らぬことだった。
ロニ王国とファロカ王国の王族はことごとく処刑され、グラン王国の領土となった。もはや、二つの王国がこの地で戦うことはない。
はたしてその平和が、ふたつの王国の和平のために力を尽くした王妃の真の願いであったろうか? それともふたつの王国の滅亡こそが、すべての誠意を裏切られた彼女の真の願いだったろうか?
それは、だれにもわからぬことである。いずれにせよ、かつてのエーベリン妃の願いはかなえられたのだ。