────邂逅、接近────
歌の勉強はとても楽しくて、自分の内側の恐怖を消してくれた。講師もイリスの声を誉めてくれた。このまま更に上を目指せば、歌手になるのも夢ではないだろうとのことだった。そんなことを言われれば、イリスも内心の喜びを隠せるはずも無かった。
授業が終わり夜になった。
今日は食材の買出しに出かけようと思っていた。本来なら日中に行ったほうが様々なものを購入できるのだが、昼間は授業があって実質不可能なのだった。
「さて、どうしようかな」
街頭に照らされた白い石畳を歩きながら、必要な食材を脳裏に思い浮かべていた。
「……あれは」
すると視界の前には、バレンシアに来て日が浅いイリスでも判るユリウスの後ろ姿があった。
どうやらこちらには気づいていないようなので、後ろから驚かそうなどと愚考したが、ばかばかしいと一蹴した。
そんなことをして何が帰ってくるのだろうか、幸せなんてセシリとクラウが手に入れるべきものだったのだから。
実際自分の好きなことをして生きている。そんな今は望んではならないものだったのかもしれない。
「ふぅ……。とりあえず買い物しよう」
「イリス」
抑揚の無い声が背後から聞こえた。
思考を展開している間に、ユリウスを目撃した箇所から離れていたので、気づかなかったのだろう。結局イリスとユリウスは出会うことになった。
「買い物か?」
「うん。こんなところで会うなんて思わなかったよ」
「そうだな、確かに。最近ではあの場所にも寄り付かないようだしな」
この言葉から推察すると、ユリウスは未だにあの場所に通っているようだ。
実際あの砂浜にいけば、否が応でも異形の出来事を思い出してしまうから怖かった。
「まぁね。あんなことがあったらさ──」
「理解は出来る」
「それなのに、ユリウスはまだあそこに行っているの?」
「あぁ。イリスの歌は抜きにしても、一人にはなれるというのは変わりが無いからな」
「ふぅん、不思議だね。君は一人になりたいのに私の歌には興味があるってことでしょ。矛盾してないかな」
「かもしれん。その矛盾は自分でも確かに存在していたが、あんたは俺の例外で、救いだろう」
相変わらずユリウスの言動は要領を得なかった。いつも通りと言えばそうなのかもしれないが、救いとは何事だろうか。
「救い……私はユリウスに何かした?」
「いや、別段これといった行いは成していない。それでも、そう思ったのだから仕方なかろう」
「ふぅん。まぁいいけど。そっちも買い物でもしてたの?」
「あぁ、日用品と食材をな。なんだったらこの間の礼だ。夕飯でも馳走しよう」
そう言って、イリスの返答を待たずに背を向けて先行した。
「ちょっと…………」
声は届かず。
「私がついて行かなかったらどうするつもりなんだよ。まったく」
零した愚痴は、ユリウスとの開いた距離で聞こえることは無かった。
§
そして辿り着いた先はユリウスが住んでいるアパートだった。
建物を見上げながら無言のイリス。
「古臭い物件だがそれ故に味のある内装だ。さぁ上がれ」
有無を言わせず、先に入っていった。
イリスはユリウスに続いて室内に入っていくと、まず感じたのが煙草の染み付いた臭いだった。
「ねぇユリウス。君は煙草、吸うの? 今までそういう場面は見てなかったけど」
手に持っていた食材を冷蔵庫に入れながら、ユリウスはそれに相槌を打った。
「へぇ、意外だ。それにこっちは…………原稿用紙?」
「それ以外の何かに見えるか?」
若干の皮肉交じりだ。
「いいや、そんなことはないけどさ。つまり何か物語でも書いてるの?」
「あぁ、仕事だ」
フライパンを出しながら回答。
「え……、じゃあユリウスは小説家?」
「そう言えば聞こえは良いだろうな」
「へぇ、つまりは執筆作業をしながら煙草を吸うと……。なるほどね、それならイメージできそうだ」
「イリス、あんたは人の趣味を詮索する癖でもあるのか、以前より饒舌に語るじゃないか」
「いや、そんなことは無いよ。ただ物珍しいというかね」
「ほう、友人の家に行くたびにそのようなことをしているのか。相手も疲れるだろうに」
つまり少々ユリウスは疲れているという内心を顕わにしているらしかった。
「友人ね…………いないよ。そんな人」
それは静かに語られる、信じることのできない事実だった。
いつも部屋の中に一人でいた。学校にすら行くことを許されなかった。ただ妹と弟との三人で一緒にいれた瞬間は安堵という幸せがそこには存在していた。
一年前までは────
「失礼。あんたの事情に詮索を入れてしまったようだ。そうだな、イリスが嫌悪しないというのなら俺が友人に候補しよう。どうだ」
ユリウスは料理の手を止めずにただ口にした。
「…………やっぱり、君は不思議だよ」
「あぁ、逸脱はしているつもりだ」
「ふふ────私も変な人間だけどね。きっと君の事を心のどこかで信頼しているのかもしれない。曖昧な物言いだけど、きっとそうなんだと思うよ。じゃなかったら、急に君の家に招待されて着いてなんていかないよ」
「そうか。ふっ、俺はあんたを裏切らない。以前に話した呪いを施したからな」
「それ、ちょっと気になってたけど。なに、呪術とか魔法とか使えたりするわけ?」
「ふ、まさか。ただの自己暗示だよ。誓いというものさ」
「へぇ、じゃあ私が何か聞いたら嘘偽り無くなんでも答えてくれるの?」
「そうだな、俺は嘘を吐けないからな……。何か聞きたいことでもあるのか」
「まぁそれなりに」
「構わん、出来うる限り答えよう」
「じゃあ────」
それからはイリスの質問攻めが開始された。
年齢、趣味、家族構成、食べ物の好き嫌い、部屋ですること、煙草の銘柄、好きな音楽、それはもう留まることを知らなかった。
「もう質問はそれぐらいにしろ。食事の時間だ」
一時間近い問答を繰り返したあと、ユリウスがそう言って出てきたのは────
「フィデウアだよね、これ」
「あぁ、フィデオスのパスタが目に付いたから先ほど購入した。あんたのパエーリャに対抗する意味でも、同じものを作成するより一風変わったほうが面白いかと考えたのだ。ちなみに基盤にしているのはパエーリャ・バレンシアナだから、ウサギ肉、鶏肉、カタツムリ、インゲンが上に乗っている」
「私、カタツムリはよく食べてたよ」
「ほう? 察するに君の出身は北の方ではなく南。それもよく食していたというのならばアンダルシアが出身か」
イリスは驚いて目が点になった。
「へぇ、すごいね。そうだよ。私の出身はアンダルシアのグラナダ」
「成る程、かの有名なアルハンブラ宮殿の場所か」
「よく知ってるね。私は離宮のヘネラリフェの近くに住んでいたんだ」
「あの庭園は資料で見た限り美しいものだった」
「うん、すごく綺麗な場所だよ」
そして、そんな話で盛り上がりながらフィデウアを食したのだった。
§
食事の片づけをしながらユリウスはイリスに声をかけた。
「一つ頼みごとを聞いてくれないか?」
「何? たいしたこと期待しても何も出来ないけど」
「いや、イリスにしか出来ないことだ」
疑問符がイリスの頭上に上がった。
「歌を歌ってくれないか?」
「え、ここで?」
「あぁ、時間を気にする必要は無い。あんたの歌が騒音になる道理も無い。例え隣から文句を言われようものなら俺が黙らせよう。それに今の時間だったら大概の人間がバルに出かけているだろう」
「バルか、まぁね。お酒とか飲んでるかな」
「だろうさ。と言うわけで、まず一曲頼む」
「分かった。なんでも良い?」
「構わん。あんたの歌声が聴けさえすれば」
「もう、ユリウスはすこし羞恥心とか持ったらどうなの。直球すぎ」
「知れたこと。それに難しく言えばイリスの気分を害すだろう」
「まぁ~それはあるかも。じゃあとりあえず歌うよ」
イリスは目蓋を閉じ内側に潜っていく。一瞬の間が在って、イリスの口が開いた。
────今すぐ会いたい。いつでも傍にいて、いつでも傍で笑いあっていたあの頃。どんなに離れても、想いは変わらない。だけどその度に辛くなっていく。もう、あの日みたいに笑えないなんて……
────今すぐ会いたい。このまま傍に居続けて、このまま笑い合いたくて。どんなに離れても、想いは変わらない。だけどその度辛くなっていく。もう、あの日みたいに戻れないなんて……
────これから会いたいよ。だけどその願いは永遠に叶うことは無いんだよ。眠れない夜が何度も繰り返す。それでも“会いたい”気持ちは消えない。
────今すぐ会いたいよ。大好きの気持ちを持ったまま、ずっと一緒にいたかった。だけど、それを願うだけではどうにもならかったんだ。
歌は静かな音色で、情感豊かに紡がれた。悲愴を謳ったそれは、酷く歪で悲しかった。美しい音が更に心を流動させる。気持ちが伝わってくる。
あぁ、辛かったんだろうと、知らないはずのユリウスの身体はまるで出来事を体現したように萎縮してしまった。
続きが気になった。これは漠然としていて、完全な史実ではないのだろうと思った。流行の歌ではなく、ましてや童謡の類でもなかった。だからなのだろう、そのような考えに至ったのは。
「どう、だった?」
イリスはユリウスを見上げながら問うてきた。
「気持ちが入った素晴らしい旋律だった。……だが、この歌は俺の知識にはないが?」
「うん、まぁ私が作った曲だからね」
「ほう、この歌詞もイリスが作ったのか?」
「そうだけど……」
「……なるほど、これは俺の推測でしかないが、まるで自らに起きた過去の事象を投影したように思えた。────誰かと別れたのか?」
流石、そうイリスは内心思った。確かに気持ちは込めたし、この詩に偽りは無い。自分の過去から想像して作った曲だ。それに気づくユリウスの直感は驚嘆に値した。
「まぁ、別れは在ったかな」
「そうか。それは聞いても良いのか?」
「ちょっと、ダメかな」
「了解した。なんにせよ、良い歌だった。また聞かせてくれ」
「……うん」
そしてこの場はお開きとなったのだった。




