────意識、現実────
目蓋を開けたユリウスは、知らない天井だと思った。
不思議な感覚だった。暖かい、そう思えたから。いつもなら空虚なまま目覚めるところなのだが、今回に限っては温もりを感じるのだ。
「温もりだと……?」
左腕から気配を覚え、そちらに視線を動かす。
まず見えたのが、ワイシャツからはだけた柔らかそうな胸。いや待て、落ち着け。それから白い美脚……。実に美味そうである。舐めたら極上の悦楽をもたらしてくれるだろう。そして鼻腔をくすぐるこの不思議な匂い、いや香り。頭がぼうっとしているはずなのに、一瞬で覚醒状態へ持っていかれる。むしろ変な方向へ向かう気すらする。
この女性は誰なのだ。そう思って顔を覗うと、そこには気持ちよさそうに眠りについているイリスの寝顔が在ったのだった。抱きしめたいという欲求が心の奥底から溢れてきた。
それはまずいだろうと葛藤しながらも、悪魔の誘惑に抗えず行動を起こしてしまった。後悔など後の祭りでしかない。
しかしイリスは一瞬だけ身じろぎをしただけで、眠りから覚めることは無かった。むしろ更に気持ちよさそうにしていたのだった。
ユリウスの心が痛みを発していた。満たされ、張り裂けんばかりの理解できない充足感。永遠があるのならこの瞬間を無限に彷徨っていたいと、在り得ない空想を思い浮かべた。
そんな思考を展開しながらユリウスの意識は再び落下していく。
§
────暗い、そう感じた。それは嫌な思い出。逃げ出す前の自分の記憶。
「お父さん……セシリとクラウは?」
今は存在しない妹と弟の名前を口にしている。これは夢だろうかと思えた。むしろこれは過去の記憶だろうか。
「…………」
返答は無い。むしろ白髪混じりの白衣の父は、蔑みを帯びた目で見てきた。
「イリス、部屋に戻っていろ」
命令は絶対で、怖い。父の言葉に逆らったら、きっと“自分も”消えてしまうんじゃないかと思う。肯定を示し自室へと入っていく。
イリスの中には恐怖が常としてあった。部屋の明かりを点けることも、父の研究所の光源を思い出すから嫌だったのだ。
救いは無い────
なのに、今感じている暗い感覚は知らない安心。目蓋を開けてみれば解かるかもしれない。そして闇の中で目を開けてみることにした。
知らない違和感が苛んで、感じたことの無い安心がそこには在った。身体に何かが覆いかぶさっている気がして、それをどかそうとして漸く合点がいった。
「……ユリウス!?」
脳が覚醒した。今までの夢を掻き消しこの現状を理解しようと勤めた。
昨日、正確には今日の深夜にユリウスと出会い。歌を披露した。ここまでは特に問題になるべきところはない。その後だ。
異形が襲って、ユリウスが倒れた。それからユリウスを背負って、そう自分の部屋に運んだのだった。
「…………」
無言でどうしようかと考えて、今が丁度お昼過ぎだということに気がついた。
「ご飯、作ろうかな」
とりあえずは欲求に従うことにした。
ゆっくりと身体を起こして部屋の明かりを灯し、ユリウスのほうを見ると子どものような寝顔でとても可愛らしく映った。
§
鼻腔をくすぐる香ばしい魚介類の匂いが、部屋の中に充満していた。それが影響なのだろう、ユリウスの腹部から、情けない音が響いたのだ。それは他人が聞こえるほど大きかったように思える。すると、
「────ふふ」
どこからともなく女性の笑い声が聞こえてきたのだった。
「ユリウス、お目覚めかな?」
どうやら、声の主はイリスのようだった。
「……あぁ。あんたの料理は、まるで死人を呼び覚ます強力な礼装のようだよ」
イリスの目が点になったのは言うまでも無いことだった。当然ユリウスは誉めたつもりで言ったのだが、どう考えても逆にしか聞こえない。
「む、そんなに変な匂いするかな……」
「いや、むしろ俺の空腹を刺激して死人すら呼び起こすだろうという、賞賛のつもりで口にしたのだが。イリスの機嫌を損ねたのだったら、すまない」
「つまり美味しそうな匂いって言いたいの?」
「完結に言えばそうなるな」
「解かりにくい!」
「すまん。俺は元来そういう人間らしくてな」
「もう、まぁいいけど。パエーリャ作ったんだけど、食べれる?」
成る程、この香りはフライパンから溢れてくる。この地特有の料理だったのかと、そう思った。
「あぁ、俺の好物だ。これにオルチャータがあれば完璧なんだが」
オルチャータといえばスペイン、バレンシア地方の有名な飲料だ。
「粉の奴しかないけどそれでいいなら」
「問題ない、頼む」
本来なら地下茎、チュファを使用し甘味料やスパイスを入れたものだが、簡易的に直ぐ飲める粉末状のものも存在している。
そして、イリスのパエーリャを食してみる。
「やるな……」
一言目に漏れたのがそれだった。
「え、何が?」
「全ての米にムラは無く、彩りも完璧と言っていい。フライパンの底にある米には焦げも入り、それでいて肉と魚介の旨味が全てに染みている。俺が作る以外でここまでの作品に出会えるとは思わなかった」
最後には自分の賞賛だったが、それでもイリスを過大評価しているのは分かった。
「そう、ありがと。その言い方だとユリウスも料理するの?」
「人並みにはな。一人暮らしをしていればそれが基本になるだろう」
「へぇ、じゃあ一緒だね。私も一人暮らしだし」
「そのようだな。この部屋は間借りしたように見受けられるし、来て日も浅いのか埃も少ない」
「……ユリウスって不思議な人だよね。今まで君みたいな人に出会ったことないよ」
「それはこちらとしても同じだ。だからこそ俺はあんたに興味を惹かれている」
真剣なその瞳には一切の虚偽は感じられなかった。
────本当にこの人は嘘をつかないのかな。出会ったときにそんなことを言ってたけど。今のところ確かに自分を偽っているようには見えないけど……。
そしてユリウスが左手でオルチャータを飲もうとしたときだった。一瞬だけ顔をしかめたのをイリスは見逃さず。昨日のことを思い出したのだ。
「ユリウス、肩痛む?」
恐る恐る口にされた言葉には、心配、遠慮、感謝が含まれていた。
「……そうだな。正直痛まない道理はない。それでも手当てをしてもらったのだろう。それほど問題になはらない。…………そんな表情をするな。あの出来事はイリスの責任ではないし、あれは俺の自己管理が足りていなかったことでしかない」
「でも……私を庇ってそうなったんだから。それに私があそこにいなかったら、こんなことにはならなかったと思うし……」
「それは愚かな考えだぞ。過去は変えられぬし、今を肯定しなければ未来を生きることすら出来ないだろう。それに俺はイリスに会えてよかった。チュパカブラなどと言う異形には出会いたくはなかったが、こうしていられることに俺は安堵しているし、不思議と充足感すら覚えている」
「そう……。ユリウスって、そんなに私に出会えてよかったなんて思ってるの?」
それは、何度も口にしている事実だが、ユリウスの心の中では疑問に思っていた。
自分は誰かを欲することを拒否していたのではなかったか。それは間違いではない。裏切られることが怖い。そう思っていたはずだ。むしろ自分が期待を裏切ってしまうのが怖かったのではないか。
昔、信頼していた友人に嘘を吐き、関係が崩れた。ほんの些細なことだったのに。
なのに、イリスと出会った瞬間にその自分の葛藤は切り崩されてしまったと、そう思ったのだ。
歌を聴いた。たったそれだけだったが、ユリウスはこれを手に入れたいと願ったのかも知れなかった。
「あぁ、俺はイリスに会えて変わったと思う」
「そっか、すごいね。────変わるのは大変でしょ」
その言葉には何かが含まれていると思えた。
「イリス、あんたは自分を偽って生きているのか?」
それはどんな人間にも言えることかもしれない。自分自身を出すことが出来るというのはとても難しい。他人の顔色を覗って、自分の存在を変えるのが処世術というもの、そうでなくては社会を生きていくことが出来ないから。
そして、イリスにとって自己という本質は隠さなければならなかった。怖いのだ。他人に自分の本質を知られてしまうのが。
「さぁ、分かんない。ユリウスにそう見えるならそうなんじゃない」
視線を外しながらそう口にした。
信頼してくれているのは最初から分かっているのに、自分を騙すのは仕方なかった。変えたくない心が、見せたくない心がここに在るんだから。
「なら、問題ない。俺はあんたに信頼されていないというのなら、本当に好都合なのかもしれない。俺は他人に裏切られるのが嫌悪する事象だ。過去、そういうことが在ったからな。だがイリスは偽りを持って俺に接してくれているのならば、信じることが出来る」
「ちょっと何を言って……」
「俺は虚偽を言わないという呪いを掛けた。だから他人を信頼する。おかしいとは思っているがこれは変えない。だから、最初から他人に会わないようにしていた。それに他人の考えなど理解できるわけが無いのだからな。だがイリスは自分を偽っていると、偽らず口にしてくれた。そんな人間は正しい。俺にとっても一緒にいて苦痛になる訳が無い。例え……裏切られても納得できるんだ」
イリスは絶句し、この人は自分の生き方を理解しているのだと漠然と思った。出会ってたった二回なのにも関わらず。不思議だった。
「すまんな。俺の考えばかり口にしてしまって」
「いいよ、別に。……ユリウスは不思議な人だって、最初から解ってたから」
そして暫く後に多少気まずい食事を終えたのだった。




