紫蘭
「紫蘭の葉は以外にゴツいし、生命力があるよね。葉っぱがおおきいんだから。ね、紫蘭の花言葉は知ってる?」
帰り道、雨に濡れた紫色の花をみつめながらあの子が言った。傘のないわたしたちを、大きな屋根が守ってくれている。残念ながら今日は休みだけど、お店にもなっている古民家風の軒先から、わたしはポツポツと落ちる雫を眺める。
いつも変なことを話すわたしの親友。わたしの好きなこと、きらいなことをよく知ってるはずなのに。
……それだって変な質問。思わずふてくされてしまう。ちょっとくらいの風なら、びくともしなそうな、筋がきれいに流れる青い葉っぱにわたしは目をやった。
「……どうせ、“愛”とか“美しい”とかいうんだよね、花言葉なんか。女を花にたとえるのはもう古いよ」
なんなのだろう、この質問って。“女らしさ”とか、“美しい”、“かわいい”という言葉は、最近のわたしには禁句なのだ。
ちょっとくらいわたしの成績がいいからって、男子たちのやっかみが激しい。なんなのアイツら。教科書やテスト用紙から文字が飛び出してきて、アイツらを攻撃すればいいのに。全身を取り巻いて、ぎゅうぎゅうに締めつけて、ついでに首も絞めればてやればいい。ほんとうにうるさい。黙れ。
悔しかったら勉強してわたしを見返せばいいんだ。簡単なことじゃないか。それができないからってわたしにその苛立ちをぶつけてくるなんて、ガキじゃん。いや、ガキ以下。ミトコンドリアとかから人生をやり直せば。
“女子は女子らしくしてろよ”
ヘラヘラ笑いながら言われたその言葉にカッとなって教科書を投げつけてやった。そしたらその男子の額に教科書の角がヒットしちゃって、額から血が出た。
さすがにびっくりして、わたしは固まってしまった。血をみるのはいつだって苦手だ。
“暴力はんたーい”
“瀬野ぉ。おまえって男だったの~?”
ゲラゲラ笑って、机の上に座っていたやつが転げ落ちそうになっていた。
力を奮うのが男の特権って? ふざけんな。ふざけんな。
暴力反対と口にしつつ、それは男のものだと主張する矛盾にだれも気がつかない。もうコイツらまとめて燃えてしまえ。コイツらの言う女らしさとか、それ以外にも美しいとかかわいいとか、女を表現するもの全部消えろ、滅びろ。
わたしが許す。
「紫ちゃんにぴったりの言葉だよ」
目をキラキラさせて、あの子が言った。
「なにそれ!? 取り消してっ! ぜったい嫌だ!」
「どうして?」
キョトンとして小首を傾げるようすが、憎らしい。
「“美しい”なんて、まっぴらだよ!」
親友は二度瞬きをして、わたしに向き直った。この子のこういうところ、苦手だ。正義のかたまり……とはちがうけど、なんかいつも正しい。人として、そうあることを踏まえてるっていうか。よくわかんないけど、正しいことを言おうとしているのは空気でわかった。
「わたし、“美しい”ってことを肯定したんじゃないよ」
ほらきた。
そしてニッコリ笑ってる。
「……あ。紫ちゃんが美しくないって言ってるんじゃないからね?」
これもきた。
しかもちょっと焦りながら訂正してるのが、さらに憎らしい。だってこれ、この子の計算じゃない。素でやってる。なんなの。
「……じゃあ、なに」
「ええと、まずはごめんなさい。言いたいことがすぐに口に出ちゃうから、紫ちゃんに嫌な思いをさせちゃったよね。だから謝る」
照れくさいのか、キリッとしてるのかどちらかに統一してほしい。この子って、いつも自分の気持ちをどう切り替えているんだろう。こういう素直さって、足から生えてくるものなの? それとも空からこの親友めがけて降ってくるもの? だったら、だれが降らせてるの?
……シトシトと雨はつづく。
灰色みたいな今日の景色でも、なんて透きとおっているんだろう。胸に、鋭い紫色が突き刺さってくるみたいだ。突き刺さって突き抜けて、地面に落ちてもその色は鋭いまま。たぶんこの色を忘れることは一生ないんだろう。ふと、そんな気がした。
親友が、足元の紫蘭を見つめながら言った。
「紫蘭の花言葉はね」
※
「――――先生。瀬野先生」
ハッとして、わたしは顔を上げた。院生の中川さんが、花束を抱えてわたしを覗きこむように身を屈めていた。
「大丈夫ですか? あと15分で先生の番ですけど」
「ちょっとぼんやりしていただけ……。心配をかけてしまってごめんなさい。ところでそれ、綺麗な花束ですね。中川さんが貰ったの?」
「わたしは受け取りましたけど、これは先生へのものですよ」
そう言って彼女はわたしへ花束を差し出した。ああ。やはり。
紫色の花弁と、大判な葉のくっきりとした筋の流線、なんと青々として、うつくしい。
「紫蘭――――――……」
「シラン? これって蘭なんですね。へぇ、綺麗だなあ……」
中川さんが感嘆したように紫の花束を見つめた。藤色よりももっと赤みの濃いあざやかな花弁が、少し重たそうにその頭を垂れている。中心となる芯の部分がいっそう濃く紫に染まっている。
と、わたしは慌てて立ち上がった。
「先生?」
「あっ、これをあなたに預けてくれた方は……!」
「ああ、そうでした。もう行ってしまわれました。急いでいるから瀬野先生へお渡ししてほしいとだけおっしゃって」
「そうですか…………」
わたしは彼女へ礼を述べて、ため息をひとつ吐いた。
「あなたを雑用係のように扱ってしまって、すみません。ご自分の発表もあるのに」
「いいんですよ、これくらいのこと。それにしても、飄々として個性的な方でしたね。花を持ってくるくらいだし、先生のお知り合いですか?」
「……ええ、親友です」
…………幾つになっても、あの子らしい。
どう嗅ぎ付けてくるのか、わたしの学会の発表があるとき、それも4月から6月の間にかぎって花を贈ってくる。二年前以来の、三回目だ。
蘭の、少し胸に溜まるような重い薫りをわたしは吸いこんだ。
親友の若い面影を連れてくる。中学一年のとき、クラスの男子の額を教科書で割ってしまった日、先生に叱られた。わたしは成績も素行も優等だったので、先生も渋々という体ではあったが。しかしながら、わたしに非はなかったと今でも思っている。あの瞬間わたしは戦い、むしろ悪を打ちのめした。あれからも幼稚な男子らは、陰口を叩いていたらしいが。男子に謝れと先生に諭されても、わたしは謝らなかった。喧嘩両成敗だなんて願い下げだった。
「……とても、先生らしい花ですね」
言ったそばから、中川さんはしまったという表情をした。
「すみません、こういうのはジェンダー学では御法度ですね」
わたしは彼女へ笑って答えた。
「いいえ? あなたにそう言っていただけて、嬉しいですよ」
あの日、親友が言ってくれた。いや、贈ってくれた。わたしへの花言葉を。
『紫蘭の花言葉は、向学心。どんなことがあっても勉強することをやめない姿が、紫ちゃんにぴったりだと思うよ』
ありがとう。
わたしの好きなこと、きらいなことをいつも正しく知ってくれているあなたが。
雨のなかであざやかに言葉を贈ってくれた。
紫蘭の花言葉は、向学心。
雨の日の、紫色の思い出。