ツボノナカニ
「何で、俺が、始末書を書かなきゃならないんすか!」
それから1週間も経たない、夜勤の時。休憩室で制服に着替えていると、大西主任が書類を突き付けてきた。
「つべこべ言ってんじゃねぇよ! てめぇは、言われた通りにすりゃいいんだよ! あァ?」
それは、遺失物を紛失したという始末書だ。市内で使える交通系のICカードが届けられていたはずなのに、保管物の段ボールの中に現物が無い、というのだ。
「俺が無くしたって証拠、あるんすか?」
身長差10cm上から、見下ろされるだけで、威圧感がある。けれども、身に覚えのないミスを押し付けられて大人しく従える筈がない。
「んだとぉー? いい度胸してんじゃねぇか!」
いきなり両肩を掴まれ、ロッカーに後頭部と背中を強く押し付けられた。一瞬、呼吸が詰まる。次の瞬間、腹に重い痛みを感じて、目の前が暗くなる。気付いた時には、床にへたり込んでいた。
「堀北っ! 始末書書くまで、この馬鹿、帰すんじゃねえぞ!」
「はい、主任。お疲れ様でした」
「フンッ」
鼻を鳴らすと、乱暴に靴音を響かせて、主任は帰って行った。
「大丈夫か、南原」
堀北先輩が支えてくれて、ゆっくりとパイプ椅子に座る。腹の痛みに、身体をくの字に折り曲げて、テーブルに突っ伏した。
「俺……書きませんよ、始末書」
呻くように声を絞り出す。堀北先輩は、背中をそっと擦ってくれた。
「気持ちは分かるが、他の奴も我慢して書いてるんだ。お前も……頼むよ」
なだめる言葉に、頑なな気持ちがグラリと揺れた。
「他、って――」
「お前さ、最近、保管期限切れの処分品の中に、金目のものが無いと思わなかったか?」
「ど、どういうことすか」
「前から、換金できそうな処分品を大西が持ち帰っているっていう噂はあったんだ。ただ、処分品だから、問題にならなかった。ところが、最近は期限切れ前のものにも手を出しているらしいんだ」
「でも、それって、せっ」
「そうだ」
言いかけた「窃盗」という言葉を無理に消して、堀北先輩は苦い顔をした。
「だから、運悪く持ち主が名乗り出た時だけ、誰かが泥被ってるんだよ」
「そんな、馬鹿な」
「紙切れ1枚のことだ。悪いが、今回は飲み込んでくれ、南原」
苦虫を噛み潰したようなクシャクシャの表情で、堀北先輩は頭を下げた。
「……どうして、主任の肩持つんすか」
「何とか、円滑に……波風立てたくねぇんだよ」
いずれ、大西主任の後任は、年齢からも経験からも、堀北先輩で間違いない。でもそれは、まだ何年も先の話だ。先輩は、それまでずっと不祥事を握り潰すつもりなのだろうか。
「南原……憤りも苛立ちも、分かる! だが、今回は頼む!」
多分、俺が首を縦に振らなければ、彼は頭を下げ続けるのだろう。
嫌な気分だ。こっちは被害者なのに、加害者のような錯覚に陥る。
「……分かりました」
「そうか! すまない、南原」
堀北先輩は、安堵の笑みを浮かべて、始末書とボールペンを差し出した。書類は定型文が印刷されたもので、後は俺のサインと印鑑を加えるだけだ。
この1回を受け入れると、きっと「次」も避けられまい。そうして、なし崩しに大西主任の犯罪をサポートさせられていくのだろう。
眉間のシワが消えないまま、俺は書類を完成させた。
「……先輩、あの壺に」
「おお! あれは気分が晴れるぞ。席外すから、遠慮なく叫べ」
田中の話は、本当だった。同僚達は、壺の中に鬱憤を叫んでいたのだ。軽くショックを受けている俺の胸中を知りもせず、書類を手にした堀北先輩は、肩をポンポンと叩いてから隣の警備室に向かった。そして、お膳立てをするように、窓口に「巡回中」のカードを掛けると、サッサとエレベーターに消えた。
暫くの間、ぼんやりとしていた。時折退勤する人がいたが、窓口に警備員の姿が無いので、無言のまま足音が通り過ぎて行った。
21時半を回る。ビル内に、他人がいないことを確信してから、ノロノロと身体を起こす。背中がズキンと痛み、それが合図のように、燻っていた憎しみに火を点けた。
俺は、迷わず遺失物保管用の段ボールから、例の壺を取り出した。
「えっ……重い」
遺失物として処理した時は、予想外に軽かった――筈なのに、今はズシリと重量を感じる。
同僚達が、叫ぶに足らず何か入れたのだろうか。
テーブルの上で慎重に蓋に手をかける。すんなり抵抗なく開き、拍子抜けする。一息吐いてから中を覗くが、何も入っていない。
だったら、この重さは――?
記憶との齟齬に戸惑い、気持ちがざわつく。それでも、腹の底から溢れて嵩を増していく怒りと鬱憤が、捌け口を求めている。このままでは、収まりがつかない。
何を臆病風に吹かれているんだ。壺の重さなんて、曖昧な感覚に過ぎまい。
気を取り直して、違和感を飲み下す。
俺は身を屈め、壺の縁に両手を当てて、口の回りを囲むように密着させると、腹立ち紛れに叫んだ。
『お……大西主任なんか、いなくなってしまえ! 俺の前から、消えてしまうがいいっ!!』
――コトン
「――えっ?!」
壺の中から、乾いた小さな音がした。
慌てて身を離し、恐る恐る中を覗く――。
やっぱり、何も入っていない。壺は空だし、もちろん音を立てる仕組みもない。
気のせいなのか――でも、確かに。
突然、言い様のない焦りが込み上げてきた。俺は夢中で蓋を閉めると、壺を段ボールの底に戻した。全身に悪寒が走り、手が震えている。
ヤバい。何だか分からないが、凄く嫌な雰囲気だ。
「戻ったぞ。……南原?」
その時の俺は、額に脂汗を滲ませて、真っ青な顔色だったらしい。
堀北先輩の姿を見た途端、急に力が抜けて、ふらついた。先輩は、腹を殴られたせいだろうと言いながら、休憩室のソファーで休ませてくれた。
俺は、激しく後悔した。何故だか分からないが、抱えていた感情以上の悪意を引き出され、心にもない言葉を口にしてしまった気がしていた。