ワスレモノ
「遺失物リスト、忘れずに作っとけよ!」
グレーのダウンとジーンズに着替えた大西先輩が、警備室の小窓を覗き込み、去り際に一言命じて、退勤する。
「はーい。お疲れしたー」
職員通用口に半分消えた背中に返事する。聞いてないようだが、ちゃんと答えなければ、引き返してきて頭の1つも叩かれるから厄介だ。
「南原、巡回行ってくるわ」
「はい、ご苦労様です」
警備室最年長、この3月で定年退職予定の中井さんが、白髪頭に帽子を被って懐中電灯を手にすると、出て行った。
このビルは、市内中心部にある8階建てのテナントビルだ。1階は、正面玄関の横に、7時から19時まで営業のカフェが入っている。2階から5階は貸事務所が並び、月単位でオーナーと契約している。今は、2階の2部屋が市民の運営する子育てサークルの事務局になっており、3階と4階に外資系保険会社のコールセンターが入っている。5階は空きフロアで、6階はビル内共有の休憩室だ。そして残りの2フロアには、オーナー所有の健康食品会社が入り、7階は事務所や会議室、8階は倉庫になっている。
19時。日勤から引き継いだ夜勤が始まる。警備員は2人ずつ組んで勤務する。本来の在籍は6人体制だが、中井さんの定年に備え、現在は1人増員になっていた。
勤務中は3時間毎に、1人が全フロアを巡回する。入居している会社は、遅くても21時には終業なので、21時半から翌朝7時までは、ビル内に警備員しか居ないことになる。
「お疲れ様でーす」
「お疲れ様でしたー」
仕事を終えて、エレベーターで降りてきた人々がパラパラと帰宅していく。朝8時からの1時間と、夜17時からの2時間の混雑が終わると、人の出入りは疎らになる。
不特定多数のアルバイトも多く勤務するので、関係者にはIDカードが与えられている。万一忘れてきた人や来訪者のための「貸カード」もあり、この貸出と回収も警備室で行っている。
「すみませーん、イヤホン届いてませんか?」
茶髪の若い女性が、警備室の小窓の前に来た。IDカードを見ると、保険会社のアルバイトの子だ。
「色や特徴を教えてください」
「黄緑色で、メーカーは……」
「無くした日と場所、分かりますか?」
「今日の昼休み、多分休憩室だと思います」
「ええと……ああ、はい、ありますね」
警備室の奥のテーブルに、今日届いた遺失物が並んでいる。拾得場所がメモされた付箋を確認し、該当する品を手に、窓口に戻る。
「これですか?」
「あ、はい! それです」
小窓越しの女性の顔が、パッと明るくなる。
「じゃ、ここに……そこです、受け取りのサインをお願いします」
彼女が書類に書いた名前とIDカードの名前を見比べ、一致を確認してから品物を渡す。
「ありがとうございます」
「はい、気を付けてくださいね」
一礼して、彼女は通用口を出て行った。
警備室に届けられた遺失物が、最終的に持ち主に戻るのは、全体の4割程度だ。ここでは、ビル内の共用部――休憩室やトイレ、エントランスで見つけられた物だけを預る。保管期間は、拾得日から3ヶ月。エクセルに情報を入力した後、警備室隣の休憩室のロッカー脇にある段ボールへ入れておくのだ。
「戻った。異常なし」
「ご苦労様です」
巡回から中井さんが戻る。休憩室でお茶を一杯飲んでから、小窓前の俺と入れ替わった。
大西先輩の命に従い、今日届いた遺失物の情報を入力するため、奥のテーブルに行く。
「何すか、この壺」
「遺失物だろ」
「え、やっぱりそうなんすか……」
さっきイヤホンを渡す時にも視界には入っていたが、まさか遺失物だとは思わなかった。片手で持つにはやや手に余る、サッカーボールくらいで焦げ茶色の陶器製のずんぐり丸い壺。突起の付いた蓋がある他は、模様も造作もない。持ち上げると、予想に反して軽い。しかし、小さくコトンと音がした。
「中、開けてみても、いいすかね?」
「構わんが、割るなよ」
「はーい」
俺はコンビニのポイントカードと、何かの鍵、片手だけの赤い手袋をまとめて運び、最後に謎の壺を両手で休憩室のテーブルに置いた。
壁際のPCで、遺失物リストに入力していく。カード、鍵、手袋……あ、そうそうイヤホン、これは返還済み、と。
で。壺だ。一旦エクセルの手を止めて、まじまじと観察する。もちろん名前のような手がかりは皆無だが、壺自体に銘や焼き印なども無い。蓋は――簡単には開かない。立ち上がってギュッと力を入れて、捻ってみる。
――パチッ
「わっ?」
一瞬、青白い火花のような光が放たれて、取り落としかけたが、慌ててテーブルに置き直す。割ったり傷つけたりしたら、自腹で弁償の上、始末書ものだ。
冷や汗を拭うと、改めて蓋に手をかける。
「あれっ」
さっきまであんなに固かった蓋は、すんなりと持ち上がった。やはり、どこか壊したのではないか――不安を感じながら、中を覗く。
中身は、空だった。
最初に持ち上げた時、確かに中から音がした。けれども、なめ回すように隅々まで覗き込んだが、何も入っていないのだ。
それどころか、蓋にも開封を妨げるような仕組みや凹凸は見当たらない。触ってみても粘つかず、糊付けされていたとも思えなかった。
「なんだこれ……」
やや不気味に感じた俺は、サッサと情報を打ち込むと、蓋をした状態で壺を段ボールの端に入れた。