第6話 刺身
件の魚のステーキは珍味であったが、毎食毎食食べ続けていると、大して魚が好きでもないケーイチは飽きてくる。他の四人は文句言うことなく食していたが、食傷気味になって弱った。食後の雑談で、ふとハルトに言ってみた。
「せめて、刺身でもありゃあな」
「刺身?こっちきてから食べたことないね」
「生魚食う文化なんてそうそうないからな。あるとこにはあるかもしれんけど」
「でも刺身か、いいね」
「よくっても、あの魚じゃあな。大きすぎる」
「小さい魚ならできるんじゃないかな」
「あっても捌けるかどうか」
「僕できるよ」
「へ?」
事もなさげに言ってみせるハルト、意外な特技だった。これまでの旅では幸い寝床と食事を提供してくれる宿や民家に泊まっていたから各人料理の腕前も見ることはなくて、特に話題にも上がらず知らなかった。ともかく、1年と何ヶ月かぶりに、刺身を口にすることができそうである。
それなら話が早い、中継の港に着くとケーイチはハルトを引っ張って船を飛び降りた。二人だけでなく女子たちも慌てて後を追ってくる。
「荷の積み込みには大分時間かかるってな。良さそうなのを慎重に探さなきゃ」
魚市場には他船の乗組員や商人らしき人々でごった返しており、少々場違いな五人だった。見たこともないような珍しい大魚が看板みたいに吊り下げられていて目を見張るが、おそらく目当ての物ではない。使えそうなのは下に並べられるもっと小さな魚。どの魚が刺身に適しているかあれこれ話し合うケーイチとハルトの間にラスナが頭を出した。
「なんか探してるの?」
「作ってみたい料理があってね」
「へえ、ケーイチ料理なんてするんだ」
「作るのはハルトだよ」
「そうなの⁉︎全然知らなかった」
「うん、僕たちの国の料理を作れないかなと思って」
「ハルトさんのお料理食べてみたいです!」
「私も私も!」
「だけど口に合うかな、僕たちには馴染みのある料理だけど」
「変わってるの?」
「生のまま食うからな」
「ナマ!」
生と黄色い声が並んで、ちょっと身を震わせるケーイチの悪い癖、もちろん性的な意味なんてどこにもありはしない。ついでにレッタの声は相手にされていない。彼女たちの驚嘆は生食文化に馴染みがないことを顕著に示していた。
「お腹壊さない?」
「多分大丈夫、僕たちはよく食べてたよ」
「あ、でも寄生虫、まあもしもの時はエミリアに治してもらうか」
「もー始めからあてにして」
「よしたほうがいいですよ、ハルトさんのお腹にもしものことがあったら・・・」
「え、俺は」
「ケーイチさんなんかトイレにこもっちゃえばいいんです!」
「ひでえ」
「ケーイチ、これ鮭みたいじゃない?」
「見して」
普段の生活で鮭を見慣れていたわけではない、正月の親戚の集まりで誰かが持ってきたのをお義理で眺めたくらいである。だがハルトが示す魚の爪切りみたく婉曲する顎は鮭だと確信させた。
「鮭、シャケ、サーモン、皮付きの朝飯オニオンサーモン。これだな」
「じゃあ買ってこうか」
「ああ唾が出てくる、任せたぜハルト!」
「うん、任せて!」
肩を抱き合いにっこりと、刺身の味をそれぞれ記憶に探して楽しそうな二人の、いまいち共有できない三人は顔を見合わせて眉を顰めた。彼女たちの頭には、いくらハルトが料理するといっても二人が魚をそのまま丸かじりする姿しか想像できなかった。
調理場の使用を申し出て快く許可されたが、刺身包丁なんて気の利いた物はなかった。芋の皮剥きに使うナイフを代用することにして、短い刀身をハルトが握る。
「これでできるか?」
「何とかなるよ」
「ねえ一体どんな風に料理するの?」
「ええと、鱗と皮を取って捌いて、骨を除くんだ」
「それだけ?」
「それだけ」
「・・・それって料理なの」
「失敬な、全国の板前に謝れ」
「なによそれ」
「板前さんがこの世界にいるかどうかはわからないけど、綺麗な『お造り』をするにはかなりの年月が必要なんだ」
「おつくり?」
「まあいいや、やってくれ」
「うん!」
ザンザカザンザカ鱗を剥ぎ、家庭科で習った通りの刃の入れ方、授業ではもっと小さな魚を使ったはずだが、ハルトは手際よく切り分ける。ケーイチは、いつしか魚釣りが趣味の友人が自分で釣った獲物を捌いて活造りにしてくれたのを思い出す。その美しく美味しかったこと。
「俺の友達にはちっと負けるが、手際がいいな。どこで覚えた?」
「家庭科の授業だよ。ケーイチもやった?」
「一応な。でもさっぱり忘れちゃった」
「上手ですハルトさん!」
「なんでもできるのねえ」
「そ、そんなことないよ。誰でもできるよ」
「俺はできない」
「綺麗な切り身だね。ここからどうするの?」
「ええと、内臓も骨も取ったし、あとは盛り付けて完成かな」
皿に何枚かの切り身を置いてまさしく刺身料理、ツマが無いのは寂しく見えたが上出来である。ケーイチは小躍りして箸と醤油を取ろうと棚の前に立った。だが、あるわけがない。
「あ、肝心なこと忘れてた」
「どうしたの?」
「醤油がない」
「あっ!箸もないよ」
「箸は、まあ、移火のちょい太いやつがあるからそれでいいとして、醤油がなくちゃな」
「塩はどうだろ」
「塩〆もまた一興だけど、それだけだとどうかな。やっぱり醤油がいい」
「うーん」
遂に行き詰まる。刺身も近年様々な食べ方があるとはいえ、やはり醤油を使いたかった。この世界、元の世界と似通った部分は多々ある。だから醤油に類似した食品もどこかにあるのかもしれないが、ここはヨーロッパじみているから望み薄だった。ある場所にいつか行ってみたいとはあるものの。
急に顔を顰めた二人に、ハルトの手捌きにはしゃいでいたラスナたちはまたもや不思議がった。
「何か足りないの?」
「うん、大事な調味料が」
「元いたとこならどこでも手に入ったんだけどなあ」
「じゃあライダさんに聞いてみたら?交易船だし持ってるかもよ」
「なるほど、聞いてみるか」
「料理してるっすか?」
実にちょうどいいところにライダが現れた。ケーイチはあの夜伽以来ロクに会話をしていなかったから、少々苦笑いで出迎える。彼女もそれを知ってか知らずか、ケーイチには少し違った笑顔を向けた。
「うん、してたんだけど」
「大事な調味料が珍しいものらしいの。ライダさんなら何か知らないか、ちょうど話してたところ」
「調味料っすか。そうっすね、どんなものっすか?」
「強い塩気のある粘度の低い黒い液体、でもなんて言ったらいいかな、醤油の味は醤油だし」
「ふーむ、塩味の黒い液体っすか。料理長に聞いてみるっすね。珍しい香辛料なんかは、たまに乗船する商人から買ってるらしいっすから」
料理長は貯蔵庫にいて晩のおかずを考えているようだった。貯蔵庫には所狭しと保存食や酒樽らしき物が積まれていて、彼は塩を小袋に移している最中だった。
「と、いうわけで、何か知らないっすか?」
「黒い液体ねえ。ソースじゃないんでしょ?」
「ソイソースならともかく」
「しょっぱいサラサラしたやつらしっす」
「ええと、あそこに集めた調味料があります。あの中にならあるかもしれないですね。ソースみたいなのもあるし」
「そうっすか。ありがとうっす」
最後の言葉は、別に洒落たわけではないだろう。しかしレッタだけは笑いの沸点低いのか吹き出した。ケーイチはすぐさまからかう。
「ぷっ!ソースにそうっすねって」
「ガキの笑い」
「なんですか!いけないんですか!」
「騒がない騒がない、さあ、探してみよう」
探してみようといっても判るのはハルトとケーイチだけ、皆はそれらしき瓶を見つけると二人に吟味させる。
「これは?」
「違うかな」
「これ?」
「酸っぱい匂い、違うな」
「これですか?」
「うーん砂糖の感じがする」
「ケーイチさん、奥にあるこれ、取るの手伝ってくださいっす」
ライダは荷物の隙間から尻だけ出してケーイチを名指しした。なぜ自分なのかと思いつつ、彼は隣に身体を滑り込ませた。あの夜狭いベッドに寝ていた時と同じ姿勢で、違うのは服を着ていたことだった。ライダの豊かな胸がケーイチの肩を押し、吐息が熱く鼻にかかる。
「これっす、上の袋を持っててくださいっす」
「あ、ああ」
「うんしょ・・・っと、取れたっす」
「よかった」
「ケーイチさん、気にしてるっすか?」
「何を」
何をもクソもない、抱いて抱かれた時のことを言っている。気にしてないといえば嘘になる、それはセックスのことよりもライダのロレンスを探す影の方が、部屋を出た時の戸惑いのままに頭を過ぎった。
「あの夜のことっす。やっぱり悪いことしちゃったっすか」
「気にしちゃいないけど。それより、君のロレンスを探す姿の方が」
「愚痴みたいになっちゃって申し訳なかったっす」
「いやいいんだよ。ただ、非常に複雑な内面だったんだなって」
「複雑っすか、そうかもしれないっす」
「なんていうかな、気持ちからすればきっと順当なことなんだろうけど、可哀想に思ってしまって」
カワイソウという言葉が不適切であろうことは百も承知なのだが、それ以外思い浮かべる言葉がなかった。恋人を亡くしてあるはずもないモノを探して、別に行為そのものが大して好きではないのに男と寝まくることは、哀れだった。ライダは少し表情を険しくした。
「かわいそうっすか、それは心外っすよ」
「そうだろうね、済まない。だけど、時折見せてくれる笑顔が痛ましく目に映る」
「でも可哀想だなんて思わないでほしいっす。私は短剣が見つかるまでは、こうすることでしかロレンスを探せないっすから」
「うん。だから短剣が見つかることを祈ってるよ。それが一番いいんだから」
「早く見つけたいっすね。それならケーイチさんも、私の笑顔をきっとそのまま純粋に受け取ってくれるっすから」
表情を溶かしてまたニカと笑い、ケーイチも笑顔を返すけれど、やはり混じりっ気なしでは受け取れなかった。
なかなか出てこない二人を心配して、覗き込むエミリアが声をかけた。
「大丈夫?詰まっちゃった?」
「大丈夫っすよ、今出るっす」
実際尻やら胸やら支えて出るのに苦労して、なんとか抜け出すとケーイチに瓶を渡した。彼は黙って蓋を取ると鼻を近づけ、頭の中に逡巡とするライダの顔を浮かべていたけれど、突如定まる想像は鯛の活造りに回転寿司、鮪の山かけ海鮮丼と、一杯になる。芳醇な醤油の香りが脳幹を貫いた。
「これだ!」
「醤油⁉︎」
「うん、うん、ハルト、嗅いでみろ」
「くんくん・・・醤油だ!やったあ!」
突然抱き合って歓喜の声の、取り落としかけた瓶をレッタがキャッチする。瓶の口から少し垂れていたのを指ですくって舐め、初めて感じる味わいに美味いとも不味いともつかず、べえと舌を出した。
「しょっぱいです!」
「どんな感じ?」
「どんなって言っても、しょっぱいばかりで例えられない味です」
「ふーん、変わった香りね」
「でも調味料っぽい」
「お目当ての物は見つかったみたいっすね」
「そうそうこれこれ、ああ懐かしい、涙が出るぜ」
「ほんとだよ!早く食べようよ!」
瓶を持ったレッタごとケーイチは小脇に抱え、ハルトと並んで駆け出した。「こらー!ハルトさんと代わりやがれですよ!」とわめく声は無視されて調理場に戻ると、先に戻っていた料理長が不思議そうに刺身を眺めていた。鼻を近づけて匂いを嗅いでいる。
「これあんたらのですか」
「そうよ、美味そうでしょ」
「でしょったって、まだ調理前じゃないんですか」
「これで完成なんです!ケーイチ、レッタ、醤油をその小皿に」
「はいハルトさん!」
ハルトの言うことには素直に、身体は水平なまま瓶を小皿に傾ける。垂れる醤油に目を輝かせて、黒い中に映りそうなくらい。小さな溜まりができてもういいだろうと、ケーイチがレッタを下ろした。
「ようやったレッタ」
「ふん、これくらい簡単なのです」
「じゃあ食べよう。ケーイチ、移火ある?」
「これで太さ長さは足りるだろう」
二膳の移火を用意して、箸にして持つ、料理長と後から入ってきたラスナたちは目を丸くした。ケーイチの場合綺麗な持ち方ではないが、それでも驚くほど器用なことをしていると驚きを隠せない。
「よくできるねそんな持ち方」
「それから、どうやって使うの?」
「この棒の先で摘むんだよ。本当は移火じゃなくて専用の道具があるんだけど」
「食おうぜ。ああ、どんなだろう」
皆同じく心臓が高鳴る。日本人二人は故国の味を期待して、他の人は遂に生魚を口にしてしまって大丈夫なのかと緊張する。醤油に付けて大きく開けた口に切り身丸ごと放り込んだ。
祖父母が連れて行ってくれた高級寿司、月二回くらいは行った、切り身の凍る回転寿司、焼津港の定食屋の刺身定食、正月にだけ食べた出前寿司、最年少だから可愛がられて、好きなトロばかり食べた。家での食事で出る時は、好物の赤身ばかり。
刺身一つにある思い出が溢れかえって、咀嚼しているうちに二人は涙を流していた。今食べている刺身が必ずしも同じと言える味なのかはともかく、生魚の切り身を醤油に似た何かに浸して味わったのだ。泣くには十分だった。
急に泣き始めて、二人の内面を知りようもないから周囲は戸惑い始めた。
「え、え、どうしたの」
「泣いちゃってる」
「美味しくないんですか?」
「いやね、もうこれほどない味だよ。涙も出るさ」
「懐かしいな、ちゃんと鮭の味だ。刺身ってこんなに美味しかったんだ」
「じゃあわたしにもください!」
「あっずるい!私も私も!」
「私ももらってもいい?」
「いいともいいとも、この至上の喜びは共有するもんだ」
「きっと気にいるよ。口を開けて」
「あーん」
ハルトはラスナとレッタに、ケーイチはエミリアに刺身を食べさせてやった。気づくと横にライダがいて、彼女も口を開けて目を瞑っているから苦笑して舌に刺身を乗せた。はて、彼女らの反応は。
「・・・?」
「どう?」
「・・・生の魚」
「そりゃそうだ」
「調味料はいいけど、そうだね・・・やっぱり馴染みがないかな」
「わたしにはちょっと早すぎました・・・」
「うーん、やっぱり合わないか」
文化の違いというのは簡単に壁になる。口にする食事の調理方法や素材となれば尚更だった。彼女たちはなんとか飲み込むと口直しに料理長から塩をもらっていて、ハルトとケーイチは少し残念に思った。しかし、ライダは違う。
「みなさんは合わなかったっすか?私は結構気に入ったっすよ」
「おお、さすが交易船の長なだけある、ライダは違うなあ」
「料理長も、どうっすか」
「生魚でしょ、止しときますよ」
「そうっすか。でもこれ、どこかで食べた気もするんすよねえ」
「ほへーやっぱり生食文化のある土地もあるんだ」
軽く聞き流して、どこかに似た文化を持つ国や地域があるんだとしか思わなかった。しかしライダは、この食感と味が何か特異な関連性を見出せる気がしてならなかった。殊にこの少年と青年の故国の料理であると聞くと。珍しいものを食べさせてくれた人間は多くいる。きっとその中の誰かなのであろうが、あと一歩というところで思い出せない。
「なーんか、何かを思い出せそうな気がするんすよねえ」
「何を?」
「これと似たような、そっくりな料理を食べさせてくれた人のことを。ちょっと変わった人だった気がするっすから。あーだめっす、後一歩っすけど」
一人でに悩み始めるライダに、ハルトとケーイチは顔を見合わせた。そうまでして思い出したいような変わった人間であるのは、一体どんな人物なのか、こちらまで気になってくる。それならもっと味わえばはっきりしてくるだろうと、更に食べさせようと切り身をもう一切れ醤油につけた。「じゃ、もう一つ」差し出すと素直に口を開けて目を瞑る。しかし舌には醤油一滴落ちただけだった。
「船長、新たな情報が!」
「龍眼の短剣のっすか?」
「はい!」
「今行くっす!」
ライダは上衣の裾を翻すと伝令の後を追って調理場を出た。残ったのは突然真剣に変わった彼女に対する視線と宙ぶらりんの刺身だけ、ケーイチは仕方なしに口に放り込んだ。
「誰か、おかわりいる?」
少女たちは揃って首を横に振った。




