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副・救世主は悩ましく  作者: 小山モーゼル
第四章 セーラーと短剣
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第4話 夜光虫

 やはりケーイチは、ただでは済まなかった。エミリアほど顕著に体調の変化は現れないが、気怠さでぼうっと座り込んでいた。吐き気という段階まではきていないものの夕食を口にできるかどうかというと怪しい。かといって、あのクリエとかいう船医の世話になる気もしなかった。水ばかり飲んでいたが、飲料水が貴重な船上でバカバカ飲まれても困ると件の下士官に咎められて、不貞腐れる。


「横になったら?」


 潮風も、所詮内陸で暮らしていた人間には嗅ぎすぎるのが嫌になってきて、船室に戻るとすっかりハンモックの吊り方を習得したハルトがケーイチの分も作っていてくれた。片手を上げて拝むような動作で礼を示し黙ってハンモックに横になる。布に包まれて圧迫されるポケットの中身を出し、ふとシガレットケースとパイプを灯りにかざして眺め、喫う気も起らず荷物の上に落とした。

 当初は異臭を感じた船室も、こうしてじっと寝ていれば不思議と懐古させられるのは、結局乱雑だった実家の自室と彷彿とさせられるからかもしれなかった。埃っぽくて、昼起きると塵が陽の光に浮かんで舞っているのが見えて、頭上の灯りも、糸屑のベールを纏うみたいに霞んでいた。眠たくなってくる。毛布を肩と首元にしっかり埋め込んで頭を沈めると、そのうち止めどなく非現実の妄想が始まって、瞼は降りた。


 夢を見た気もするがすぐに忘れてしまった。それでも寝惚けたかのように実家で寝起きしている感覚が浸透していて、自分を呼ぶ声が母のものでないことを真剣に怪しんでいた。声はだんだん近くなってきて、誰だっけ、誰だっけなと、目を瞑ったまま考えて、すると顔の前に何か圧迫感が。瞼を薄く持ち上げてみると、赤い瞳が自分を見つめていた。


「夕飯ったら。ケーイチ」

「誰?」

「はあ?」

「ああ、ラスナか。ごめん」

「あのねえ、何年も経ってないけど、そこそこの時間一緒にいる人間のことを簡単に忘れないでくれる?」

「なんか実家にいる気がして。美少女のことは忘れんよ」

「まーたそいういうこと言って。褒めても何も出ないわよ」

「出せよ」

「ばーか。それより、ご飯は食べれそうなの?」

「うん。さっきよりは体調良くなった。エミリアは」

「随分前に医務室出てきたわ。一番元気」

「あっそ」

「あんたもクリエさんに診てもらったら」

「そこまでじゃねえよ。行こうか」

「あれ、泣いてるの?」

「え?」


 言われて瞬くと、瞼の端から涙が溢れていた。目覚めのあくびで滲んだものにしては少々量が多く、頬に両手を当てるとたしかに濡れている。怖い夢を見たとも思わないから訳がわからず、首を傾げて目元を拭った。


「なんでだろ」

「こわーい夢でも見たんじゃないの」

「違うったら」


 ハンモックを降りて手早くパイプに煙草を詰めると移火を擦った。火を点けながらラスナに付き従い船室を出て、涙のことも忘れかけた。しかし出た途端、そこが異質だと感じて無意識に立ち止まってしまった。自然と振り向く、視線は船室の扉を示している。しばらく眺めて鼻を動かし、パイプの香りばかりだと知るや、涙の理由が判った気がした。


「なるほどね」

「なにしてんの?行くわよ」

「懐古懐古」


 寂しく笑って煙を吐き、何か堪えるように息を呑むとラスナを追った。後ろ髪引かれて、足取りは重くなりがちだった。匂いというのはどうもいけない。視覚や聴覚より、彼にとっては最も脳と感情に直結しやすかった。

 センチメンタルは急にブチ壊される。食事は()()にしては珍しく下士官兵が共に兵用船室で食卓に並ぶのだが、足を踏み入れると今度は空気が脂ぎっていた。食卓に鎮座している名前も知らない魚の丸焼き、食う気も失せそうな巨体がそれぞれの皿に切り分けられている。オイルサーディンの缶詰を開けたようなものだった。もうもうと湯気を上げるステーキは小骨の心配が頭を過りもしない。ただ三人だけ目を丸くしている横にケーイチとラスナも座り、同じく瞼を広げた。


「これ、獣肉?」

「まさか。魚ですよ」

「こんな大きいの初めてです」

「肉でもこんなすごいの滅多にないわ」

「ケーイチくん、食べて大丈夫?」

「自信無くしてきた」

「でも美味しそうだよ。ほら、こんなに脂が」


 その脂が、ハルトの皿に切り身が置かれると派手に跳ねた。彼の白い服に染みを作って苦笑いをせざるを得ない。全ての料理を配食し終わったコックが食卓の端に立った。


「また洗わなきゃね」

「・・・そうだね」

「じゃ、食え。あ、お召し上がりください」


 コックのいつもの態度と、客人前の態度が入り混ざって至る所で笑いが起きた。愛想笑いしながら船員を見回すと、彼らは一様に大きく口を開けて切り身をほうばった。それでもまだ半分以上は皿に残っている。五人はより小さく切り分けると恐る恐る口にした。


「ん!」


 皆同じく再び目を丸くする。味に関しては、見た目のおどろおどろしさからは想像できない、美味だった。口腔内では香辛料が効いて香ばしく、柔らかな食感でパサつきもない。臭みもなかった。


「おいしー!」

「気に入ってもらえましたか」

「はいはい!いやあ美味えな。こんくらい脂っこくて正解かもしれん」

「ほんと、一気に食欲が出てくるわね」

「近くで獲れるんですか」

「遠洋漁船から買いました。お客さんがいるんでご馳走です」

「いくらでも食べれそうです!」

「おかわりもありますよ」

「やったあ!」


 そんな調子で何皿も食らう。そのまま食べたりパンに挟んだりと様々な食し方を楽しんで、頬の脂を何度も拭く。膨らんだ腹を撫でて満足そうに濃く息を吐いた。


「ごちそうさま。たくさん食べちゃった」

「これならよく眠れそう。揺れもあまりなくなってきたし」

「そうだね。ああ、ライダさんにもお礼を言わないと」

「そういや、ライダとクリエは?」

「一緒に食べなかったですね」


 船員も手が空かない者は共に食事をすることはなかったが、しかし士官であるライダとクリエがいないのは変だった。エミリアによれば夕方医務室から出た時はクリエはそのまま部屋にいるというが、ライダに関しては、しばらく姿を見ていなかった。


「船医は医務室で飲んでるか寝てるんでしょう。船長は、そうだな、この海域この時間だと外にいるんでしょう。夕食は後で召し上がるはずです」


 いつものこと、とでもいう風に片付けながら船員は教えた。クリエのことはともかく、ライダが船長室でなく外にいるというのは、何か事情がありそうだが、特に聞き返すことはせず席を立った。


「部屋で何かして遊びましょうよ」

「さんせーです!」

「いいね。ハルトくんとケーイチくんはどうする?来る?」

「うん、行くよ」

「俺は後で行くよ。食ったら食ったで、ちょっと横になりたい」

「そう。じゃあ待ってるわ」


 女性船室に男が行っていいものなのかはともかく、ケーイチは四人と分かれて船室に戻ろうとした。他の下士官はこれから仕事があるのか、一緒に戻る者はいない。

 大体覚えている順路を思い出しながら船室に向かう道は、人気が感じられず不気味な空間だった。蝋燭の強くない灯りが影を黒々と醸し出し、足をすくませてしまう。船室まで来ればまた実家に戻れる気がして、冷汗かきながら進んだ。だが船室の前に立つと、先のようなノスタルジーは既になかった。扉を開けて中の匂いを嗅いでみればあの感覚が取り戻せるのかと思ったが、同じ香りなのに、目に映る室内はあまりにも寂しかった。そうなると、逆に誰かと一緒でなければここにいたくない。自分でもよく解らない感情の動きに戸惑いながら、甲板に出た。

 夜の海は、絵具を流したように黒く時折月明かりで波が白く現れるとすぐに飲み込まれる、これがケーイチの印象であった。はっきり言って怖い。ではなぜ、潮風にも飽きて僅かといえども夜の海に恐怖心を抱いているのに甲板に出てきたのかというと、小さな期待があった。


「ああいるいる!しかしこんなに光るもんなのかな」


 船縁に手をついて下を覗くと、ケーイチの顔は青く光った。夜光虫である。彼は物の本で知っただけで実際に夜光虫の海を見たことがなかった。その美しく光る写真をふと思い出して、沿岸からさほど離れていない海域を航行しているならもしやと、正解だった。彼自身は知らないが、元いた世界の夜光虫よりも発光が強い。


「ふーん、綺麗なもんだね。あいつらにも後で教えてやるか」


 手に掬ってみたいが海面では叶わず、腕だけ伸ばしてみた。オーロラがいくつもうねっては消える、その度に掌を絹が流れていく幻想に囚われて無心になれた。目を細めて緩む頬の、一体何が幸福にさせているのか、ケーイチは久々に初体験の美しさにすっかり身を沈めている。この世界に来てから初めて体験したことはいくつもあったはずである。それなのにこうも心酔しているのは、元の世界と共通と思える美しさであるからに他ならない。ケーイチはあの近づきすぎている月にもある種の芸術性を感じているものの、あれは、転移当初の非現実性が頭に沁みついていた。

 理屈抜きの芸術に支配される快感が脳の内から痺れさせて、船縁から乗り出す上半身は次第に幅を増していた。危険な位置であることも忘れて。


「危ないっす!」


 がくんと海中に投身しかける上体を、誰かが引っ張ってくれた。我に返って慌てて遠のき声の方を振り向くと、ライダがケーイチの腕を掴んでいた。緊張した彼女の瞳に、ミスを犯したという負い目を再び痛感するところとなる。辛うじて落下を免れたパイプをくわえ直した。


「そんなに身を乗り出したら落ちちゃうっすよ!」

「あ、ああ。すまない、ありがとう」

「まったく、どうしたっすか。夜の海は怖いっすよ」

「いやね、ちょっと・・・」


 ケーイチは急に黙り込むと眼球ばかりを上下に動かした。一旦目を逸らすことで負い目の恥ずかしさを紛らわせ、今一度爪先からライダを見上げていこうとしていた。すると、裸足にサンダル、生脚は腿が尻までムッチリ膨らみズロースに包まれ、そしてシュミーズ、この組み合わせはアリなのかとどうでもいいことを考える暇はなく、視線は胸元に刺さった。羽織られる士官服じみた上衣の隙間では、ラスナのよりは確実に豊かでエミリアに匹敵する乳房が深く谷間を作っていた。ケーイチが抱いていた、身体つきに関してはちんちくりんで子どもっぽいという印象は早急に訂正される。背が低いというだけで巨乳だったのだ。視線に気づくライダは呆れた溜息を吐き手を離した。


「どーこ見てるっすか。やらしいっすよ」

「いや、その、ごめん。子どもではないんだなって」

「大人って言ったっすよ。まあ、普段の格好なら見えにくいっすからね。プライベートな時間はこんな格好も多いっす。部下は慣れてるっすし」

「あっそ。しかしよく船員に盛りがつかないね」

「女の船員もいるっすから、そこは大丈夫っす」


 クリエみたいなのもいて何が大丈夫なんだ、と内心思って苦笑した。船員たちは慣れていると、その慣れの中には彼女がこの時間外にいることも織り込まれているはずだった。まさかこの姿で仕事でもあるまい、夜光虫の海域で何をしているのか気になった。


「この時間、いつもここにいるの?」

「どうしてっすか?」

「飯の時にもいなかったから」

「色々考え事があるっす。夜になるとナーバスな考え事が」

「考え事ね。夜光虫を見てると無心になれるってか」

「その逆っすよ。むしろ色んなことを思い出すっす。潮風に素肌を晒して、アンニュイに夜光虫の悪戯と付き合ってると」

「なかなか文学者だな」

「ある人の影響っすよ」

「ロレンス?」


 言ってしまってからハッとした。ライダが前の船長の遺品を必死で探しているから彼をよく慕っているのは確かで、ロレンスという名が繋がるのは自然であるけれど、何せ彼は故人である。無配慮に地雷を踏み抜いたのかもしれなかった。ケーイチはバツの悪そうな顔で蒼くなると海上を向いて煙を吐いた。


「いや、なんでもない」

「ロレンス、そうっすね。彼の影響っす」


 やはりケーイチの思惑は合っていた。だから、次にライダがとる行動を恐れる。悲惨な出来事を思い出して沈み込み、顔を伏して帰ってしまうか、もしかしたら泣き出してしまうかも。それは余程、更にケーイチの自責の念とやらを、深く刻み込むに違いなかった。しかしライダはどちらでもなく、言葉を切ると少し夜光虫たちを見下ろして、特に表情を変えずに向き直った。


「酒でも飲まないっすか。私の部屋で」

「へ?」


 予想外のお誘いで、誤った要領でパイプに息を吹き込むと煙草の火が消えた。見計らったようにライダは船内に通じる出入口へと足を向けて、ついていくと灯りに移火を差し込み煙草の上に置いてくれた。彼女もパイプをくわえると火を点ける。今更気がついたが、ライダはパイプの似合わない女だった。曲がったクレイパイプから立ち昇る煙の先に、見つめてくる瞳の湿っぽさに取り込まれた。

 二人がいなくなった甲板に夜光虫の一層増した光がぼやけて、徐々に弱くなっていった。

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