神の祝福を授けられ英雄として生まれた、ごく普通の一般的で平凡な異世界転生者の僕
楽しんでもらえたらうれしいです。
1
生まれた瞬間はまるで長い眠りから目覚めた時みたいだった。
その時の意識が鮮明なのは僕がもともとこの世界の住人じゃないからだった。生前の記憶で最も印象深いのは、やっぱり自分の死の瞬間だ。大型のトラックに跳ねられた。20代半ばくらいの若い運転手だった。眠そうな運転手が取り返しのつかない不手際にこの世の終わりを見ているような顔をして僕に必死に声をかけ続けてたっけ。実際にこの世の終わりを迎えたのは僕だったんだけど。僕に駆け寄ってきた運転手の薄いブルーの作業着とそれに染みついた煙草の匂いもトラックのナンバーまでちゃんと思い出せる。
僕はその時死んだ、そして生まれ変わった。この世界に。
「アルバ。伝統的に炎の術式の組みは一度詠唱を挟む。そうしないと」
「そうしないと、暴発して撃った自分がケガするかもしれない。だろ? わかってるよ父さん」
「理解が早いな、さすが俺の子だ」
「でも、詠唱を挟むとどのみち魔法の初速が遅れるから危険だと思う。
杖とか簡単な魔法具で火種だけ作る工程を簡略化できないかな」
「こりゃあ末恐ろしいな。確かに戦闘の出鼻っていうのは炎の魔法の最大の弱点なんだ」
正直に言って転生した僕は恵まれていると思う。僕は魔導書がいくつも並んだ書架を背に、机に向かっている。父に魔法を習っていた。父は魔族との戦争を終わらせた英雄で巷では大賢者とまで呼ぶ人もいるくらいだった。
「だが、楽はいかんぞ楽は。若いうちからそんなものを覚えたらダメ人間になる」
本当は少し世間の評価よりも脳筋で根性論崇拝のド体育会系な人なんだけど。
ドアをノックする音が聞こえた。父が入っていいぞと言うと僕たちの後ろに並ぶ本棚の奥から召使の人が現れる。
「失礼します。お茶をお入れしました。お母さまが休憩してはいかがかと」
「おっと。もうそんなに続けてたのか。キーシャにすぐ上に行くと伝えてくれ」
「かしこまりました」
僕は父にもう少し続けたいと言ったが、休むことも立派な魔法の心得だと言われた。こういうところは賢者らしいのかもしれない。
王都に構えられたこの邸宅には二人の召使がいて、庭は広くて馬術の練習だってできる。これは魔族との戦争の英雄である父が王様から得たささやかな報償だったと聞いている。父は英雄でありながらもてはやされることをあまり好まなかったらしい。魔王を打倒できたのは自分だけではなく死んでいった多くの仲間の兵士たちや兵站を支えてくれた市民たちの功績であるとの考えだった。さまざまな褒美を頑として断り、遠くの山野に隠居でもしようとしていたところ、王女であった母が父について行くと言い出し国は大混乱。父も戦争の時から精神面を支えてくれた母にはコロッとやられており、身分の違いという障害もあったが、周囲のサポートもあって無事ゴールインした。婚姻の際の条件が、王都に住むということでこの家はその時に王様がくれたものだったそうだ。
父が書斎の出入り口でパチリと指を鳴らすと今まで広げていた本が勝手に閉じ、本棚のあるべき場所へ勝手に戻り始める。全ての本が定位置に戻ったのを確認してから父はもう一度指を鳴らして明かりを消した。僕と父は書斎から廊下に出た。
邸宅は二階建てでなかなかに広い。一階には居間と両親の部屋、二階には客間と召使いたちの寝室がある。そして僕と父が魔法の授業をしていた書斎は地下にある。書斎を出ると右側には上階へつながる階段があり、左側、つまり階段から下りて廊下の突き当りにはもう一つの扉があった。
「アルバ、早く行こう。お茶が冷めるとキーシャが悲しむぞ」
僕が地下の奥の扉の方を見てボケっとしていたら階段の方で父に呼ばれた。父はあの扉の奥を決して見せてくれようとはしなかった。魔法を追究する人はみなその研究成果を秘密にするようだ。それは親子の間でさえも簡単に明かされるべきではないそうだ。魔法の成果というものは莫大な富を生む発見ばかりでなく危険なものも多く、他人に知られることで自分の研究を横取りされたりあるいは悪用されることを防ぐためだという。父の言葉を借りればそれは魔法を持つ人の責任であるらしい。僕は幼心にその扉の向こうには国中の人々があっと驚くような秘密の数々が眠っているのだと思った。それこそ、世界の見方が一変してしまうようなものさえあってもおかしくない。だって、あの父の魔術工房なんだから。
一階の居間では母が、椅子に座って本を読んでいた。僕たちに気づいてもう、遅いわよと不満を漏らした。父が謝る。僕たちは席に座った。
「それでね、街の子供がいなくなることが増えてるから私たちも気をつけろって。
お父さまの兵士が今朝がたうちに訪ねてくれたの」
「ふむ。軍がまだ動かないとなるとギルドに依頼が回る頃だな。まったく尻の重たい連中だ」
「実家の悪口は円満な夫婦関係を損ねるわよ」
「国の不満を言っただけだぞ」
「私にとっては全員、家族ですからね。誰に対する不満も許しません」
ははは、敵わんな。そう言って父は笑った。母も母でわかっていて言っているようだった。
話をしながら僕たちはお茶とケーキを味わっていた。フォークでスポンジをつつくとまるでふわふわと音が出るかのような柔らかさが返ってくる。
母の話は最近王都と周辺で起こっている子供の誘拐事件についてのことだった。子供を狙った誘拐や原因不明の子供の失踪事件が増えているそうだ。犯人はやはり人間の賊か、あるいは紛れ込んだ魔物の残党か。父が問題視したのは、国の軍組織が事件解決に向けて動けないことに対してだった。
魔族との戦争終結後、疲弊した国は以前のような規模の軍を維持する体力がもはやなくなっていた。戦争が終わって国家規模の危機というものが想像されなくなったことも重なり軍組織というものはこの国では輪をかけて小さくなりつつあった。
これについて父は『良いことか悪いことかは後の人々が決める。今は現実にある戦争のない世界を幸福に思いなさい』と言ってはばからなかった。
僕には父の言っていることが一部納得できる一方で、納得できないところもあった。軍が縮小したことで犯罪が増えたのだ。そして、人間の犯罪者の他にも今でも魔物の残党が人々の生活を脅かしたりしていた。そういった軍の仕事の漏れを補填するために、国は冒険者ギルドというものを設立した。最近は便利屋としての役割も果たすようになってきたが、要はフリーランスの警察、軍人の仕事の斡旋所である。
「俺もギルドに行ってちょっと確認してみるよ」
「クレイオ。毎度言っているけど、そろそろ引退しないの? もう充分戦ったじゃない。田畑を耕してゆっくりとこの子の成長を見守る生活も悪くないと思うわよ」
「だからこそだよ。この子のためでもある」
「もう……こればかりは意見が合わないわね」
父は軍を退役してギルドの冒険者になった。母の心配は最もだと思う。そもそも僕は「冒険者」という単語は血気盛んな若者を寄せるための言葉だと思っている。そして父は若いとは言えない。それでもギルドから頼りにされていることを僕は誇りに思うし、生前、結構ゲームが好きだった僕は父の背中を追って冒険者になるのも良いと思っているくらいだった。けれど、全盛期を過ぎた父がいつか大けがをしたり、命を落としてしまうんじゃないかという母の心配が痛いほどよくわかった。
「この子は俺の宝なんだ」
父が、ケーキに夢中な僕の頭の上に手をのせた。
「俺たちの、でしょ。仲間外れにしないで。そして、あなたも」
その上に母の手が重なる。
「ふっ。そうだな。すまなかった。
俺たちは長い間ずっと恵まれなかった中でやっと授かったんだ。この子が大人になる頃、今よりももっと世界が平和になってると良い。そのためにはまだ杖を置くわけにはいかない」
「……強情ね。危ないことはしないでね」
「今日は依頼を確認に行くだけだから」
「じゃあ、馬車に轢かれないように注意して。道を渡る時は手を上げて左右を確認」
「子供か俺は!?」
「この国の人はみんな私の子供よ」
「一応、俺は君より一回りは上なんだがな。キーシャ」
「そう? 私はいつもあなたが心配で心配で、息子が二人いるみたいよ」
「き、気を付けるよ……」
父はぽりぽりと頭をかいた。
母は笑った。僕も笑った。父も笑った。僕はこの生活がすごく幸せだった。
けれど、転生して良かったと手離しで喜べるほど生前の生活に未練がないわけではなかった。この世界に生まれる前にも僕には友達はいたし、両親にも愛されていた。結局、想いを伝えられなかったけれど、好きな人だっていた。皆は僕が死んだあとどうしているだろうか。元気でいるだろうか。そういうことを僕は時々思い出しては感傷的になったりした。
まだ死んだ時の年齢にこの体が追いつくまで何年もある。そんなメランコリーを抱えた僕は周囲にはすこしだけ背伸びした変な子供に思われているのかもしれない。実際、 召使の人たちは僕に過剰に恭しかったりするし、外へ出ても同年代の子供たちから壁を感じたりもした。僕が戦争の英雄と王女の子であることを踏まえてもこれはちょっと異常だ。
だいたい王位は母の兄達が継承する。母はいまだに冗談めかして王家の子女として父に振舞って見せたりするけれど、政争に僕が巻き込まれるのを嫌って僕の王位継承権を奉還している。戸籍上は僕も母も立派な一般人だった。
僕が周囲となんとなく馴染めないのは、きっと僕に日本で生まれて育った高校生だったころの感覚がいまだに残っているからだ。つまり、見た目は子供、頭脳は大人の名探偵と同じ。もしも僕にも子供らしく、あれれ~とカマトトぶる器用さがあったなら、こんな疎外感は無かったはずだ。
食器とティーカップを召使の人が下げてくれた。父はギルドに行くために家を出た。僕は魔法の練習を続けたかったが、父は書斎の鍵を持って行ってしまった。
庭へ出てみる。一列に剣術訓練用の木人が並んでいる。木剣を家に取りに戻ってから僕は木人を打つことにした。
いち、に。敵の手元に一撃、頭部にとどめ、父に習った基本の型を何度も繰り返す。
50周ほど終えたのちにつまらないなと僕は思った。
やっぱり魔法が良い。僕が魔法が好きなのは、大賢者と呼ばれて尊敬を集めるこの世界での父の遺伝だけではなく、やはり魔法のない世界から生まれ変わってきたからだった。早く、帰ってこないだろうか。僕は木剣を置いて、父の出た先を見つめた。
森を隔てて王都の街並みが見える。都市とは言っても東京のように狭い土地に建物が争うように並んでいるわけではなく、僕の家がそうであるように広めの土地が他の土地と隣接しあう形で散在する。お隣さんの家まで最短でも50メートルの距離はあるので、狭苦しさを感じるのは都の中心部だけだった。
森を眺めながら僕は鳥を射てみようと思い立った。魔法の次に好きなのは弓だった。これは生前から変わらない。日本の高校生だった時、僕はアーチェリーの選手だった。それもひとかどの選手だったと自負している。僕は弓と矢を家から持ち出し、森へ向かった。
2
鳥が土の上にいる。ミミズでも掘っているのかもしれない。
集中。狙いを定める。矢じりの先と標的とが糸で結ばれているようにイメージする。
引き絞られたストリングは限界で力をとどめ、それが解き放たれる瞬間を今か今かと待っている。
僕はこのスリルが好きだ。空気を吸う。吐く。止める。肺の膨らみや心臓の鼓動さえも無駄な動きだ。
何もいらない。ここにあるのは僕と的、ただそれだけの世界。獲物が羽を広げる。
僕に気が付いたのだろうか。あるいはただの勘だろうか。いずれにしても素晴らしい。さすがは自然界を生きるだけはある。
だけど、関係ない。今だ。
僕はそれ解放した。地球の丸さに沿うように軌跡を描く。鳥が今までになく大きく翼を広げる。地面から脚を離し風にのろうとしたそれは、しかし上昇することなく、ばたばた土を巻き上げた。
「よし、やっ――」
僕は気が付かなかった。背後から首に手が回されている。太く筋肉の質量が多い腕だった。締め上げられて呼吸が苦しい。そうだ、魔法……詠唱……。
――そこからは何も覚えていない。気が付いたら僕は手足を縛られて薄暗い洞窟の中を運ばれていた。僕は担がれている格好で、地面と背後くらいしか見えない。それも真っ暗なのでとても限られた範囲だけだった。時々洞窟の天井から水が垂れて僕のうなじに落ちた。
僕を担いでいるものは相当大きく、毛むくじゃらな魔物だった。二足歩行で形だけは人に似ている。この洞窟はどこなんだろう。どうして王都に化け物が侵入したのだろう。色んな疑問が頭の中をぐるぐるとかき乱した。何度も曲がる。右に12回左に8回。どんどん下っているようだった。
それから合計で右に14回、左に11回曲がったとき、化け物の足が止まった。そこで僕は小部屋に放り込まれた。魔物は洞窟の暗闇に赤く光る目で僕を睨みつけてから石でできたドアを閉じた。僕は脱出しようとドアを押したり引いたり蹴飛ばしたりしたけれど、ドアはびくともしなかった。魔法を撃とうにも、部屋が狭すぎて自分がただでは済まなさそうだった。無力だった。同じ無力感を生前にも味わったことがある。だから、こんなことを思い出すのかもしれない。
僕は中学校からアーチェリー部の選手として活躍していた。大会に出れば賞状やトロフィーを持ち帰らないことはなかったし、ちいさな取り上げ方ではあったけど専門の雑誌に何度かインタビューされるくらいだった。高校もその実績を買われて推薦で進学した。もちろん所属したのはアーチェリー部だった。強豪校だった。僕は周囲のレベルの高さに圧倒された。特に成長期の一年差や二年差は凄まじく、二年生や三年生の技術の高さに僕は心を折られた。今思えばひどく馬鹿らしいことだったけど、僕はそれだけ弓に自信と誇りを持っていた。真面目に練習しても一年生の中でさえ抜きんでるほどでもなく、大会への出場枠を分厚い選手層の中で勝ち取らなければいけないプレッシャーが常に僕には付きまとっていた。そう思うと同年代の中でもさらに成績が落ち込み始めた。完全にスランプだったと思う。
その時の僕を見たら、きっと中学校の僕は笑っただろう。やめたくて仕方がないときもあった。
だけど、僕は弓を置くことはしなかった。
僕には好きな人がいた。アーチェリーの練習場からいつも聞こえるサクソフォンの音色。吹奏楽部に所属するその女の子は後で知ったけど先輩だった。病気がもとで一年ダブったらしい。彼女は僕とおんなじクラスでしかも隣の席だった。
「ねえ、最強の武器って何だと思う?」
スマホの画面を見つめながら突然そう聞いてきた。どうやらゲームをしているみたいだった。
「あちゃーノーマルかぁ、もっかい引こ」と彼女がこぼす。
「えーと……」
「残念!ぶっぶーはずれ。正解はね。がっ――」
「楽器、かな?」
「……きみさあ。アーチェリー部じゃんか。プライドないわけですか?そうですか?
弓は戦争の歴史を変えたんだよ。銃が登場しても現役だったんだよ」
「はいはい。言わんとしていたことを先に言われたからって怒らないでくださいね先輩」
「あー!私がダブったこと馬鹿にしてるでしょ」
「馬鹿にしてないですよ先輩」
「きぃー悔しい。ストレス発散でドカ食いしてやる。体重を増やして増やして教室を暑苦しくしてやる。きみの大切な勉強の時間から快適さを奪い去ってやるんだ!」
「なら僕は弓で大学行くんで」
「なんでよぉ~太り損じゃないの~」
「多少太った方がいいと思う。今の身体じゃまた病気するよ」
「あ!!嘘!! SSRきたぁ!……ごめん、なんだっけ?」
「何でもない」
折角の気遣いがスマホゲームに掻き消えた僕は、その時ちょっとだけ不機嫌になった。
彼女はやせっぱちで線の細い体をしていたけれど、校舎からかなり離れたアーチェリー場までサクソフォンの音色を届けるくらいにパワフルだった。そのことを褒めたとき「金管楽器とはそういうものだよ。ちみぃ」と言いながら照れていた。
恥ずかしくて本人には決して言えなかった。僕がどんなに辛くてもアーチェリーを止めなかったのは彼女のサクソフォンを聞くためだった。途切れ途切れで、つっかえながら、けれど時間が経つにつれて滑らかになっていくそのメロディが、どんなに優れたプレイヤーの演奏よりも僕の心に沁みた。今は苦しいけれど、いつか僕を取り戻せる。僕は僕を越えて行ける。そう信じさせてくれる音楽だった。
僕が最強の武器は楽器だと思ったのはそんな経緯からだった。アーチェリー場は僕にとって紛れもない戦場だった。そこで戦うとき僕は自分が握る弓よりも、彼女のサクソフォンの音色の方がずっと頼もしかった。
些細なことだったけれど僕はだから諦めずに済んだ。部活は中学とは違って泥をすするような毎日だった。練習は楽しかった。しかし、結果には結ばなかった。
転機は2年生からだった。三年の引退に加えて僕は技術を伸ばして顧問の先生も僕を評価してくれるようになった。一年生から団体レギュラーに食い込む選手もいる中で、僕は時間がかかってしまったけれどついに大会に出させてもらえることになった。僕は順調に勝ち進んだ。期待を越えた結果を目指した。
それが生前の僕の絶頂期。
実のところ、僕はこの世界に転生する前にも一度死んでいる。これは比喩だ。命を落としたわけではない。だけど、面白いことに原因は交通事故で、しかも相手は居眠り運転のトラックだった。
インターハイへの切符を手に入れた直後、僕は大けがをした。大会どころか選手生命の終わりだった。二回もトラックに轢かれるなんて笑えるけれど、別に道路の真ん中で両手を広げて危険なミュージックビデオごっこをしていたわけじゃない。単に不幸に愛されていただけだ。
彼女は僕の病院に来た。お見舞いじゃない。トラックの運転手は彼女の父だった。
彼女は僕に泣いて謝った。僕は彼女に対して僕自身さえ、思い出したくないようなひどい言葉を何度も浴びせたと思う。思うっていうのは僕はこの時の記憶が実はあんまり思い出せない。とにかく思い出したくなかった。
怪我が治った僕は、学校をやめた。親とも関係がこじれた。ある日ケンカして、家を飛び出した。その日僕はこの世界に生まれ変わった。
「寝てたんだ……」
僕は瞼をこすった。洞窟の小部屋は相変わらず暗い。目をこすった指が濡れている。昔のことを思い出したせいだった。謝りたい。彼女のことは唯一の心残りだった。
だけど、今僕には新しい人生がある。益体ないことを考えるよりも現状の危機を脱するための策を講じなければいけない。僕は周囲に何かないか探ってみることにした。
正方形の部屋は僕がやっと寝転がれる程度の広さで天井は結構高めだった。物らしいものはなく岩の扉の下に小さな隙間がある。もしかしたらここから食事を入れるのかもしれないし、これはただの飾りで一日と待たずに僕を殺すのかもしれない。天井の方になにか光が漏れている。おそらく部屋の高い壁に隙間が開いていてこの部屋の外に設えられた松明か灯火の魔法か何かの光がそこから漏れているのだろう。僕は天井を見上げて、その隙間からとりあえず部屋の外の様子を確認しようと思った。
壁をよじ登ろうとして僕は手足が動かず、自分が縛られていることを思い出した。
手足を拘束する縄は木のツタのようなものでできている。原始的な見た目に反してかなり頑丈そうだ。魔法で作られたものだろうか。洞窟のざらついた壁にこすりつけてもささくれる気配がなかった。ならばと僕は思い、小さく呪文をつぶやいて火花を起こして縄にあてた。これ以上強くすると自分がやけどしてしまうので、かなり地道な作業だった。
僕はやっとの思いで両手足を縛るツタを焼き切った。そして壁に手を掛ける。例えばコンクリート壁みたいにツルツルで垂直な壁なら登れなかったかもしれない。しかし、この岩壁は天然の洞窟のもので、ところどころ足や手をかけられる岩が隆起していた。
途中まで上るのは簡単だったが、目的の光が漏れた隙間まで七分目あたりで九十度を超える傾斜に当たった。これはかなりきつい。もしも身体強化の魔法が器用ならすいすい登れてしまうかもしれないが、僕の精度では間違いなく岩を握りつぶす。生身の身体に頼るしかない。両手を岩にかけて全体重を吊る。時々魔法で火花を起こして掴めそうな岩を確認しながら目的地までのコースを調整する。汗が顎の先から首を伝って流れた。一つ一つ確実に、道順を誤ればここまで登ってきた苦労が無駄になる。僕はできるだけ慎重に、しかし、体力の配分も考えて光の漏れた隙間を目指した。これは下りる時も苦労しそうだと思ったが、登り切った時に考えることにした。腕にたまる乳酸が握力を奪ってゆく。おそらく手のひらの皮が少し破れてしまったのだろう。掴んだ岩が焼石のように感じられる。
何度も痛みに耐えて、やっと傾斜の緩やかな場所に手を掛けて一休みする。緩やかと言ってもほぼ垂直に近い。体を吊らなくて済むだけでも随分と負担が減る。僕は呼吸を整えて再び上り始めた。
光が、揺らめいた。もう少しで隙間まで届くというところだった。これは影だ。洞窟の凹凸ばった岩肌に黒い像が光を遮った。部屋の外を何かが移動している。僕をさらった化け物に違いない。僕は恐る恐る下を見た。
岩の扉がこすれながら開く音がする。微弱な振動が壁に伝わる。もしもあの化け物が、今僕がしているような反抗的な態度を目の当たりにしたならどんな風に僕を八つ裂きにするのだろうか。人間ならば身代金やその他もろもろの交渉材料にできる。僕は英雄と王女の子供なのだ。使い道には事欠かないだろう。けれど、魔物の目的など想像もつかない。やがて、岩の扉が完全に開いた。中にそれが入ってくる。
いちか、バチか。どの道なにもしなくても僕は死ぬのだ。発想を転換しよう。これはチャンスだ。びくともしなかった扉が開いているのだ。ならば、可能性の高い方に賭けよう。
僕はそれが入ってくるタイミングを見計らって岩から手を離した。
「――身体強化!」
ごっ。と鈍い音が鳴った。天井からの落下の勢いに魔法の強化をのせて、肘を見舞ったのだ。肘から鋭い痛みが走り、僕は小さく呻いた。衝撃に僕の腕が負けたらしい。僕は動かなくなった腕をもう片方の手で持って部屋の外へ駆けた。背後からうめき声がする。
暗くてよくわからないが部屋の真ん中で小さくなって悶えている影があった。僕は外側から扉を身体で押して閉めた。扉を土の魔法で固める。片手では安定しなかったが、丁寧にやる必要はない。扉が開かなければいい。僕のいた部屋のドアは完全に壁になった。内側から物凄い音がする。部屋の中にいるやつが叩いている。僕は自分が連れてこられた道順を思い返した。ここに来るまで、右に14回左に11回曲がった。分かれ道がたくさんあるかもしれない。しかし、暗くて限られた視野ではあったけれど背後の景色はちゃんと確認している。上手く逃げられるはずだ。随分甘い敵だと僕は思った。
だからかも知れない。僕は少し油断していた。本当はこの場所から一秒でも早く逃げるべきなんだと思う。けれど、僕はその光が気になった。小部屋の天井にも見えた淡い光の正体。最初は松明か何かの明かりだと思ったけれど、近づくにつれて違うものだとわかった。そもそもあの化け物は夜目が効いているようだった。明かりなど必要がないはずだ。連れてこられた方とは逆側の道へまっすぐ進んでから左に曲がる。ちょうど、僕が閉じ込められていた部屋の裏側の方を目指す形になる。
端的に言ってそれは何かの儀式だと思う。ただ何の儀式かは皆目見当がつかない。父がこの場を見れば的確な分析をしてくれるのかもしれないが、僕にはよくわからなかった。
光の正体は魔法陣だった。周囲を結界に守られていて、直接触れられない。しかし、僕には、いや、僕だからこそさらに興味を引くものがあった。先端が輪っかの形に結ばれた、縄。けれど、その縄は黄色と黒の縞模様だった。ホームセンターで売っている合成樹脂製のトラロープ。ここは日本じゃないし、地球でもない。なぜこんなものがここにあるのか。僕には予想さえも立たなかった。
突然、振動とともに背後で大きな音がした。岩が砕かれ、ぱらぱらと破片が地面にこぼれる音だ。それは僕の油断が招いた当然の帰結だった。化け物を閉じ込めた部屋のドアがぶち抜かれた。そう想像するのに時間はかからなかった。今、出口を目指せば鉢合わせする。僕は洞窟の更に奥へ逃げることを余儀なくされた。
僕は必死で走った。激しく体を動かすと折れた腕がずきずきと痛んだが、追いつかれれば痛いどころではない。時々、炎の魔法で行く先を確認する。灯火の魔法などの戦闘向きじゃない魔法も真面目に修練しておくべきだったと僕は少し後悔した。
背後から物凄い雄たけびが聞こえる。何かを喚き散らしているみたいだったが洞窟の壁に乱響してその声が何を訴えているのかはわからない。そもそも魔物の言葉なんてはっきりと聞いたところで意味は理解できないし、意味などないのかもしれない。その時、僕は足がもつれて転んだ。折れた方の腕を庇うようにして受身を取る。膝が擦り剝ける鋭い痛みを感じた。
「はあ、はあ」
息も切れかかっている。だが、立ち上がらなければ。僕は再び足に力を入れる。その時、僕の前髪が風でくすぐられ、汗で濡れた額が冷たさを感じた。空気が流れている。出口とは思えない。だけど、少なくともこの先に何か広い空間がある。ある程度の空間が確保できれば、洞窟の狭さを気にせず破壊力のある魔法で迎撃するという選択が取れる。僕は急いだ。
「なんだよ……これ……」
僕は唖然とした。確かにそこに広い部屋があった。魔法陣で埋め尽くされた部屋だった。魔法陣はさっき見つけたものと同じもので、ゆうに10個は超えている。僕はその部屋を歩きまわって魔法陣を一つ一つ覗いた。どれも結界が張られていて触ることができない。そして驚くべきことにそのどれにもこの世界のものではないものが供えられていた。何かの瓶、植木鉢、鉄パイプやドライバー、あれは灰皿だろうか。どれも僕が生まれたこの世界では売られていないし作られてもいないはずだ。いったいこの魔法陣は何なのか。何のためにここにあるのか。僕は頭が痛くなったが、それを見たとき僕は一つの共通点に思い至った。
「……銃?」
銀色のボディが魔法陣の淡い光にきらめいていた。オートマチック式の拳銃。そうか、これらの魔法陣の供物は全て、人を殺せるものだ。他の魔法陣も確認してみると、キッチンナイフやポリタンクまで見つかった。小さなくまのぬいぐるみやへこんだ楽器ケースなど、いくつか共通項に漏れるようなものも見つかったが、これらはおおむね武器になるものばかりだった。これではまるで凶器の博物館だった。しかし、一体なぜ。
僕の悪い癖だった。僕は今、死の瀬戸際にいるのだ。能天気に調査をしてそれに気が付かないなど。一度死んだせいで、命の重さがわからなくなっているのかもしれない。
――二つ赤い目と低い唸り声。僕を睨みつける赤い目が洞窟の奥の暗闇から、魔法陣の光の中にその全身を現した。追われていたのとは逆の方向、つまり僕の進んでいた先から現れた化け物が意味することはつまり、化け物は単独ではなかったということだ。洞窟の規模からいってそんなことは簡単に想像できたはずだが、拉致されてから今の今までそんな冷静さを保ってなどいられなかった。
赤い瞳の大きな獣は僕を見下ろすように詰め寄る。僕は後ずさる。背中に結界がぶつかる。魔法陣の中の銃やナイフなんかが使えたらなと思った。しかし、それらは結界に囲まれて触れられない。ないものねだりだった。
絶望が呼吸している。殺意が鼓動している。僕は荒い息を吐くその化け物を見上げてそう思った。化け物は両腕を思い切り振りかぶり地面に叩きつける。吠える。洞窟全体が揺れているみたいだった。叩きつけた腕をそのままに化け物は四つん這いの格好でその顔を僕の顔にぐっと近づけた。鼻息が僕の前髪を揺らす。
「ニ゛……ノ゛……ィ……ヤ゛……グ……」
は?喋った。この化け物は一体何を言って――
化け物の顔が吹き飛んだ。文字通り、跡形もなく。大賢者の炎の魔法だった。
「アルバ!無事か!……」
そのまま父に抱かれて僕は魔法陣の部屋から連れ出された。来た道をぐんぐん戻る。
「ニ゛ドビャアアアアグゥゥゥゥゥウゥゥウッゥ」
僕と父の背後から巨大な咆哮が響いた。まだ生きている。父の魔法を受けて。僕はにわかに信じられなかった。父は息を切らせながら、あれは生命力に最も長じた魔族の一種であるトロールだと教えてくれた。
それから何度か身の毛もよだつような雄たけびを何度も背後に聞いたが、追っ手はなく、僕たちはついには洞窟の外に出た。
「洞窟をふさぐぞ! アルバ。手伝ってくれ」
「わかった。父さん」
僕たちはその洞窟の入り口を謎を残したままに爆撃で塞いだ。
僕はその場にへたり込んだ。父の顔を見ると大きなあざができていた。額からの出血も見られる。父は黙って僕を抱きしめた。僕はその時、自分が生きている奇跡を実感した。
3
トロールは一体だった。僕が閉じ込められた小部屋に入ってきたのはトロールではなく、なんと父だった。父は僕を助けるために洞窟に来たのだった。重力の勢いに身体強化をのせた肘打ちを受けてあざ程度で済んだのは父の魔法防御が働いたためだった。生身であの勢いを人間が受けていたら首の骨が折れていたかもしれない。危うく僕は大好きな父を自分の手で殺すところだった。それを謝ると父は黙って僕の頭を撫でたあと、強くなれと言って手を離した。僕は叱るとも許すとも取れないそれに戸惑った。が、もう一度ごめんなさいと言った。父はもう何も言わなかった。
家に帰ると母が王国の兵士と何かを話していた。玄関先で大きな言い合いをしたあと顔に手を当てて泣き崩れた。僕は母に心配をさせたんだと思った。当然だ、自分の息子が魔族にさらわれて平気な親はどうかしている。僕は母の元に駆け寄った。
「ごめんなさい」
僕の顔を見た母ははっと表情を明るくしたが、すぐに顔をくしゃくしゃにした。そして母は僕を強く抱きしめて泣き続けた。僕は大丈夫だよと言ったけれど、母は泣き続けた。そして最後に母は、守ってあげられなくてごめんねと僕に謝った。
……
あの時と同じ表情だった。母は僕の隣でずっと涙を流し続けた。父の葬儀は国を挙げて行われた。王都に父との別れを惜しむ人々が押し寄せ、波を打った。たくさんの兵士が父の棺を担ぎ上げ英雄の墳墓へと長い長い列を作る。葬儀の間、父を悼む火の魔法の弔砲と参列者たちの悲痛な叫び声が鳴りやむことはなかった。死者の魂を送るための紙の気球がいくつも空を埋め尽くした。それらは赤い点になって、まだ太陽の明るい空に星座を描いた。
トロールは一体だった。あの時までは。数日後10体を越える数のトロールが突然現れて王都を襲った。ただのトロールではなく恐ろしい強さのトロールだった。一体を殺すのに正規軍の半分が死傷した。ギルドにも緊急招集がかけられ、父もこれに対処することになった。結果、父は残り一体のトロールを残してこと切れた。最後のトロールを殺したのは僕だった。
「母さん」
「アルバ……」
「どうして、どうして父さんは死ななきゃいけなかったのかな」
なぜトロールが王都なんかに……。
母は何も答えなかった。そして僕の手を強く握りしめた。手の中に硬い感触がある。僕に握らせたものは鍵だった。
「戦争はね。終わってないの」
「え?」
「私たちは、魔族を相手にまだ戦争し続けてる。そして今の今まで数えるほどしか勝ててないの」
「嘘だよ。だって父さんは……大賢者だって……戦争を終わらせた英雄だって……」
「そうなるはずだった。彼は最初の一人なの」
僕は父の死で母の頭がおかしくなったのかと思った。僕は母の話が信じられなかった。
「嘘だ!!」
「黙っていてごめんなさい……最低な母親よね……」
「どうして、こんな時に冗談なんていうんだよ。母さん」
母はそれ以上何も口にしなかった。葬儀もよそに席を立つとついてらっしゃいと一言だけ僕に言ってその場をあとにした。
母と僕はいま自宅の邸宅の地下室の前に立っている。僕が生まれ育った家の中で十余年もの間一度も入ったことがない領域、父の魔術工房だと思っていた場所だった。
「アルバ。その鍵であなたが開けなさい」
母は母じゃないみたいだった。厳かで、僕がどんな粗相をしてもこんな様子にはなるまいと思うほど緊張に充ちた雰囲気だった。僕は言われるままに鍵を指した。回す、静かにドアを開けた。
なんだ、これは。僕は衝撃で凍り付いて動けなかった。
「魔族はね。圧倒的に強かったの。私たちの誰も勝てず、国は疲弊し、軍は縮小化し、ギルドという傭兵団を設立せざるを得なくなった」
僕の隣で母が続ける。
「魔族の強さの秘密はある儀式にあったの。聖遺物を用いた降霊術」
聖遺物?あれが?
「私たちは彼らに倣って同様の儀式を完成させた。お腹の中の胎児に異次元の世界の戦士の魂を降ろすの。そうして生まれた子供は私たちとは比べ物にならないほど格別の強さを持った英雄になった」
クレイオもそのうちの一人。母は言った。とても悲痛な声音だった。僕はどうでもよかった。
「この部屋にあるのは、国中の転生を司る魔法陣なの。クレイオもここの儀式で魂を宿した一人……」
僕の目の前には魔法陣があった。結界で守られた、あの魔法陣が。一つだけではない。たくさんある。部屋を埋め尽くすほどの数だった。洞窟のあの部屋と比べ物にならない数だった。他にも違いと言えば供えられているもののバリエーションが少なく、いくつか同じ種類のものを含むグループがあることだった。
そして、僕は思った。直接か間接かはわからないけれど、供物は死の原因だ。
――例えば、自動車のナンバープレート。【品川300】……【ろxx‐xx】。その前のトラックは覚えていない。思い出したくなかったから。でも、多分ここにはない。
「そして、あなたもよ。あなたは英雄として魔族と戦うためにうま――」
「そんなの知ってるよ!!」
母は豆鉄砲を食らったような顔をして僕を見つめた。父と僕とは違う。それは、父は成功して僕は失敗したからだ。記憶を引き継いでるのはエラーなのかもしれない。でも、そんなことはどうでもいい。僕が知りたいのはそんなことじゃない。
「母さん。僕は……いや、僕の前に……何人……」
母は泣いた。僕が母に聞いたのは流産の回数だった。悪い偶然なんだと思いたかった。母は一人だけよと答えた。母は泣き続けた。つらい過去だったのだろうか。でも、僕は同情しなかった。僕は不幸に愛されていた。
僕は母を置いて部屋を後にした。
父の書斎で魔導書を読む僕の頭の中にいろいろなものが行ったり来たりした。
この世界での思い出ではなく、生まれる前の記憶だった。アーチェリー。サクソフォンの音色。彼女の声。
「二宮くん。インターハイおめでとうだね。私のサックスのお陰だね」
「断じてないね。臥薪嘗胆の想いで続けた不断の努力が結実したの」
「むぅ。難しい言葉を使ってダブりをいじめるなあー!」
「今のは僕、一言もダブりについて煽ってないよね?」
「精神性が問題なのです」
「昨今流行りのなんでもハラスメントにする世間の傾向への苦言として有用な言い回しだねそれ」
「むぅ。難しい言葉を使ってダブりをいじめるなあー!」
「えぇ今のも!?」
彼女はにやにやと笑っていた。誘われるままに僕はツッコミをしてしまったようだ。
悔しい。ビクンッビクンッ。
「何してるの?」
「ちょっと感度が3000倍にね」
「マイクなの?」
「そういうきみは無垢な吹奏楽部員なんだね。良かった」
「二宮くん。話、戻すけどさ。私はアーチェリー場に向けてサックス吹いてたよ。前に二宮くんが力強い音だって言ってくれてから。ずっと。
今日も二宮くんに届いたらいいなと思ってさ」
「そう、なんだ」
「赤くなってるぅ~ちょろいな~二宮くんは」
二宮くん。
二宮くん。二宮くん。二宮くん。二宮くん。二宮くん。
――にのみやくん。
ニノミヤクン。
ニ゛……ノ゛……ィ……ヤ゛……グ……
いかがでしたか?