事件
藤原摂関家は絶大な力を持っていた。
むかしは、である。
いわゆる摂関政治の時代には、帝が幼い時にその仕事を代行する『摂政』と、帝の相談役として政治を陰から動かす『関白』という二つの重要な役職を独占して国を思いのままに動かしていたのである。
いまは違う。
形だけは摂政・関白に補されているが、もはや役職自体に力がなくなっていた。
院政がはじまって帝の位がお飾りになったからである。
帝がお飾りなら、その代役も相談役も飾りになるのが道理だ。
それでも前関白忠通のころまでは辛うじて影響力を保っていたが、保元の乱と平治の乱、立て続けに起きた二つの兵乱で立ち回りをあやまり、完全に失墜してしまった。
この家がもっていた莫大な財産も、忠通の長男基実の妻が平家の娘だったために、この基実が急死したときに平家に奪われている。
権威もなく、金もない。
ただ昔から形だけ続いている儀式を遂行するという、面白味のない義務だけはある。
それがいまの摂関家の長、松殿基房の現状であった。
やるせなかったであろう。
そしてこの夏の熱い日も、その義務を果たすために外出していたところ、事件が起きるのである。
基房の乗っている輿の前方から、もう一つ派手な輿がやってきた。
摂政の輿にであったら、輿を降り、頭を下げて、摂政に道を譲るのが慣例である。この前方の輿もそうするであろうと、基房の輿はどんどん進んでいく。
しかし、いつまでもその輿は止まらず、そのまま基房の輿の前まできた。
「どうしたのじゃ」
基房が聞いた。
前方には護衛の武士が視界を遮っているため、輿の中からは状況がよくわからない。
「無礼者が、輿を降りぬのです」
「なに?」
日ごろから鬱憤が溜まっていたせいであろう。
基房は輿に誰が乗っているのか確認することもなく
「許しがたし、輿から引きずり降ろしてやれ」
と、命じてしまった。
武士どもは命令どおりにした。
それが済むと、基房は
「行くぞ」
と、輿を出させた。
自邸に帰ってから、その輿に乗っていたのが平清盛の孫で、重盛の次男、資盛であることを聞いた。
基房の顔から血の気が引いた。
同じころ重盛も自分の義務を果たしていた。
摂関家とは反対に平家は栄えている。
世に並ぶものはないほどであった。
金もある。
広大な知行国から税として送られてくる金があり、異国との貿易で蓄えた金がある。
ここまで違う家の両当主だが、多忙であったことと、その顔色がくもっていることは共通していた。
「重盛さま、休まれてはいかがです」
家来の忠清いった。
そう言わずにいられないほど、近ごろの重盛の働き方は異様だった。
賊が出れば、すぐさま討伐軍を編成して送り出す。
朝廷の議定があれば、大納言という重大な役割をもって参加する。
父から呼び出されれば、福原に駆けつけて命令を聞く。
上皇の機嫌うかがいに月に何回も通う。
近ごろ増えた家臣間の対立を調整する。
広大な所領の管理もする。
朝廷において恥をかかないようにと、有職故実を学ぶことにも余念がない。
だから彼の一日は、夜が明ける前に働きはじめ、そのまま働きとおし、夜が更けきってから寝る、という状態だった。
そのせいか、近ごろ重盛の体調はすぐれない。
忠清の見たところ、体の疲れだけが原因ではないようだったが、それでも体だけでも休むにこしたことはない。
しかし、重盛の答えはいつも次のようなもので、今回もそうだった。
「いや、休んでいる時間はない」
事実、そうではあった。
ついさきほども、山陽地方に現れた海賊を追討せよという命令を受けたばかりだった。
すぐに討伐の用意をしなければならない。
一軍を任せられる一族、家臣がいるおかげで自身が出征しなくてよいことだけが救いだ。
もっとも、必要な人数や物資を手配するのは重盛の仕事で、それも一日や二日で終わる仕事ではない。
そしてそれが終わるころには次の仕事がやってくる。
重盛が休む時間などない。
そんな重盛が六波羅邸に帰ると、なぜか騒がしかった。
許しがたし、すぐ報復せよ、などという不穏な言葉も聞こえた。
「どうしたのだ」
家来に聞いてみても、みな興奮してしまっていて要領をえない。
仕方なく奥に進んでみると、次男の資盛が青あざができた顔でやってきた。
合戦にでも行ってきたのかという有様であった。
「どうしたのだ」
驚いて聞いてみると資盛は何があったのか語りだした。
齢九つの少年の話だからわかりにくかったが、何があったかは伝わった。
要約すると、道中で摂政基房の輿と行きあい、そのときに基房の家来たちに無理やり輿を下ろされ、乱暴を加えられたのだという。
よほど怖かったのだろう。
その恐怖を涙とともに語った。
いつのまにか集まってきた家来たちも感情的になって、いますぐ基房に報復しましょう、と騒ぎたてている。
しかし、そこは重盛であった。
彼は屋敷の雰囲気に呑まれることなく、冷静に次男の話を聞くことができた。
そういう彼の判断は
「こちらに非がある」
というものであった。
「なぜでございます!」
興奮した家臣が詰問するように言った。
重盛はゆっくりうなずいて答える。
「摂政の輿と会えば降りて頭を下げねばならん。それをしなかったのだから、当然こちらに非がある」
重盛が落ち着き払っていたものだから、この家臣もすこしは冷静になったのだろう。
すこし声の調子を落とし、しかしまだ不満そうに言った。
「しかし、資盛さまは武門の子、その方がこんな辱めを受けて黙っていれば、武門の名が折れるというものではございませんか」
「その武門の非礼を許さず、勇気をもって処置した基房殿こそ国の宝と申すべき人だ。その方に危害を加えれば、国の守護者たる武門の名を自ら折ることになろう」
家臣はまだ不満そうであった。
しかし、重盛に反論するような言葉をもたなかったために、それ以上は反論しなかった。
「重盛様、基房殿から遣いが参っております。『事件で実際に手を加えたものを引き渡す』と申しておりますが」
「それには及び申さぬ、とお答えせよ。逆にこちらからお詫び申し上げねばならんことだ」
小松邸はこれで収まった。
重盛は安堵した。
その隙をつくようにして疲れが出てきた。
「忠清、今日はもう寝る」
「それがようございましょう」
そしてこの日は太陽が沈む前に眠った。
しかし、事件はこれでは終わらなかった。事件のことを福原で聞いた男がいた。
彼はその報せを聞くと、ニヤリと笑ってつぶやいた。
「よい潮だ。使わん手はあるまい」
この男がそうつぶやいてから一日もしないうちに、何人かの武士が洛中に入った。
彼らは基房が外出するときを狙って襲い、供の者を馬から引きずり下ろし、髻を切り落とすという挙におよんだ。
下手人は現場から逃走して証拠も残さなかったが、前後の関係からいって、もっとも可能性が高いのは平家である。
京の人々は重盛の仕業であるとささやき合い、朝廷でもそのように信じこむ者が多かった。
「平家でも重盛殿ばかりは、良識のある御仁と思っていたが」
「所詮は武士ということか」
「非礼を咎められたのを逆恨みして報復するなど、あってよいことであろうか」
そんな陰口が、あちこちでささやかれるようになった。
そして重盛報復説を信じたのは公家だけではなかった。
あろうことか小松邸の者までもが信じたのである。
「重盛様、お見事にございます」
郎党の一人からそう言われたとき、重盛は何のことかわからなかった。
問いただしてみると、基房が参内する途中で襲われたのであるという。
しかも、その下手人は重盛の配下のものであるという。
この郎党は噂の内容と公家が震えあがっている様子を面白おかしく重盛に教えると、笑いながら言った。
「果断なる処置、清盛様も喜んでおいででしょう」
それで重盛は真の下手人を察した。
その意図も理解することができた。
それは自分の判断を否定されたことと同義であった。
このあと、しばらくして重盛は病に臥せった。
権大納言の任を務めることもできなくなり、その職も辞した。
医者が言うには、心労が原因ということだった。