開始
頼政は落ち着いている。
「仲綱、お相手せい」
と嫡男に手元の三十騎をあずけ、自分は猪早太だけをそばに置いて、床几に座っていた。
仲綱は勇躍して忠清を迎え撃つ。
このとき仲綱の心は晴れ晴れとしていた。
(やはり、父は卑怯者ではなかった!)
それがわかったからだ。
平治の乱から二十年、彼の心を痛めつけていた『平家の犬』という誹謗中傷は、まったくの出鱈目であることがわかったからだ。
仲綱は今の自分達の姿を、特に父の姿を天下万民に見せてやりたかった。
『飼い主』と戦い、こうまで泰然自若としているではないか。
しかもその勢は平家勢の三分の一であるにも関わらず、押してさえいるではないか。
仲綱の率いる三十騎と、忠清の率いる三十騎が衝突した。
この三十騎の中には、かつて保元の乱の直前、叔父義朝に殺されそうになったのを頼政によって助けられた仲家の姿もある。
彼も兼綱がそうであるように、この戦を報恩の好機として奮戦した。
頼政は落ち着いている。
冷静に戦場を見渡し、これまでと結論した。
いくら奮戦していると言っても、平家勢もまた精鋭であり、しかも数において三倍の差がある。
対岸で戦っている者たちに疲れが見えはじめた。
一騎、また一騎と討たれていっているのが頼政からも見える。
忠清勢と仲綱勢の戦いは互角に見えるが、それも対岸の戦いに負ければ、それまでだ。
頼政は東の空を見た。
ポツポツと小さい雲が見える。
「これくらいでよかろう」
傍らの立つ猪早太に言って、床几を立った。
「よろしいので?」
問いにうなずいて、もう一度、東の空を見る。
心なしか雲が大きくなったように見えた。
早太が鏑矢をつがえて、空に放った。
退却の合図である。
渡辺省はすぐに頼政の意を察した。
「引かれよ」
と園城寺からついてきた荒法師の首領格にうながし、自分は殿を引きうけて、引いていく味方とは逆に血刀を振るって前進した。
追いすがってくる息子の競も
「お前は頼政様のもとへ急げ!」
と突き放して、なお進む。
平家勢はそれを無視できず、省にかかりきりになった。
その隙に頼政勢は引いていく。
「父上! 父上!」
父とともに踏み留まろうとする競を引きずるようにして退却させたのは兼綱だ。
彼はこの敗戦を十分に予想していた。
それゆえに無理をしてでも敵の大将を討ち、一気に勝ちを決めようとしたのだ。
しかし、もう兼綱は考えを切り替えている。
彼は橋を渡りきると競に言った。
「義父上は死ぬつもりだ、お止めせよ」
そう言いつつ、自分は押し寄せる平家勢の中に突っ込んでいった。
競も一度、橋を渡ろうとして立ち止まり、それから頼政のもとに走っていった。
仲綱と忠清の戦いは続いている。
双方、一騎、また一騎と討たれていき、手負いでない者はない。
「園城寺の方々が引き退くまではこらえよ! 法師殿よりも先に引いたとあっては源氏武者の名折れぞ!」
仲綱は味方を励ましつつ、また敵を倒した。
そこへ仲家が馬をよせる。
彼の鎧は返り血で赤黒く染まっていた。
「義兄上、園城寺の方々は落ちられたようです。殿は私に任せ、はやく義父上のもとへ」
引き留める暇もない。
仲家はそれだけ言い残すと平家勢の中に突っ込んでしまった。
仲綱は唇を強く噛み、それから言った。
「引くぞ!」
それに従った者は、もう十騎もいない。
「ご苦労であった」
競が膝をつくと、頼政はまず言った。
敗軍の将のそれとは思えないほど平静な声だった。
競は気を飲まれそうになったが、すぐに自分をはげまして言った。
「平家勢がすぐに追って参ります、いますぐに興福寺へ落ちましょう」
頼政は首を横にふった。
「この戦の目的は、天下に『源氏強し』ということを示すことにある。わしが逃げれば、みなの奮戦が無駄になろう」
競は反論した。
「父上や兼綱殿は頼政様を死なせてはならんと言って、戦場に踏み留まりました。その気持ちを無になさるつもりですか!」
頼政の顔に影がさした。
しかし答えは相変わらず、否、であった。
「わしは省や兼綱のために戦ったのではない。それは二人もわかっていよう」
競は、なお反論しようとした。
傍らから猪早太が口を出す。
「平等院まで引きましょう。そこで……」
彼はそこから先の言葉をにごしたが、この場にいる全員がその意味するところを知っているようだった。
頼政がゆっくりうなずく。
そしてそこへ合流した仲綱と、その手勢を加えて平等院へとむかった。
その道中も平家勢の攻撃を受けるたびに一騎、また一騎と立ち止まり、時間を稼ぐ。平等院に着いたときには、彼らは五人になっていた。
頼政、仲綱、早太、唱、競の五人である。
「みな、今までよく仕えてくれた」
平等院の庭に腰を下ろすと、頼政が言った。
「お気持ちは変わらないのですか?」
「変わらぬ」
競の言葉に答え、鎧を脱ぎはじめる。
横で仲綱もそれにならった。
唱が頼政の、早太が仲綱の背後に立った。
「競、お前はどうする?」
頼政が言った。
競は目を閉じて、すこし考えたあと答えた。
「お供仕ります」
ニコリと笑って頼政が言う。
「心強いことだ」
そしてふり返り
「唱、早太、我らの首を渡すでないぞ」
そう言って、短刀を自分の喉に突き刺した。
しばらくしてガチャガチャと騒がしい音が平等院に入ってきた。
忠清と麾下の武者たちだ。
三十騎はいたが、誰を見ても血を浴びていない者はおらず、一様に疲れきっていた。
「敵が潜んでいるやもしれん、慎重に進め」
忠清から指示が飛ぶ。
それにうなずきを返して、彼らは進んだ。
不意に、先頭の者が立ち止まる。
「どうした?」
「死体がございます」
「まことか?」
見てみると、なるほど死体だ。
それも首がないのが三つ転がっている。
一つは老齢の男、一つは壮年の男、最期の一つは若い男のものとわかった。
(頼政殿と仲綱殿であろう)
忠清はそう直感して、なお徹底的に調べるように命じた。
しかし、忠清の直感を証拠立てるものは何一つ出てこなかった。
郎党が持ち去ったのだろう。
そして死んだ証拠がない以上、頼政親子生存という風聞は、これからの平家を大いに悩ますことになろうと思われた。
「……お見事」
そう呟いて、忠清は平等院を後にした。
彼の仕事は頼政を殺すだけではない。
逃げた以仁王を追い、誅殺しなければならない。
といっても、それから以仁王を討つのには、それほど苦労を要さなかった。
疲れ果てて馬から降りて休憩しているところに忠清は追いつき、これを討った。
以仁王の挙兵と言われる事件は終わった。
しかしこの事件は、この後に起こる日本史上、空前の大乱の幕開けにすぎなかった。
まず、京では日本国の最上権威者、後白河法皇が平家政権を白眼視して策動している。
遠く信濃の国では仲家の弟義仲が刀を研いでいる。
甲斐の国では甲斐源氏の棟梁、武田信義が反平家勢力を糾合しはじめた。
奥州においても藤原秀衡が十七万騎と称する大軍、平泉の黄金の都、そして源義朝の忘れ形見、九郎義経を擁して、平家の屋台骨が揺らいできているのをジッと観察している。
熊野では義朝の弟、十郎行家も気勢をあげている。
平家の勢力圏であるはずの西国においても、伊予の国において河野通清が、肥後の国において菊池隆直が兵を挙げる。
そして何より、頼政が知行していた伊豆の国において。
「佐殿、いまをおいて他はありますまい」
「平家を倒すのは、やはり源氏の嫡流、河内源氏の後継者たる佐殿しかおられますまい」
佐殿と呼ばれるその男は齢三十を越え、武士として、また将として円熟期を迎えている。
「佐殿! ご決断を!」
彼の周囲にいるのは関東各地に住む地方武士たちだ。
伊豆の北条時政、相模の三浦義澄、房総の千葉常胤、上総広常などだ。
そして彼らの正面では、膨大な量の兵糧や武具を携えて、源頼政の孫有綱が頭を下げている。これらの物は、頼政がこの日に備えて倹約し、貯えてきたものであった。
「祖父の遺志を無駄にするおつもりか!」
彼――源頼朝は平治の乱以降、二十年近くに渡ってしまっていた刀を抜いて言った。
「時は来た」
この瞬間から日本全土に嵐が吹き荒れる。
次回で最終話です。




