勝者
『皇』というものは不思議だ。
ほとんどの場合『皇』はご自身で何かをなさるわけではない。だが『皇』になれば、それだけで最も尊いということが動かしえない真実になる、ということをとっても不思議だ。
どのくらい尊いかというと『皇』の名誉を傷つけるようなことを言った者は、たちどころに朝敵と呼ばれ、日本全国の人間によって滅ぼされてしまうというのだから、なおのこと不思議である。
では、なぜ尊いのかと問うても
「昔からそうだから」
という以外に、おそらく同時代の誰にも説明できなかったに違いない。
それでもやはり「なら偉くないじゃないか」などと言う人間がいたら、彼は日本に住むすべての人間に滅ぼされてしまうのだ。
不思議というしかない。
しかし、そこに理由はなくとも、利益はあった。
国の利益という視点で見たとき『皇』は必要不可欠なものだった。
第一に、臣下が国の害になる行動はできなくなる。
なぜなら、この国で最も尊い『皇』は、この国が豊かに存在する限り安全で、豊かでいられるのだ。
言ってしまえば『皇』は国と利害を共有している。
そういう『皇』が嫌うのは、つねに国の害になる者のはずだ。
『皇』に嫌われては生きていけないので、臣下は国の害になることはできなくなる。
よしんばしようとしても『皇』の害に、つまり国の害になると判断された者は周囲から圧殺されてしまう。
第二に、臣下が国のためになろうとするようになる。
『皇』は国のためになる者を好む。
ゆえに国のためになる者が出世する。
出世すればそれだけ豊かにもなり、権力も強くなるのだから、臣下はなおのこと国のためになろうとするだろう。
『皇』が『皇』として存在すれば、自然とそういう構造ができる。
これは国にとって、莫大な利益だろう。
そしていま信頼が頼ろうとしている後白河上皇という方は、こういう『皇』の仕事をよく知っている方だった。
『皇』の仕事とはつまり、存在すること、国のためになる者を愛して引き立てること、国の害になる者を排斥すること。
この三つである。
「上皇様! 上皇様はどこにおられる!」
信頼は自分を押し止めようとする僧侶たちを押しのけつつ叫んだ。
別の安全な場所に移っているかもしれないとは思っても、そうせずにはいられなかった。
この時代の公家で藤原信頼という男ほど、公家政権の限界を感じ取っていた者はいない。のちの結果から見ても、この点に関しては信西より彼の方が先を行っていたと言っていい。
公家に染みついた自己中心主義、凝り固まった前例主義、増え続ける荘園、弱まる地方への統制、その地方で勃興する武士の実力。
26歳と若く低い家柄に生まれた彼は、公家でありながらそれらを客観視することができた。
義朝や清盛と親交を結んでいたのも、このためである。
武士が天下を取るのは避けられない。ならば、それと結び、援助し、育て、彼らが天下を取るのを早めるべきだ。
それこそが天下万民のためであると信じていた。
彼の主である皇家のためでもあると信じていた。
しかし戦に敗れて生命の危機を感じているこのときの彼が、その考えを保てていたかというと、それは疑問である。
「上皇様はどこにおられる!」
何度目かの呼びかけに答える声があった。
「信頼か、これへ参れ」
平静な声だったが、喧騒の中にあって不思議なほどはっきり聞こえた。
本堂の方からだ。
信頼は声のもとに向かった。
「負けたようだな」
目が合うと、上皇はまず言った。
寺中が地獄の窯の底のように騒がしい中、この方は本堂に安置された黄金の仏像の前で胡坐をかいて座っていた。
腰を曲げ、膝の上に肘をつけて頬杖をついてる姿は、平素過ごしている院御所にいるかのようにいつも通りだった。
信頼は思わず平伏した。
そんなことをしている暇はないと思いつつも、上皇があまりにもいつも通りの様子だったので癖が出てしまったのだ。
不意に上皇が手に持っていた何かを信頼にむけてポンと投げた。
信頼はそれをつかんだ。
甘い匂いがする。
焼き菓子であった。
「食え、うまいぞ」
上皇も同じものを口に運んでいる。
仕方なく、信頼も口に入れた。
そこで外の喧騒が一気に激しくなって重盛が乗り込んできた。
信頼が刀を抜いた。
重盛も信頼に斬りかかろうとした。
しかし、上皇の
「よい」
という一言が両者を押し止めた。
上皇は信頼を見て言った。
「わしを関東に連れていくつもりであろうな」
信頼は答える。
「はっ、何としてもご動座いただきます」
もし拒否すれば脅してでも連れていく。
信頼は刀を向けて、言外にそう言った。
しかし、上皇は突きつけられた白刃を前にして、あくまで平静な声で言った。
「させん」
はっきりした拒否の言葉であった。
信頼は自分がたじろいだのを感じた。
この方から拒否の言葉を聞くのは初めてのことだった。何かを頼むと、この方はいつも「よきにはからえ」と許してしまうのが常だったのだ。
上皇はさらに言う。
「お前がこの国のことを考えていることは、よく知っている。しかし……」
上皇は信頼の刀をもった手を取って、自分から、自分の首元に刀を当てて言った。
「これ以上、わしの国を乱すつもりならば今ここでこの首を掻き切って、お前を朝敵に仕立ててくれるが、どうだ」
刀身の触れている部分から、たらりと一筋、赤い物が垂れた。
ハッタリで言っているのではない。
それは近くで見ている信頼にも、重盛にもわかった。
刀がなければ舌を噛み切るだろう。
信頼が刀を離して膝から崩れ落ちた。
重盛はその様子を腹の底から凍り付いてしまうような気持ちで見ていた。
ちょうど、重盛の郎党が入ってくる。二人、三人と入ってきて、信頼を取り囲んだ。
信頼はもう抵抗しない。
重盛は、はっと我に返って郎党たちに信頼を捕えるように命じた。
「上皇様、ここは危のうございます。ひとまず六波羅へおいでくださりますよう」
そんな重盛の顔をじっと見てから、上皇は言った。
「重盛と申したな」
「はっ」
重盛は平伏する。
その様子を満足げに見てうなずくと
「よきにはからえ」
と、ただそれだけ言った。
上皇が無事に保護されたと聞いて、清盛はひとまず胸を撫で下ろした。
あとは義朝だが、すでに東海、東山、北陸の三道に義朝とその一党を捕えた者には褒美を与える旨を通達している。
さらに平家の郎党を送って、各関所を固める命令も出した。
遠からず義朝は捕えられるであろう。
清盛は勝った。
「父上、上皇様のことですが」
上皇の護送を終えてきた重盛が言った。
内裏から源氏勢を一掃した以上、このまま帝や上皇をこのまま六波羅へいさせるわけにはいかない。その相談だった。
しかし、清盛の答えはそっけない。
「重盛の思うようにせよ」
それだけ言うと、立ち上がってしまった。
「父上、どこへ?」
「すこし休む」
チラリと見えた横顔は、乱を見事に鎮圧した大将軍とは思えないほど寂しげであった。
戦勝を祝う公家が何人もやってきたが、そういう者には一人も会わなかった。




