反動
藤原信頼邸に宴と称して人が集められた。
見るものが見れば、その顔ぶれがずいぶんと偏っていることに気づいただろう。
参加者の公家で、代表的なのは藤原経宗、以下十人近い公家が集まっている。
武士では源義朝を筆頭に、摂津源氏の頼政、美濃源氏の光保、同じく美濃源氏の重成と、京で活動する源氏の者たちが、ほとんど集められていた。
彼らの共通点は信西の『保元新制』に反対している、ということだった。
しかし、一部をのぞいて彼ら自身は自分たちの共通点に気づかず、互いに顔を見合わせては不思議がっていた。
「お集まりいただいたのは他でもない」
参加者が集まったのを確認すると、信頼が言った。
「信西入道を討ち、保元新制を撤回させる計画に協力していただきたい」
彼らしい直接的な言い方に一座は色めき立った。
何の反応もしなかったのは、事前に話を聞いていた義朝くらいだ。
他の者は動揺するばかりだった。
滅多なことを言えば、この中の誰が信西に密告するかわかったものではない。
密告されれば死罪である。
そんな中で一人、声をあげた者がいた。
藤原経宗であった。
「よくぞ申された!」
彼は叫ぶようにそう言うと、信頼の前に進み出て、さらに言った。
「信西入道は保元の乱以来、後白河上皇の寵愛をいいことに政を私して久しい。これを倒し、政を正道に戻すは、まさに壮挙と言うべきもの、この経宗、協力は惜しみませんぞ!」
信頼にとっても、義朝にとっても思わぬ援護であった。
しかし、これで勢いがついた。この勢いに乗じて、場の流れを賛成にもっていくべきだと義朝は判断した。
「経宗殿の申すとおり!」
義朝は立ち上がって言った。
「各々方の荘園から不満の声は聞いておられましょう。このままいけば平将門の乱を超える大規模な反乱が起こるは必至、私は今こそ信西入道を倒すべきかと考えるが、皆さまの考えはいかに」
言い終わると、義朝は一座を見回した。
まだ逡巡の色が見える。
そこに最後の一押しがあった。
「よろしい、兵庫頭頼政、お味方仕る」
それで場の流れは決した。
つぎつぎに味方するという宣言が続いた。
こうして、ついにこの宴に集まったすべての者が計画に加担することを宣言した。
清盛はそんな宴が開かれていることなど露知らず、のんきにも熊野へ参拝する準備をしているところであった。
12月4日、清盛は六波羅を弟たちに任せて京を発った。
京から熊野まで十日の距離だ。
戻ってくるのにも、同じだけの時間を要することだろう。
1159年12月9日の深夜。
藤原信頼を大将とした軍勢が信西の寝起きする院御所を襲撃した。
院御所を襲った信頼勢は、まず上皇の身柄を確保した。
そのとき上皇は
「なるほど、そうか」
とだけ、おっしゃった。
あとで信頼が
「上皇様には、内裏にお移りいただきます」
と言ったときに、やっともう一言
「よきにはからえ」
と言っただけであった。
表情もほとんど平静と変わらない。
輿に乗ったときなど、好きな今様を歌ってすらいた。
上皇が安全なところまで運ばれると、信頼は行動を再開した。
院御所に火をつけたのである。
院御所は瞬く間に灰燼に帰した。
さらに命令が飛ぶ。
「信西がどこに隠れているかわからん! 女子供であろうと逃がすな!」
命令通りに女子供を問わず、数多の者が囚われ、中には殺されるものもあった。
しかし、信西の姿は見つからなかった。
別動隊として信西の邸宅を襲った組も、内裏を包囲した組も、見つけることはできなかった。
「さては信西め、予期しておったか!」
信頼が持っていた太刀を地面に叩きつけた。
「さがせ! 信西入道を逃がしてはならん!」
みな手を尽くして信西をさがした。
翌日には信西の息子たちが次々に捕えられてきた。
しかし、肝心の信西本人の行方はわからなかった。
次から諸事情で更新頻度をすこし落とします。
三日に一度くらいの更新になるかと思いますので、ご了承ください。




