紐帯
「私は器ではない」
重盛が病に臥せってから、宗盛はそればかり言っている。
その通り、器ではない。
勇気もなければ、知恵があるわけでもない。
何をするにも詰めが甘く、どんな決断にも長い時間を必要とする。
ただ、優しくて人がいいことが取り柄といえば取り柄だったが、それは生き馬の目を抜く政界では致命的な欠点になる。
それでも清盛の子は長男重盛が病となれば、次男基盛はすでにこの世にないから、次は三男宗盛というのが順当だ。位階も平家において重盛に次ぐ従二位権中納言にして右近衛大将を兼ねるという地位にある。長幼の順においても、位階においても、宗盛が平家を継ぐのは順当だった。
というより、これだけ条件が揃っているなら跡継ぎにせざるをえなかった。
しかし、困ったことに宗盛は器ではないのである。
平家はそんな宗盛を表に立てて、裏では清盛の意向によって運営されることになった。
清盛はたびたび宗盛に訓戒を垂れた。
「わかっていような。重盛にもしものことがあれば、お前が平家を継ぐのだぞ」
それに対して宗盛は泣きごとを言った。
「私には到底、平家の棟梁は務まりません」
「お前以外に誰がおるというのだ」
「弟の知盛をお立てください。知盛は勇ましく、知恵もある男です。私よりも知盛のほうが棟梁に相応しゅうございます。知盛がダメならば兄上の嫡男維盛を立ててください。私は維盛を支え、盛り立てていくでしょう」
清盛は頭を掻きむしった。
「維盛はまだ二十にもならぬのだぞ! 到底、俺と重盛の……もうよい、下がれ」
「はっ……」
宗盛が見えなくなると、清盛は深くため息をついた。
こういう訓戒に効果があるとは思っていない。
しかし、これ以外にできることもなかった。
宗盛以外を後継者にするのは問題が大きすぎるのだ。
名前の出た維盛は若すぎる。平家という巨大な一族を運営するには、あまりにも経験が足りない。
知盛ならば、とは清盛も思わないではなかったが、この四男は法皇との結びつきが弱すぎる。平家は法皇の権威を守ることを大義名分にして権力を握っているのだ。平家の棟梁は法皇に気に入られていなければならない。
すると、やはり宗盛しかいない。
が、器ではない。
清盛は考え込んだ。
(こうなれば福原への遷都を急ぐしかない)
西光法師の事件で法皇の勢威は落ちた。
この事件によって近臣の巨頭というべき者を失ったからだ。
しかし、その割にこの方はケロリとしていて、相変わらず好きな今様を歌ってばかりいる。
ある日、その法皇が言った。
「重盛を見舞いに行こう」
重盛の住む小松邸は暗い。
主の容体が悪いためだ。
一時は熊野詣に出られるほどに回復したものの、そこで血を吐いて以来、日に日に悪くなる一方だ。
最近は医者も
「お覚悟されておくべきかと」
と、ほとんど望みがないことを平家一門の者に漏らしていた。
平家の方でもそれを覚悟して、重盛抜きの政治体制を整えることに躍起になっている。
そのことに忙しいのか、平家の者は近ごろ誰も小松邸に姿を見せなかった。
重盛自身も仕方ないと思っているのか、不満を口に出すことはなかった。
むしろ、そんな一門に同情しているようで
「平家は大変であろう」
と、ふとしたときに漏らすことがあった。
そんなときに牛車が来た。
「重盛、参ったぞ」
法皇である。
久しぶりの来訪者に重盛の顔がほころんだ。
「これは法皇様」
そう言って起き上がろうとする重盛を制して、この方はおっしゃった。
「悪いようだな」
法皇は枕頭に腰をおろして、重盛の顔をのぞき込んだ。
血色のよかった顔が黒ずみ、頬がこけ、眼窩がくぼんでいる。薄皮と、グロテスクに浮かび上がる血管だけが、重盛の頭蓋骨がさらされるのをかろうじて防いでいた。
「もう長い命ではないかと」
「……そうか」
法皇の顔が上がり、視線が虚空に固定された。
見上げる重盛には、その眼に光るものが浮かんでいるのが見えた。
「わしに頼んでおくことはあるか?」
しばらく黙っていた法皇がおっしゃった。
重盛は答えるのをためらった。
それでも法皇から
「なんでも申せ」
という言葉を受けて、やっと言った。
「無理なこととは存じておりますが、ひと言、平家のことは心配いらぬと、お言葉をいただきとうございます」
法皇は重盛の手を固くにぎって言った。
「何を言う、任せよ。このわしの眼が黒いうちは、平家は安泰ぞ。心配いらぬ」
「……ありがたき、お言葉にございます」
重盛の手から力が抜けていく。
そのうちに、ゆっくりと目が閉じる。
法皇は咄嗟に重盛の口元に手をあてた。
息はある。眠っただけのようだ。
ほっと息を吐いて重盛の家来に言った。
「……重盛は寝たようだ、邪魔をしても悪いゆえ、これで帰るとしよう」
法皇が立ち上がる。
屋敷の者があわてだすが、それも制し
「重盛は無双の忠臣ぞ。ぬしらも主に倣い、最期までよく仕えるように」
そう言い残して小松邸を後にした。
法皇が去ったあと、小松邸はすこしばかり明るさを取り戻した。
「なんと暖かい御方であろう」
「聞いたか、我らが主を無双の忠臣だとおっしゃられたぞ」
「あのような方がおられるうちは、大殿や重盛様が心配なされたようなことは起こるまい」
「うむ、重盛様が目を覚ましたら、さきほどのお言葉をお伝えせねばなるまいな」
口々にそう言いあって、久しぶりの明るい話題としたのであった。
「重盛殿の様子はどうでしたか?」
法皇が御所に帰ると、近臣の一人が言った。
彼は平治の乱で死んだ独裁者信西入道の三男で、成親、西光亡きあとの第一の近臣というべき人物であった。
「長くはないようだ」
「そうですか」
彼の顔に影が浮かぶ。
平家と信西入道が親密な間がらだったこともあって、彼は平家のことも重盛のこともよく知っていた。
死ぬには惜しい人物だと思っている。
危惧もあった。
重盛の父清盛は、ともすれば皇家をもしのごうとする勢いがある男だ。
さらに重盛のあとに平家の後継者になるであろう弟の宗盛は平家という巨大な一族をまとめられるような器ではない。
(そう考えていくと、重盛殿の死は平家にとっても……)
「平家は終わりだな」
彼の考えを読んだように法皇がつぶやいた。
平坦な声だった。
表情も動いていない。
それだけに底冷えするような迫力を持って彼の耳にとどいた。




