トキさんで本当に良かったです
それから半月ほどの養生を経て、鴇の傷は癒えた。
シーゲルの治療と薬のおかげで、爛れた傷や胴体にぶすぶす開いた穴の跡形もない。
「トキ、どうしても俺らは一緒に行ったらダメなのか?」
「はい。私だけじゃ、何かあった時にロビンさんとギイを守れません」
帰り支度をする鴇は、何度目かのやり取りをロビンと交わしていた。
何度言われようとも、鴇の考えは変わらない。
ロビンとギイがこの先も一緒にいてくれればどれだけ嬉しいかは想像に難くない。しかし、こことは全く違う世界で彼らが同じように生きていける保証はどこにもない。元の世界に戻った途端にロビンもギイも死んでしまったら、鴇は一生癒えない傷を負うだろう。
「今まで一緒にいてくれて本当に嬉しかったです。これからは、ロビンさんとギイの好きなように生きてください。折角、自由になれるんですから」
「いくら不自由でも、トキがいる方が良い」
ロビンは姿を消し、ギイは悲しそうに泣いて部屋を出ていった。鴇も柄にもなく目の奥が熱くなったが、ぐっと力を入れて堪えた。それでも視界が滲みそうになり、頬を叩いて気合を入れる。その甲斐あって、入れ替わりにシーゲルが来てもいつも通りに振る舞えた。
「その格好を見るのも久しぶりですね」
「ずっと着てませんでしたから」
今の鴇は自身が通う高校の制服を着ている。こちらではずっとタンスの奥にしまいこんでいた。
「こちらの準備はできてます。いつでもどうぞ」
「はい」
それで会話は終わりだと思ったが、シーゲルは部屋の入口から動かない。
「……トキさんが望むなら、いたいだけここにいてくれていいんですよ」
それは抗いがたいほど魅力的な提案だった。先程のロビンの言葉も合わさり、鴇の心がぐらりと揺れる。揺れたが、傾くことはなかった。
「ありがとうございます。でも、私は帰ります」
ずっと決めていたことだった。もしシーゲルの役に立てたら。彼の目的が達されたら。
後腐れなくあっさり帰ろうと決めていた。
鴇はこの世界でどこまで行っても異物なのだろう。シーゲルたちから引き離されたら数日と生きていけない。誰に助けを求めればいいかも分からない。
誰かに頼り切りでなければ生きられない世界にいるべきではないと思う。
「それなら、僕はこれ以上引き止められません」
残念です、とシーゲルが言う。お世辞や社交辞令でも、別れを惜しんでくれるのは嬉しい。
帰り支度を終え、鴇はスクールバッグを肩にかけて立ち上がる。衣類や使っていた日用品はほとんどシーゲルやリールが買い揃えてくれた物だ。それらは全て置いていくため、荷物はこちらに来た時と殆んど変わらない。
「……ところで、これは本当に頂いていいんですか」
「もちろんです。よく似合ってますよ。用意した甲斐がありました」
鴇の首には真新しいマフラーが巻かれている。唯一持って帰る品だ。もうじき寒くなるからとシーゲルが用意していてくれたらしい。寒くなる前に鴇が帰ることになったのでお土産として持ち帰ることになった。受け取ってからの数日、昼夜問わず身に着けていたが、まったくチクチクせず沈み込むような柔らかさがある。最初に触った時、かなりの高級品なのではないかと冷や汗をかいた。
鴇は部屋を見回して頷く。掃除もした。忘れ物もない。
「準備できました」
「はい。行きましょう」
◆
寮の一室に鴇が帰るための魔法陣が作られていた。壁際の止り木には梟姿のリールがいる。見送ってくれるのだろうか。
「トキ様が帰られると寂しいです」
「身に余るお言葉です。ありがとうございます」
「どうかお元気で」
「はい。リールさんも」
ロビンとギイはいない。言伝てを頼もうかと思っていると、リールは部屋の隅を見やる。
「これで本当にお別れですよ」
その言葉に、部屋の隅に置かれていた棚からギイが出てきた。垂れた尻尾が憐れみを誘う。鴇がしゃがむと近寄ってきて、ぎいぎいと鳴いた。頭も体も構わず両手で撫でくり回す。妙な鳴き声もこれで聞納めと思うと寂しい。
「元気でね、ギイ。リールさんの言うこと聞いて、ロビンさんと仲良くね」
ロビンは姿を現さない。別れの挨拶ができないのは残念だが仕方ない。そう思いながら顔を上げると、眼の前が白く霞がかったようにぼやける。
「なんでトキが故郷に帰らなきゃならないのか、正直分からんし納得してない。でもトキが決めたことなら、しょうがないな。さよならだ」
一瞬だけ、体が温かいものに包まれた。ロビンに抱きしめられていたとぬくもりが去ってから気がついた。
「セーガンに来てくれてありがとう。トキに助けてもらえて嬉しかった」
泣き笑いでそう言うロビンに言葉を失う。立ち上がることもできずに呆然と座り込む鴇の頭にシーゲルの手が乗せられる。
「僕も同じ気持ちですよ。僕を助けてくれたのがトキさんで本当に良かったです」
堪える間もなく涙が溢れた。どうしてみんな、こうも人が欲しい言葉をくれるのだろうか。
止め処なく流れる涙を拭って拭って、何とか鴇は立ち上がる。魔法陣の上に乗ると、模様が光って微かに唸るような音がなり始める。
「本当にお世話になりました。みなさんに会えたことと、一緒に暮らせたことは一生の宝物です」
鼻声で聞き取りづらい声になってしまった。つくづく最後まで締まらない。
「どうか元気でいてください。さようなら--」
来た時と同じように、唐突に周囲は距離感も分からない真っ暗な空間に変わっていた。
最後に零れた涙を拭って鴇は前へと歩き出す。
やがて前方が薄明るくなり景色が見えてきた。久しぶりに見る、見慣れた帰り道だ。アスファルトの道に踏み出す時、階段のような段差があった。一段高い場所へ。
一歩踏み出してしまえば、背後を振り返っても周囲を見回してもあの暗闇はどこにもない。
冷たい風が吹いたが、首元の温かさが守ってくれた。
鴇はほんの僅かな間立ち止まっていたが、首に巻いたマフラーに触れると帰路を歩き始めた。




