他を当たった方がいいですよ
緑頭は二日間眠り続けた。数時間おきにリールが様子を見にきているからいいと思うのだが、あまりに静かなので時たま顔の前に手を広げて息をしているか確かめた。一日三回リールが運んでくれる食事を食べ、時々トイレに行く。後はソファの上でカバンに入っていた教科書を読んだり窓の外を眺めていた。自分でもどうかと思うが、家にいる時より寛いでいたと思う。携帯が圏外だった時点で家や学校のことは考えないことにした。連絡手段がないから仕方ない。
緑頭が起きたのは、部屋の中が暗くなり、そろそろ灯りが必要かと思っていた時だった。教科書から顔を上げ、窓の外を見て緑頭に視線を移すと、ずっと閉じられていた目が開いていた。手から教科書が落ちて騒がしい音を立てる。緑頭の顔が少し震えてこちらを見た。
「……リールさん、リールさん!起きた!起きました!」
顔は緑頭の方に向けたままソファから立ち上がる。リールが出入りする扉を叩いて知らせようとしたが、その前に反対側から扉が開いてリールが入ってきた。
「……リール」
緑頭の声は掠れ、咳が混じっている。
「食事と鏡をお持ちします。酷い顔です」
対するリールは冷静な対応だった。すぐに元いた部屋へ戻ってしまう。
「すぐに戻りますので、挨拶を済ませておかれた方がよろしいでしょう」
リールが出ていくと、途端に部屋は静かになる。緑頭を見た。緑頭がこちらを見た。
「初めまして。灰沢鴇です」
「はいざぁ……」
「とき、です」
「トキですね。僕はシーゲル、初めまして」
けほ、と小さな咳。
「大丈夫ですか?」
シーゲルが困ったように笑う。
「はい、体は問題ありません。それよりも、まず謝らせてください。あなたをここに連れてきたのは僕です。ごめんなさい」
「リールさんから、私を呼んだ経緯は聞きました。人違いではありませんか」
主が説明する、と必要以上の口はきかなかったリールだが、鴇からの質問には彼が分かる範囲なら全て答えてくれた。ここが少なくとも鴇が知る世界ではないこと、シーゲルが何のために助けを求めたかも分かった。だから鴇も、大方の事情は知っているつもりだ。
「人違いですか?それはありません」
「なら他を当たった方がいいですよ。私は何もできません」
「恐らく他の方では駄目なのでしょう。僕は持てる力の全てを使って助けを求めました。応えてくれたのはトキさん、あなたです。僕は僕の力を認めています。だから僕は、僕を助けてくれるのはあなただと信じています。僕が呼んで、応えたあなたを信じます」
「すごい理屈ですね」
俺が信じるお前を信じろ。シーゲルはそう言っている。
「虫のいい話だというのは承知の上です。あなたの戸惑いも怒りも正当なものです。できる限りの対価は用意します。事が終われば元いた場所へお帰しします。気が済まなければ殺して頂いて構いません。僕にはどうしてもやらなければならない事があります。どうかお願いします。助けてください。僕に力を貸してください」
これが数分前まで寝ていた人間の顔だろうか。シーゲルの目はまっすぐで、鴇をひたと見据えて少しもぶれない。きっとこういうのを強い目というのだろう。
「私は本当にただの人間です。この世界のことも、戦う方法も、世渡りの仕方も、人との交渉も、何もできません。シーゲルさんが呼んだのは本当に私ですか」
「はい」
「分かりました。何の役にも立てないでしょうがお手伝いします。せめて全力を尽くしますね」
「……え」
なぜか散々頼み込んできたシーゲルが驚いた顔をしている。鴇が頼みを承諾したのが、そこまで意外だったのだろうか。
「どうかしましたか」
「あ……いえ、本当にいいんですか?」
「はい」
「頼んだのは主でしょう。なぜ狼狽えるのです」
「リールさん」
「食事と鏡の用意ができました。あなた様もどうぞ」
リールが机の上に食事の乗ったプレートを置く。この二日間で食べ慣れたパンとスープが乗っていた。
「いただきます」
ベッドで上半身を起こしたシーゲルが自分の碗の中身を見てぼやく。
「ねえリール、僕のスープに具がないんだ」
「ご自分が何日固形物を食べていないか覚えていらっしゃいますか。それよりよく鏡を見てください」
「……酷い顔だ。誰だろうね」
「とうとう気が狂いましたか」
「ふざけるのもこれぐらいにしとこうか。リールは怒るととても怖い。トキさん、リールに経緯を聞いたと言ったけど、改めて僕に聞きたい事とかはありますか?」
口の中のパンを飲み込みスープの碗を机に置く。椅子の上で居住まいを正した。
「リールさんからあなたの目的を聞きました。この国の、城の地下に巣食った亡霊を殺したいと。私を呼んだのも、その為ですか?」
緑頭ことシーゲルが倒れた翌日、昨日の事だ。シーゲルを看病するリールに、シーゲルはなぜ自分を呼んだのか鴇は尋ねた。リールは、「シーゲルは城の亡霊を殺したがっている」と答えた。理由は分からないが、やけにその事に拘っているらしい。
「そうです。僕はあの亡霊を殺したい」
「理由は教えてもらえますか?」
鴇が考える亡霊は、皿屋敷のお岩や飴を買う女のような、いわゆる怪談に出てくるような存在だ。それを殺したいという考えにいまひとつ理解が追いつかない。鴇はあまり幽霊や妖怪の類を信じていない。そもそも亡霊はすでに亡いものだから亡霊なのであって、死んだ存在をまた殺すなんて事が出来るのかも分からない。祓うと言った方がいい気もする。
「あれが害悪だからです。存在しているだけで他者を脅かす。何としてでも消し去らなくてはいけません」
「……はあ」
淀みない説明に、鴇は困惑気味に相槌を打つ。それは悪霊ではないだろうか。
「やはり信じてもらえませんか」
眉を下げて笑うシーゲル。仕方ないといった諦めの色が濃い。
「信じる信じないというか……分からないです。それがシーゲルさんの亡霊を殺したいと思う理由ですか?」
スープに接着剤でも入っていたのだろうか、シーゲルの口元が固まった。柔く笑んだ形はそのままに、凍ったように動かなくなる。リールは片眉を上げて目線をシーゲルに向けた。シーゲルはゆっくり片手で口を覆う。
「何でわかったんですか?トキさん」
「逆です。分からないんです」
鴇がこの世界に来た直後。満足に動かない体で這いずって鴇に近付き、手を伸ばして助けを請う姿と、目の前のシーゲルの姿がどうしても結びつかなかった。
「初めて会った時、シーゲルさんは本当に必死で、なり振り構わない気持ちが伝わって来ました。今は話しててもそんな感じが全然しません。今のシーゲルさんがあの時と同じ気持ちで話しているのか、分からなくなりました」
二日前は呆気に取られるばかりだったが、今思えばあの時のシーゲルは鬼気迫ると言っても過言でない様相だった。それが今は声も雰囲気もわざとらしい程軽やかで薄っぺらい。同じ事について話していてこれでは違和感も感じるだろう。
「そうですね、嘘ではないです。あの亡霊が有害なのも、あれが外に出てくる危険性を憂慮しているのも事実です。でも、ふはっ、うん。今言ったのは建前です。すみません、嘘をつきました」
何が面白いのか、シーゲルは口元を隠したまま独り笑いを続けている。
「言いたくないなら無理に理由を聞こうとは思いません」
一頻り笑うと、シーゲルは手を下ろして首を振る。
「いいえ、話させてください。一方的に助けてくれと言っておいて、理由を隠すなんて図々しいにも程がありました。ごめんなさい。僕は許せないんです、あの亡霊が」
先程とは打って変わって、静けさの中に溢れんばかりの感情を詰め込んだ声だった。穏やかな笑顔は消えて、あるのは能面のような無表情と爛々と光る目の光だ。
「存在している事自体が業腹で、殺してやりたい。あいつが今も城の地下でのうのうとしていると思うだけで怒りでどうにかなりそうです。消し去りたい。本当に、心の底から殺してやりたい。でも僕だけでは、絶対にできない。ですから、どうか」
助けてください。この数日で一番多く聞いたに違いない、最後の言葉は弱々しく途方に暮れていた。