おいしい涙
繁華街の外れは安っぽい光を放ち続けている。
明暗を繰り返す信号機も、それに支配されるような人の流れも、車のクラクションも玩具のように軽快だった。
安奈は流れていく景色にため息をつく。
安奈と世界の隙間に透明な層があるように、映るもの全てが彼女にとって無機質に光っていた。
「ねえ」
膝を抱えたまま安奈は顔を上げる。
夜空は照明に照らされ僅かに暗かった。
その下に一人の男が立ち、彼女を見下ろしている。
高校生の安奈に、目の前の男は年上に映った。
彼はすらりと伸びたジーンズに、腰からはチョークバッグをぶら下げている。
ジャケットは緑をベースとした黒のチェックで、黒いニットキャップからは柔らかそうな茶色い髪の毛がはみ出ている。
「何してるの?」
安奈は顔をしかめた。
自分はコンビニの前に座り込む、友達待ちかナンパ待ちに見るのだろう。
どちらでもない事が彼女の気分を擦り切れさせていく。
安奈は返事の代わりに目を伏せた。
男は気遣う様子もなく、彼女の隣に腰を落とす。
「あ、家出少女?」
安奈は足の下に広がるコンクリートの冷たい色を睨みつけた。
慣れない出来事と極度の緊張から、震えそうな声を必死に押さえつける。
「だったらどうするの。警察に突き出すつもり?」
男は不思議そうに首を傾げ、蹲る安奈の顔を覗きこむ。
「どうして俺が警察に突き出さなくちゃいけないわけ」
「じゃあ、どうしてあたしに声をかけたの?」
「声かけて欲しいのかなーと思って」
「別に」
覗きこむ視線から顔を背ける。
安奈はただ一人になることを嫌い、こんな中途半端な場所――深夜の繁華街にあるコンビニの前で蹲っていた。
退屈な男が相手でもしてくれたらいいと思っていたのに、実際に隣が埋まると居心地が悪い。
それを見透かされているようで、16歳の少女は落ち着かなくなった。
「人と話したいんでしょ? 俺なら聞く時間あるけど」
人懐こい目が安奈を見つめ続ける。
安奈の懐疑を混ぜた視線を溶かすよう男は微笑んだ。
「俺もね、君と同じで元気ないんだ」
黒い帽子からはみ出した前髪を引っ張り、男の人は機嫌よさそうに口元を緩める。
「この間メールしたんだけど、返事がまだ来ないんだ。寂しいなあ」
「……好きな人?」
「どうなんだろうな」
曖昧な男の態度を安奈は苛立たしげに睨める。
「好きなんでしょ? だから寂しいんじゃん」
「君は?」
「えっ」
「君は、好きな人から返事がないと寂しい?」
男はチョークバッグから煙草の箱を取り出した。
安奈には煙草の銘柄も分からない灰色のソフトケースから一本取り出し、口にくわえて火をつける。
普段の安奈なら眉を寄せてしまう白い煙が男の口から溢れた。
それが冷えた風に乗り、彼女の鼻先を掠めても不思議と気にならない。
「お兄さんは彼女いる?」
「いるよ」
「裏切られたことある?」
「ないよ」
「いいなあ」
本心からそう思い、安奈は背中で大きなため息をついた。
「どうしてあたしは、裏切られたんだろ」
男は信号機の青く点滅するランプを見据えたまま紫煙を空にふきかける。
「裏切られたって、男に?」
「うん、二股された。しかもあたしが浮気相手でさ、本命の彼女にばれそうになったからさよなら、みたいな感じで平謝りされた」
「そんな男を好きになったんだから、仕方ない」
「仕方なくなんかないよ」
──ごめん、あんな。おれが悪いんだ。ごめんな。
昨日までの彼氏はそれだけを繰り返した。
謝られることで彼女に残ったものは何も無い。
ぽっかりと空いた胸のうちは、ただ一つの答えを求めていた。
あたしの何が悪かったの、と。
「それで君は」
「安奈」
「それで安奈は、男に裏切られたからこんな所に座り込んでるの?」
「……わからない。ただ一人になりたくないの。でも、あたしには行く場所なんか無いんだもん」
安奈は鼻を啜り、唇を噛む。
様々な感情の輪郭がぼやけ、自分だけが不幸になったように悲観していた。
親に知られれば「そんなことで」と笑われるだろう。友人に知られれば「そんな男別れて当然だよ」と味方になってくれる。
そういった言葉は今の安奈に意味を持たなかった。
彼女はただ、そのどうしようもない男の所へ戻ることばかりに思考を繰り返し巡らせている。
唐突に会いたくなり、そしてもう叶わない願いに涙がこみ上げた。
「どうして泣くの?」
「あ、当たり前でしょ! 酷いふられかたして……まだ好きなんだから」
そこまで言葉にして、安奈は自分が、感情のまま吐露することに飢えていると気づく。
とたんに、言いたくない気持ちが口をついて止まらなくなった。
「初めは相手から来たんだよ。友達の彼氏の友達でね、なんか頼りないけど年上だし、優しくしてくれるから……ちょっと好きになって。で、その人の家に行って、そういう空気になって。付き合ってるのかよくわからなかったけど、それから連絡するようになってね。デートもしたんだよ、映画館に一回行っただけなんだけど。一緒にいるだけで楽しかったのに、どうしてこんなことになっているんだろう。あたしの何が悪かったんだろう」
言葉にすればするほど自分が可哀想な存在のように思えてくる。
たった一人でこの世界の孤独全てを独り占めしているように、受け入れがたい現実は安奈の身体に大きすぎた。
静かな隣に目を向ける。
男は慣れた手つきで煙草を口に運んでいた。
交差点の人々に向かってまいている煙は向かい風に流され、あっという間に散る。
その背後に、赤から青に変わった信号機がはっきりと浮かんだ。
もしここをあの男が歩いていたら、すぐに駆け寄るのに。
安奈は起こらない奇跡を願い続けた。
交差点は人が流れていく。
どんなに目を凝らしても、会いたい人はそこにいない。
気付けば、二人の間に確かなものは何も無かった。
「あたしが悪いの? あたしの何が悪かったの……」
街の喧騒が遠のいていく。
安奈にとって自分のすすり泣きだけが、この世界のたった一つの現実のように響いた。
「悪い日が全ての人間に同時に来るわけじゃないから。ねぇ、それより安奈が泣いてると、俺が泣かせてるように見えない? ちょっと恥ずかしいんだけど、俺が」
「あたしも恥ずかしいよ。あんたなんかに泣かされる女にみえるなんて」
頬を伝った涙を拭う。
下手な作り笑いを見せる相手がいることに安奈は感謝した。
男は煙草をくわえ、目だけを安奈に向ける。楽しそうに口の端が持ち上がった。
「そんなに悲しいなら復讐すれば?」
安奈は一瞬放心する。
復讐?
言葉を反芻すると、胸の奥がじんわり高揚した。
目の前の鈍い夜景が突如はっきりと輝きだす。
気だるく厭世的に身体を持て余すのではなく、憎悪を糧に立ち上がっていく。
魅力的な誘惑に取り付かれたよう、安奈の中に何かが浸りだす。
「安奈、怖い顔」
男は楽しそうに目を細め、煙草を一口吸い込むとそれをアスファルトに押し付けた。
「俺の言いたいこと、きっと伝わってない」
「そんなことないよ。さっきまでのぼんやりとした世界から目覚めたみたい。あたし現実に戻ってあいつを苦しめるために生きていくのが一番幸せなのかも」
「だから、そういうのじゃないんだよ」
冷たい地面に潰された吸殻が、丁重に携帯灰皿の中へとしまわれる。
「安奈をキープに使った男が、安奈の泣き顔みたらどんな気持ちになると思う?」
「ほんの少しだけかもしれないけど……罪悪感を感じる?」
「そうかもね。でも彼は大きな優越に満たされるよ。自分のために泣く女の涙はおいしいんだ、すごくね。これから安奈のする復讐は、その間逆の位置を目指せばいい」
安奈は缶を握り締めたまま、自分の目線より少し上にある男の端整な顔を見つめる。
彼はそっと安奈の頭を撫でた。
「安奈がそいつの事なんか眼中無くて、いい男を隣に連れて、すれ違う時に昔と違う香水漂わせて、幸せそうに笑っていれば、そいつの人生の最大の汚点になるんだよ。安奈を手放したって事実がね」
安奈は目を逸らさず男を見上げ続ける。
男の大きな掌がそっと彼女の頭を離れる時、名も知らない香りがよぎった。
「俺の言いたいこと、わかってくれたよね」
男は交差点の一点に目を向けたまま腰を上げる。
離れていくのが伝わり、安奈はジャケットの端を掴んだ。
「待って、番号教えてくれない?」
歩みを止められた男は意味ありげに目を細める。
「初めて会った男にそんなこと聞いたら危ないよ。今度すれ違うことがあったら、その時にでもね」
緩い笑顔を絶やさず、彼の袖は安奈の指をすり抜けると点滅する青信号を渡っていく。
その先には赤信号に遮られた女が立ち止まっていた。
女の白いトレンチコートの下からスキニーデニムが伸び、細身の体型が一層目立っている。
その華奢な骨格には不釣合いな大きなボストンバッグを肩に提げていた。
男は女性の背後に立つ。
そして信号が変わると同時にそっと女性を抱きしめた。
進むこともままならず驚いて振り返る女性を見る前に、安奈はその交差点に背を向け立ち上がる。
その時すれ違うのは昔の男ではなく、あの見知らぬ男ならいいのに。
復讐を決意して、安奈は街の明かりに照らされてくすんだ夜空を仰いだ。