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【魔導師のユメみたセカイ。】

夢を見てもいいですか。

作者: 津森太壱。

この物語はフィクションです。

造語が多々ありますので、ご注意ください。

造語にしてはおかしいと感じましたら、こっそりひっそり教えてください。





 世界は美しい。ゆえに、醜い。

 その中で、どうしようもなく生きる自分。

 身の置き場のない、やりようのない感情。

 生きていることを放棄したくなる、排他的な思考。

 いったい、なにが、したいのだろう。

『どうして、おまえは、そんなに……』

 理想が高いのだと、言われた。

 自分の想いが、心が、感情が、理想の高いものだとは一度も思ったことがない。夢や幻想が強いのだろうとは、思っている。それが理想の高さだというのなら、自分を形成した環境がそれほど歪んでいたということだ。たとえそれが責任転嫁だとしても、こうなってしまったのは、そういう環境があったからなのだ。

『なにがおまえをそうさせる』

『……世界』

 人間が怖い。人間が、恐ろしい。人間に、恐怖を感じない日など、ない。

 世界は恐怖だ。

 どうしようもなく、恐怖に溢れている。

 自分の想いが、世界を恐怖と感じている。

『死んでしまいたいのに、それも怖くて、できない……矛盾している』

 なにもかもが、怖い。生きることも、死ぬことも、人間も世界も、すべてが恐ろしくて、いつだって怖気づく。

 吐き出さなければ、狂いそうだ。

 いつだって、そうだった。




   *   *




 狭くも広くもない、こぢんまりとした家に、カヤは生息している。平屋の一軒家で、そっと静かに、密かに生きている。仕事は専ら、家でできるなにか。外へ出る必要性のない、ひとりきりのもの。

 今はひっそりと生きなければならないのだ。そうしなければならない理由は、忘れてしまったけれども。


 今日もカヤは、自堕落に、机に向き合う。


「うまく、書けないな……」


 最近は趣味で、小説なるものを書き連ねている。もともと文章を構築するのは好きで、読むのも好きなカヤは、すぐに小説書きに夢中になった。しかし、思うように進むわけもない。所詮は素人、初心者だ。物語を描くのは、楽しいことだが難しい。


「だめだ」


 上手く描けない物語を、いつまでも描いていても面白くはない。気分転換に机を離れ、窓を開けに縁側へ行った。

 閑静な住宅街は、区画整備が入ったとかで、このところは大型の重機が道を幾度も往復している。だから騒がしい。新しく家を建てているところもあるのか、木を叩いているような独特の音が、木霊していた。

 窓を開けると、外気の音が部屋に響く。晴れた空が見えなければ、少々不快な音だ。

 欠伸をして窓を離れると、咽喉を潤すために台所へ行く。廊下らしい廊下が玄関から台所や居間の数歩の距離しかない平屋は、すべての部屋が隣り合っていて、カヤが自室にしている部屋は、台所へ行くのに居間を通り抜けるだけの、とても短い距離だ。

 薬缶でもあれば湯を沸かしていたかもしれないが、常から冷たいものを好むカヤは、いつも冷えたお茶を床下の室に保管している。大きめの器に冷茶を注ぎ、再び窓際へ歩を進めた。

 ふと、言葉を思いついて机に戻り、思い浮かんだ文章を並べてみる。幾度か読み返し、満足すると、今日の分を終わらせた。また数日後に、文章が浮かんだら、言葉を書き連ねるだろう。


 カヤは中毒者の多いという紙煙草を一本咥え、火を点けるとほっと息をついた。


「カヤ」


 背後からの呼び声に、カヤはぴくりと眉を僅かに動かす。ゆっくりと振り返れば、大きな白い鳥が一羽、窓縁にとまっていた。


「……なんの用だ、鳥」


 今の声はこの鳥だろう、とカヤは当たりをつけて首を傾げる。カヤを真似るように、鳥も首を傾げた。


「またぼくを忘れたんですか?」

「……鳥に知り合いは」

「鳥じゃないですよ。確かにぼくは半翼種族ですが、ちゃんとした人間です。わかっているくせに、意地悪ですね」


 白い鳥は、窓縁をふわりと離れると、ゆったりした白い衣装を着た青年へと姿を変える。

 いやになるほど眩しい金色の髪と、深海を思わせる暗い蒼色の瞳には、憶えがあった。いや、これを忘れることなどできやしないだろう。青年から感じられるその力には特に、印象があり過ぎる。


「カヤに頼みがあって来たんです。聞いてくれますよね」


 青年は人好きする笑みを浮かべ、カヤの顔を覗き込んでくる。その顔に吐き出した紫煙を吹きかけてやってもよかったが、その意図に気づかれてさっと避けられてしまった。


「カヤ、暇でしょう? ちょっとぼくにつき合って、街に来てくれませんか」

「……つき合う必要性が感じられない」

「どうせ日がな一日家に籠もっているだけでしょう。少しくらいいいじゃないですか。つき合ってくれたら、ここよりもっと静かで立派な家、用意してあげますよ」


 静かで立派な家、という言葉に、うっかり魅力を感じる。いや、立派ではなくてもいいのだが、静かな場所には移動したいと思っていたのだ。閑静な住宅街だったのに、整備が入ったせいで人気も多くなったこの場所から、少し離れようかと思っていたところでもある。


 ほんの僅かだけ目を輝かせたカヤに気づいた青年は、笑みを深めた。


「決まりですね。じゃあ早速、行きましょうか」

「……今から?」

「早くしないと閉まっちゃいますから」

「……閉まる?」


 なにが閉まるのだ、と首を傾げたが、青年はにこにこ笑うばかりで答えなかった。


 さあさあ、と急かされるように身支度を整えると、約十日ぶりに家を出たカヤは、陽射しの強さに眩暈を起こした。倒れそうになった体を叱咤し、睡眠不足のために痛む目がしらを揉む。


「カヤ」


 青年に促され、いつのまに用意していたのか、重厚感溢れる黒塗りの馬車にカヤは乗せられる。御者台に乗った青年が馬車を発進させると、車窓から見える景色は数秒だけカヤに世界の状態を見せ、すぐに外から真っ黒な天幕で遮られてしまった。


「……おい」


 天幕をよけてくれ、とカヤは訴えたが、青年にさらりと無視された。仕方なくカヤは目を閉じ、束の間の睡眠を取ることにする。


 質のいい馬車の振動は、揺り籠のように優しい。


「カヤ、起きてください。着きましたよ」


 外に出て二度めの呼びかけに目を覚ますと、そこはもう外の世界ではなかった。




   *   *




「……だまされた」


 カヤはぼんやりと、冷たい長椅子に座り込んで、己れの失態を分析していた。いや、分析してみたところで無意味だ。自分には学習能力がない。それだけだ。

 毎度同じように、鳥の姿でやってきた青年の言葉を疑いもせず、信じてしまう愚か者である。

 なぜ信じてしまうのだろうか。


「よく見つけられたわね、アリヤ。あなただけよ、カヤを見つけてこられるのは」


 カヤの前に座った女性が、青年を「アリヤ」と呼んでそう言った。


「うん。だってカヤの行きそうなところに見当がつきますからね」


 青年アリヤは、にこにこしながら答えた。そのアリヤの横で、カヤは深々と息をつく。


 この会話を何度も聞いているような気がする。


「それで、カヤ? あなた、またわたくしのことを忘れてしまったの?」


 女性に訊ねられて、カヤは顔を上げる。

 いやに眩しい金色の髪と、深海を思わせる暗い蒼の瞳には、やはり見憶えがある。むしろ見慣れていた。アリヤと同じ特色を持っているのだから当然である。


「べつに、忘れているわけではないのだが」

「そう? じゃあ、わたくしがわかって?」

「……ユゥリア」


 ユゥリア、と女性を呼べば、大輪の花も霞む美しい微笑みを正面から受け止める羽目になった。


「う……まぶしい」


 こんな光りは要らない、と顔をしかめて両腕で光りを遮る。どうしてこの人はいつもこんなに眩しいのか。


「今度はどこに行っていたのかしら?」

「城下にいましたよ。住宅街の片隅に」

「あら、そんなに近くにいたの。それならきちんと捜せばよかったわ」


 失敗したわぁ、というユゥリアの声が近くに感じたと思ったら、アリヤが座るほうの反対側に、ユゥリアは移動していた。


「ユゥリア……」

「なぁに、カヤ?」


 しなを作って寄りかかってくるユゥリアから、カヤは逃げる。悲しいことにアリヤが助けてくれることはなく、またそう簡単に逃げられやしない。


 しかし、今日は天の助けが入った。


「王陛下、ユゥリア陛下、そろそろ」


 ユゥリアを陛下と呼んだ文官の男が、扉の前で頭を下げていた。


「久しぶりの逢瀬を邪魔しないでくれるかしら、シャンテ」


 シャンテ、と呼ばれた文官は、この国の女王であるユゥリアに仕える王佐であり、カヤにも憶えがある。

 助かった、とカヤは安堵したが、王佐の言葉に素直に頷かないのがこの国の女王、ユゥリア・ホーン・ユシュベルだ。


「少しくらいいいでしょ。わたくし、このところの忙しさに疲れているのよ。この逢瀬を楽しんでもいいじゃない」

「は、申し訳ございません。カヤさまにはこちらに留まってくださるよう、わたくしどものほうで手配いたしますので、今日ばかりはお許しください」

「……一月よ」

「なんでございましょう?」

「わたくしに、一月の休暇を寄越しなさい。それから、わたくしの政務が終わるまで、カヤを捕まえておいて」


 それで妥協する、と言ったユゥリアに反対したのは、この場ではカヤだけであった。アリヤはカヤを騙して連れてきた本人であるし、シャンテは王陛下に政務をしてもらいたい王佐である。むしろ反対する者も、できる者も、この場にはカヤしかいなかった。


「御心のままに」

「じゃあ、行きましょうか。カヤ、逃げたら承知しないわよ」


 さっとカヤから離れて行ったユゥリアは、カヤとアリヤの額に口づけの置き土産をしてから、シャンテと部屋を出て行く。


 ほんの僅かな時間だったというのに、ものすごく疲れた気がするのはなぜだろう。


「諦めたら?」


 とアリヤに言われた。


「その前に、なぜおれはユゥリアに気に入られているのか、そこが疑問だ」


 その疑問が解消されない限り、諦められるものも諦められない。


「いつまで経っても鈍いんですねえ、カヤ」

「なにが」

「ぼくっていう子どもを作っておいて、いや、ぼく以外にも子どもを作っておいて、それでまだそんなこと言っているのですか?」


 言っていることを理解する前に、閉じられたはずの扉が再び開いたせいで、どういう意味だとアリヤに言いそびれた。


 開かれた扉から、


「カヤ!」


 と名を呼びながら入ってくる青年や、


「またアリヤが見つけてきてくれたんだね、父さまのこと!」

「逢いたかったわ、父さま」


 男女それぞれ、上はアリヤくらいの青年から下は六歳ほどの子どもが三人、部屋に入ってくる。どの顔も見憶えがあり、やはりいやに眩しい金の髪と、深海の蒼の瞳をしていた。


 カヤはふっと息をつくと、顔を引き攣らせる。


「どうしてこんなことに……」


 そう言ったとき、最後に壮年の文官が部屋に入って来て、頭を下げた。


「お久しゅうございます、そしてお帰りなさいませ、王公閣下」


 げんなりした。

 子どもたちにわいわい囲まれながら、カヤは深々とため息をつく。

 アリヤが楽しそうにけらけらと笑っていた。


 この現実を一時でも忘れたくて平屋の一軒家に隠れていたのだったと、カヤは思い出して項垂れた。



   *   *




 今から二十年ほど前のことになる。

 ある国の王女が、ある魔導師に惚れた。王女のそれは誰の目から見てもはっきりとわかるほど明確な恋慕であったが、惚れられた魔導師のほうは誰の目から見てもはっきりとわかるほど明確に、非常識なほど鈍感であった。王女に惚れられているというのに、その自覚もなく、気づくことすらなく、魔導師は宮廷に仕えていたのである。

 そんなある日、王女は決意した。そして決行した。両親の諾もなく勝手に、焦がれる恋心のままに、魔導師に夜這いをかけたのである。王女は豪胆で、そして楽観的であった。しかし、賢かった。本来なら淑女が夜這いなど、不埒とされて処罰を受けてもおかしくはないが、魔導師に恋慕する熱烈さを披露していたので、逆に周りを納得させたのである。

 むろん、非常識なほど鈍感であった魔導師は、王女に夜這いをかけられたのだと気づきもしなかった。深夜に侵入してきた者が女であり、また悪意というものが感じられず、命を奪おうというのでもない事態になにがどうしたのだと戸惑っている間に、すべてが終わっていたのである。つまりなし崩しに押し倒されて、美味しくいただかれてしまったわけだ。

 ゆえに、魔導師は王女が手にした恋の自由を知らなかった。そして、己れにふりかかったものがなんであるかも、魔導師は知らないままだった。

 王女が魔導師に夜這いをしかけて半年後のことである。

 王女の懐妊が、国中を騒がせた。

 相手はもちろん、夜這いをしかけた魔導師である。

 第一子王子が産まれたあと、王女はまた勝手に、今度は両親にきちんと話を通し宰相以下臣民に了承を得たのち、魔導師と書類上の婚姻を交わした。しかし、魔導師にその知らせが行くことはなかった。そのとき魔導師は自然災害の被害地へ行っており、そのまま行方不明になっていたからだ。この魔導師に限ってはよくあることだったので、いないときを狙って王女は魔導師を自分のものにしたわけである。

 もちろん魔導師は自分が王女と結婚したと知らないまま山奥の村で発見され宮廷に戻ってきたが、周りの雰囲気がなにかおかしい気がしても、相変わらずの鈍感さを発揮していた。そんな魔導師に、王女がまたしても夜這いをしかけたのは、言うまでもない。また魔導師も、同じことを繰り返した。

 第二王子の誕生は、その年の暮れだった。

 この頃になると、王城にいる者たちの中で、魔導師がいったいいつ王女の行動に気づくのかという賭けごとがなされるようになっていた。その賭けごとには、王女も王女の両親も加わっていた。国家ぐるみの大規模な遊びである。

 しかしながら、魔導師もばかではない。非常識なほど鈍感ではあったが、国随一の力を有する魔導師である。いつのまにか決まっていた王女の婚姻や、宮廷を賑やかにしている小さな王子のことは知っていたし、気になってはいたのである。なにせ、小さな王子からは自分と同じ力を感じるのだ。気にならないわけがない。

 国を継ぐと決まった王女の、小さな王子。

 この国の王族は強い異能の力を持っている。それは国を護るための力で、この国を想わなければ備わらない絶対的な力だ。王族以外に力を持った者が産まれるのは、たとえ高位の貴族であっても、稀なことである。

 平民であったが強大な力を有していたことで宮廷に召し上げられていた魔導師は、王女の小さな王子から感じられる自分の力が、とても不思議だった。

 なぜ自分と同じ力を、王女の小さな王子は有しているのか。

 その疑問から、魔導師はあるとき、王に謁見した。王女の小さな王子のことを、進言するためだ。

 さて、王女はいったい誰と結婚したのだろう。魔導師は孤児であったので、血縁者はいない。いたとしても、王女と結婚できるほどの身分もない。だいたい、王族なら力を持つ貴族と婚姻を交わすであろうに、王女の近くにそれらしい者がいないのもおかしい。

 すべてが疑問で、そうして王にそれを問うた瞬間である。

 王は腹を抱えて笑いだし、魔導師を混乱させた。


「決めた、われは決めたぞ! 宰相よ、国に触れを出すがいい。われは来年にでも王位を王女に譲る。われは余生をゆっくり楽しむこととするぞ。賭けはわれの勝ちだな!」


 王の突然な退位は、もちろん臣民を驚かせはしたが、魔導師の疑問を解消してくれることはなかった。

 混乱を抱えたまま、魔導師はそれから半年ほど過ごすこととなる。

 なぜ半年だったか。

 それは、またも魔導師が自然災害の被害地へと赴いたからである。

 ひどい災害だったせいで、魔導師は忙しく、王女の小さな王子のことばかりを考えていられなくなった。仕事を終えたあとは気紛れを起こして、ふらふらと国のあちこちをめぐり歩いた。

 まさかそれが行方不明扱いにされ、あまつさえ都合よく事を運ぶ時間にされているとは、鈍感な魔導師が気づくわけもない。

 王女の戴冠まで残すところ二月を切ったときのことだ。

 魔導師は、唐突に思い出した。


「さがしましたよ。ずいぶんととおくにいてくれましたね」


 王女の小さな王子を目の前にして、うっかり忘れていたことを思い出したのである。


「……よく、わかったな」

「はい。だってぼくは、あなたのことがよくわかるんです」


 魔導師が、小さな王子のことがわかるように、小さな王子もまた、魔導師のことがわかるらしい。そう知った瞬間でもあった。


「かえりますよ」


 なぜか諭されるように言われた。だが、だからといって「帰ろう」というそれを断る理由にはならない。魔導師は宮廷魔導師であったし、師団長には生きていることだけを伝える書面しか送っていなかった。そろそろ帰るべきだったのだ。

 それに、目の前には小さな王子がいる。まだ上手く空を飛べない翼種族の王子だ。いったいどうやって魔導師のところまで飛んできたのか、小さな王子はひとりである。小さな王子をひとりで王都に帰すわけには、宮廷魔導師としてはできなかった。

 魔導師は小さな王子を連れて、約三月ぶりに王都に帰還した。


「まあアリヤ! よく見つけたわね、でかしたわ!」


 帰還した魔導師と小さな王子を出迎えたのは、嬉々とした王女である。


「しかもなにその姿! あんもう最高! カヤがアリヤを抱っこしてるなんて!」


 歩くのはつらかろうと、魔導師は途中から小さな王子を腕に抱き上げていたのだが、その姿に王女はいたく感激していた。魔導師にはよくわからない反応であった。


「かあさま、ぼく、いったでしょう? かやがどこにいるか、ぼくにはわかるんです」

「そうね、そうね。さすがわたくしの子、さすがカヤの子よ!」


 王女がそう言った瞬間、魔導師はなにかものすごい言葉を聞いた気がした。


「おれの、子?」


 王女は、小さな王子が、魔導師の子どもだと言った。

 それはいったいどういうことか。

 さすがに鈍感な魔導師であっても記憶力はそれなりにあるので、小さな王子の外見から年齢を割り出し、その頃に夜這いをかけられたことがあると思い出した。


「まさか……」


 魔導師が顔を引き攣らせると、王女は艶然と微笑んだ。腕の中の小さな王子も、ふふふと愛らしく笑った。

 背筋に冷たいものが吹く。

 夜這いをしかけられたのは一度だけではない。

 まさか、と魔導師は視線を彷徨わせ、王女の脚にぺったりとくっついてこちらを見上げている子どもと、目が合った。にっこりと、愛らしく、微笑みかけられる。第二王子である。

 自分と同じ、しかし小さな王子より遥かに弱い、それでも確かな己れの力を感じた。


「おとうさま」


 気絶してもいいですか。

 己れの鈍感さにこれほど嘆いたことはないと、魔導師は眩暈を起こした。



   *   *




 カヤは寝椅子に深く埋もれ、瞼を閉じる。

 アリヤの言うとおり、ここはとても静かで、そして立派な家だ。王宮だから当然であるが。


「だまされた……」


 信じるな、と思うのだが、どうしても信じてしまう。それはきっとアリヤがわが息子だからだろう。不本意だが、家族に縁がなかったカヤには見本になるものがなく、今感じているものを受け入れるしかない。

 王宮に戻って、ユゥリアに逢い、アリヤ以外の子どもたちに戯れられたあと、カヤは自分につけられた侍従長の手で身綺麗にされ、王族の衣装を着せられた。魔導師の官服でいいと言い張ったのだが、侍従長が許してくれなかったために、諦めて袖を通している状態だ。ひとりのときはぼさぼさの髪も今は後ろに撫でつけられ、さらりと背中に流れている。ユゥリアや子どもたちのそばを離れていた分だけ伸びていた髪を、カヤは一度切ろうと自ら短剣を握ったが、ふとユゥリアの笑みを思い出して切るのをやめた。

 ユゥリアは、老人のように色を失ったカヤの白い髪を、綺麗だと言って微笑む。


「夕食は要らないって、どうして?」


 部屋の扉が開いたかと思うと、カヤがふと思い出していた笑顔ではなく心配そうな顔をしたユゥリアが、女官長と一緒に部屋に入ってきた。


「食べる気がしない」


 端的に答えたら、ユゥリアの美しい顔が歪む。


「わたくしと一緒がいやなの?」


 いつも繰り返される会話だ。だから答えも決まっている。

 カヤは首を左右に振り、陽が落ちて暗闇に馴染んだ外に、目を向けた。


「……ここは静かだ」

「わたくしとカヤだけの家だもの。ここにはカヤと子どもたち以外、要らないの」

「だから、ここが騒がしいのはおかしい」

「あら……気づいていたの?」


 ユゥリアの声が、パッと変わる。

 カヤは埋もれていた寝椅子から身体を起こしてユゥリアを見やり、息をつきながら立ち上がった。


「いったいいつ、その呪いを受けたんだ」


 じっと、ユゥリアを見つめる。見つめ返してきたユゥリアは、少しして、苦笑した。


「先日よ」


 なぜこの人はこんなにも眩しく笑うのだろう。いや、笑えるのだろう。

 その身に、意味のわからない呪いをかけられても、そんな笑みを浮かべていられるのだろう。


 カヤは舌打ちしたい気持ちを抑え、上着の裾を捌いて足を前へ進めた。


「どこに行くのよ」


 横を通り抜けようとしたら、ユゥリアにそっと腕を掴まれた。立ち止まりはしたが、カヤは顔をそちらに向けなかった。


「結界は強化した。綻びも直した。残るはあと一つだ」

「結界が強化されて、綻びも直ったのなら、わたくしにかけられた呪いはそのうち返されるわ。カヤの守護だもの。もうだいじょうぶよ」


 そういう問題ではない。

 国随一の力は健在である魔導師のカヤにとって、ユゥリアがその身に受けている呪いの種類や、施し主までわかってしまう。それだけでなく、それを依頼した者も、視えてしまう。


「いくらおれが不甲斐ないとはいえ、見縊られては困る」

「あら……珍しいわね、そんなことを言うなんて。やっとわたくしを妻だと認めてくれたのかしら?」

「きみにほんの僅かな悪意を向けていいのは、おれだけだ」


 言い切ると、息を飲む気配を感じた。直後、掴まれていた腕が放され、代わりに背中へ柔らかくて暖かいものがくっついた。


「そうね。わたくしはあなたを騙して、あなたをわたくしだけのものにしたの。恨まれても当然のことをしたわ」

「……自覚があるのか」

「どうしてもあなたが欲しかったから……だから、既成事実を作ってしまえばいいと考えたの。その通りにして、アリヤを授かったわ。ほかの子たちもそう。けれど、わたくしは後悔なんてしていないのよ。どんなものでも、わたくしはあなたのものならすべて、欲しいのよ」


 しがみついてくるユゥリアに、カヤは唇を歪める。

 今さらそんなことを言われても、アリヤのことを含めた過去のことは、もう終わっている。


「おれはべつに、きみを恨んでいるわけではない」

「恨んでいいのよ? ひどいことをしたと思うもの」

「勘違いするな、ユゥリア」

「……勘違い?」


 カヤは背中からユゥリアを引き剥がすと、距離を置く。


 きっと、ユゥリアは知らない。

 カヤの気持ちなどこれっぽっちも考えず、砕け散る覚悟でその想いをぶつけ続けるユゥリアには、きっとわからない。


「おれはきみのものだ。今も、昔も、ずっと」

「……、え?」

「ほかの誰かのものになるつもりはない」


 ぽかん、としたユゥリアは、それまで見たこともない間抜けな顔をしていたが、美しさは変わらない。カヤが初めて彼女を見たときと、なに一つ変わらない内面からの美しさがそこにある。


 カヤはくるりと踵を返した。


「術者を始末してくる」

「え……ちょ、待って、カヤ、もう一回言ってちょうだい」

「術者を始末し」

「その前よ! あ、待ちなさい、カヤ!」


 制止するユゥリアの声を後ろ背に聞き流して、カヤは部屋を出る。ユゥリアが追ってこられないよう、部屋の扉に制限つきで力を働かせて鍵をつけた。


「ちょっと、カヤ! なんてことするの!」


 扉の内側からユゥリアの非難する声が聞こえても、無視する。ふっと息をついたとき、背後に自分と同じ力を感じて振り向いた。


「言えばいいのに」


 アリヤだった。


「なにを言えと?」

「カヤって、本当は鈍感じゃないですよね。臆病で、天の邪鬼なんですよ。国のために力は使うし、城に異変があれば必ず駆けつけるし、母上になにかあれば、このとおり盲目的ですからねえ」


 カヤは眉間に皺を寄せ、アリヤから視線を逸らすと歩き始めた。


「……おれは怒っている」

「ええ、わかりますよ。ぼくはあなたの力を受け継いだ息子ですからね。あなたの考えていることは筒抜けです。さあ、行きましょうか。母上に悪いことをした者には、天罰を与えなければ」


 黙々と歩くカヤの後ろを、アリヤがついてくる。アリヤにつけられている近衛騎士も、それに続いた。


「ついてこなくていい。ひとりで充分だ」

「いやですよ。ぼくは……いえ、ぼくらは、危うくカヤ以外の人間を父親にされるところだったんですから」


 思わず、ふと立ち止まる。


「おれが父親でいいのか?」

「え? なにを言っているんですか? ぼくらにとって父はあなただけですよ。ほかの誰でもありません」


 心底「なぜそんなことを」と不思議そうな顔をするアリヤを見ていたら、やはりこの子はおれの息子なのだなぁと、改めて思えた。


「……そうか、おれでいいのか」

「カヤ?」

「なんでもない。とにかく、行くのはおれひとりで充分だ。おまえは残れ、アリヤ」

「いやです。行きます」


 ここで父親らしく駄目だと言えたらいいのだが、父親らしいことなどしていないのに父親として自分を見てくれている息子のこの姿を見ていると、なんだかとても嬉しくなってしまう。


「……好きにしろ」


 嬉しくて、ちょっと乱暴な言い方をしてしまったが、許して欲しい。

 この息子は、父親らしくないカヤが、実はなにを考えなにを想っているのか、誰よりもわかっているのだ。


「よし。じゃあ行きますか。カヤ、ぼくは思い切り力を使ってみたいのですが、かまいませんか?」

「己れを律することができるのならば」


 アリヤの問いにそう答えれば、アリヤは近衛騎士を振り向く。


「カヤの許可がでました。きみたちはここに残ってください。巻き込まれて怪我をしても、ぼくは責任を持てません。ここに残って、母上と弟妹を護ってください」

「御意。お気をつけて、アリヤ殿下」


 近衛騎士はアリヤを止めず、また自分たちはその場に膝をついて敬礼する。アリヤの力が、国随一であるカヤのそれを受け継いでいると、身を以って経験しているのだろう。賢明な判断だ。

 有能な騎士たちに、カヤも頼んだ。


「ユゥリアと、子どもたちを頼む」

「御意。アリヤ殿下と無事お帰りくださいませ、王公閣下」


 騎士の返答に頷き、カヤは歩を再開させる。

 ユゥリアが自分のためにと用意してくれた家、王宮の奥にひっそりと聳える邸を出ると、広がる闇に身を溶け込ませた。



   *   *




「見て、ヒース。あれがわたくしの夫、カヤ・ガディアン・ユシュベルよ」


 翼もないのに暗闇を飛ぶ夫の姿を目で追いながら、ユゥリアは窓辺に腰かけて、うっとりとする。女官長ヒースは、少しだけ不安そうな顔をしていた。


「だいじょうぶでございましょうか」

「それはカヤの身のことかしら? 心配は無用よ。カヤはとても強いもの」

「それは存じておりますが……閣下があちら側へ行かれるような事態が起きた場合を考えますと」

「あり得ないわ」


 夫が視認できなくなってしまうと、ユゥリアは女官長を視界に捉える。


「カヤは、わたくしのもの。カヤはわたくし以外を想ってはいけないの」

「王陛下……ですが」

「ヒース、それ以上言ったら、ここから追い出すわよ?」


 にっこりと艶然に微笑む。それで女官長は失言したことに気づき、慌てて平服した。


「失礼を申し上げました。お許しください、王陛下」

「下がって、ヒース。あなたなら部屋を出られるから、わたくしをひとりにしてちょうだい」


 夫が出かける前に施していった力は、ユゥリアを部屋から出さないものだ。女官長ならば出られる。しかし、出てしまえばその後入れるのは、夫か子どもたちだけとなる。女官長はしばし躊躇っていたが、ユゥリアが再度「ひとりにして」と言えば、渋々といった様子で部屋を出て行った。


 ひとりになって、ユゥリアは窓に寄りかかると、夫が消えた方向をじっと見つめた。


「大変ね、カヤ。わたくしの夫となったがゆえに、あなたは国と関わり続けなければならないの。わたくしという国と、わたくしという世界と、あなたは生きなければならないのよ。大変ね、カヤ」


 けれど、とユゥリアは笑む。


「わたくしは、あなたがよかったの……あなた以外の男となんて、死んでもいやだったのよ」


 だからあのとき夜這いなどしたのだと、そう言っても信じやしないだろうけれども。


「ごめんなさいね、カヤ……それでも、あなたが好きなのよ。あなた以外、要らないのよ」


 自分が王族などではなかったら、別の未来があったことだろう。だが、そうすると夫カヤと出逢うことはなかった。

 ユゥリアは自分が王族であってよかったと思っている。王族であったから、カヤと出逢えた。その権力を乱用して、カヤを夫とすることができた。カヤとの間に、四人もの子どもたちを授かることができた。

 たとえカヤが非常識なほど鈍感であっても、ユゥリアがどれほどカヤに傾倒しているか、さすがに気づくはずだ。


「わたくしのために、飛べもしない空を飛ぶあなたが……わたくしはとても好き」


 王族や貴族の半数は翼種族だ。翼があり、空を飛べる。鳥の姿となり、国を、世界を見つめることができる。

 対してカヤは平民。翼種族である王族や貴族とは縁すらない。ただ強大な力を有して産まれたから、魔導師となって城に召し上げられただけだ。いくら魔導師という称号を持っていても、王族や貴族と関わることなど一生なかっただろう。

 ユゥリアは、自分の我儘でカヤを、王族の中に引きずり込んだ。好きだったから、愛してしまったから、どうしようもなくなってカヤを自分のものにした。

 今でも、カヤにアリヤが息子だと教えたときに見せたカヤの顔を思い出すと、少しだけ胸が痛む。後悔はしていないはずなのに、心が痛む。

 それでも、自分が選んだことなのだ。


「愛しているわ、カヤ……だから、あなたは自由にしていいのよ」


 恨んでもいい。嫌ってもいい。なんらかの感情を自分に向けてくれるなら、忘れないでくれるなら、なんだっていい。


 ユゥリアは目を瞑ると、いとしい夫の無愛想な顔を思い出す。

 今も昔も、裏では『堅氷の魔導師』と呼ばれ恐れられているなど、カヤは思ってもいないだろう。

 ふふ、と笑いが込み上げた。


「あなたの笑った顔を見たいわ……きっと皆、驚くわよ」


 氷のようだと言われるカヤが、実はとても暖かく笑うのだと、ユゥリアは知っている。その笑顔が、欲しかった。


 カヤを想いながら、こつん、と窓に額をあてたとき。

 唐突に、身体からなにかが抜けた気がした。


「さすがね、わたくしのカヤ」


 とたんに重くなった身体は、ユゥリアをその場に拘束する。カヤを忘れる呪いをかけられている自覚はあったが、陳腐なそれにそれほど負荷を感じていなかったので、少しだけ驚いた。


 ずるりと、窓辺から落ちかける。


「ユゥリア」


 床に倒れる前に、いとしい声を聞いた。


「早いのね、カヤ」


 ついさっきのことなのに、随分と早い帰還だ。


 閉じていた瞼を開けると、弛緩したユゥリアを抱きとめてくれたカヤが、無愛想な顔でユゥリアを見つめていた。しかし、森のように深い緑の双眸は、ユゥリアをとても心配して揺れている。


「だいじょうぶよ」


 言いながら、ユゥリアは手を伸ばし、カヤの頬を撫でる。


「あなたがわたくしを忘れない限り、いえ、忘れてしまっても、わたくしはあなたを愛しているわ。だから、だいじょうぶよ」

「ユゥリア」

「ええ。わたくしはユゥリア、あなたを騙して夫にした、最低の女。けれど、後悔はないの。あなただけが、わたくしの生きる意味」


 だから、あなたは自由にいていい。

 どこへ行ってもいい。

 隠れてもいい。

 逃げてもいい。


「愛しているわ、カヤ」

「……ユゥリア」


 ふと、珍しくカヤのほうから、ユゥリアを抱きしめる。


「夢を見てもいいか」

「ゆめ?」

「おれは世界が怖い。人間が怖い。すべてが……恐ろしい」


 初めて吐き出されたその弱音に、ユゥリアは驚いた。

 カヤが臆病者だというのは知っている。それゆえに鈍感なのだということも、わかっている。だがそれらが、世界に恐怖を憶えてのこととは知らなかった。


「だが、もっと恐ろしいものを、おれは感じた」

「あなたに恐怖を与えるものはわたくしが排除するわ」


 なにがそんなに恐怖だったのか。そんなものは、排除してくれる。


「きみだ、ユゥリア」

「……え?」

「きみがおれを忘れる、そのことが、とても恐ろしかった」


 抱きしめてくる腕が、ぎゅっと強くなった。


「夢を見たい、ユゥリア……おれはきみのものだ、だから……きみがおれのものだという夢が、見たい」


 夢を見させてくれ、とカヤは囁く。その瞬間に、ユゥリアはカヤがこの部屋を出て行くときに言ったことを思い出した。

 カヤは、今も昔もずっと、自分はユゥリアのものだと言った。初めて聞く、カヤの本音だったように思う。

 その続きを、今聞いているのだ。


「夢を見てもいいか、ユゥリア」


 今さらだ、と思った。思ったから、ユゥリアは笑った。


「夢にしないで」


 これが夢なら醒めてしまう。醒めて欲しくないから、夢にしないで欲しい。


「あなたはわたくしのもの、そしてわたくしはあなたのものよ、カヤ」

「……おれで、いいのか」

「言ったでしょう。わたくしは、あなた以外要らないのよ」


 そう、たとえ子どもたちでも、ユゥリアを留める存在にはならない。子どもたちは、家族に縁がないというカヤのために、そして自分に繋ぎとめるために、存在しているのだ。ひどい女で、ひどい母親だと思う。


 それでも。


「カヤが、わたくしの世界よ」


 一国の王としても失格だろう。

 それでもいいのだ。


「カヤがいるから、わたくしはわたくしでいられるのよ」


 耳許に語りかければ、ふと、抱きしめてくれていたカヤの身体が少し離れた。


「ユゥリア」


 森のように深い緑の双眸に、見つめられる。言ってくれるのだろうかとその言葉を期待して見つめ返したら、瞳を細めたカヤが、とても優しく、そして暖かく、微笑んでくれた。カヤの心を知らない者たちに見せてやりたい、とてもぬくもりある笑みだ。


「カヤ……」


 どうしてだろう。

 カヤのこの笑みを見ると、胸が締めつけられて、切なくなる。聞きたかった言葉よりも、この笑みを向けられていることのほうが、幸せに思えてしまう。


「ユゥリア」


 名を囁く声も優しい。

 やっぱり自分は、この非常識なほど鈍感な魔導師が、とてもいとしい。

 それ以外、考えられなかった。


「好きよ。愛しているのよ、カヤ。ねえ、カヤ」

「ああ」


 素気なくても、返してくれる声がある、その幸せにユゥリアはカヤに腕を伸ばしてしがみつき、涙をこぼした。



   *   *




 貴族や平民から力のある者が産まれた際、その全員が城に召し上げられ、魔導師団に所属する。稀な力を持った者の集まりであるので、それほど多くはない人で構成されている師団は、いつでも人手不足だ。

 カヤは老年の師団長の下で、行方を暗ませていた数か月分の説教を受けながら、そのほとんどを聞き流して仕事をしていた。仕事といっても魔導師団に任せられた力を使った作業の書類整理であるので、それほど手間はかからない。本当に整理しているだけだ。しかし、その人員を確保できるほどの組織でもないので、この役割は師団の中では処罰の扱いである。


 昼になって漸く師団長から解放され、書類整理も午後に回されると、カヤは王宮の奥にひっそりと佇むわが家へと帰る。


 そうして、逃げたい、と思った。


「五人めよ、カヤ!」


 と、ユゥリアが抱きついてくる。


「なんのことだ」


 と返すと、ユゥリアはそれはもう嬉しそうに笑った。


「あなたとわたくしの子どもよ」


 聞いた瞬間に、逃げ出したくなったのである。


「いや、待て……それは」


 やることは確かにやったが、それを知るには早過ぎやしないだろうか。


「感じないの? わたくしは感じるわよ。ここに、あなたの力があるの」


 ここに、とユゥリアはカヤの手のひらを己れの腹部に導く。触れてから、確かに感じるその力に、カヤは顔を引き攣らせた。


「いつのときの子だ……」


 だいぶ強い、とはいえアリヤほどではないが、確かな力。そろそろ大きくなってもおかしくない。


「いつだったかしらねえ……ああ、あれね。ほら、あなたが久しぶりに帰ってきたとき、わたくしに襲われたでしょう? そのときね」


 さらりと襲ったことを白状したユゥリアに、眩暈がする。確かに数か月前も、カヤは夜這いされていた。ユゥリアであることはわかっていたが、その行動に呆れてなにも言えなかったので忘れていた。


「頼むから、もうおれを襲うな」

「いやよ。逃げるじゃないの、カヤ」


 どうしてふつうに誘惑しないのだ。いくら非常識なほど鈍感だと言われていても、ユゥリアの誘惑くらいならわかる。それに乗ることだってできる、健全な男なのだ。


 抱きついてくるユゥリアに、ため息がこぼれる。


「わかった。寝室を一緒にすればいいんだ。そうだ。最初からそうしていればよかったんだ」

「あら、あなたの寝室はわたくしと一緒よ?」

「は?」

「わたくしに帰る暇がないだけよ。この家に夫婦の寝室は一つしかないの。それに、あなたがいない寝室で、わたくしがひとりで寝るなんてあり得ないわ」


 それはつまり、と顔がさらに引き攣る。

 カヤはべつにユゥリアの夜這いを受けているのではなく、そこが夫婦の寝室であるだけで、ユゥリアが寝台に潜り込んでくるのは当たり前だということである。


 逃げるのはやめたほうがよさそうな気がしてきた。

 いや、逃げるというか、仕事で外に出ると、どうしてももう少し外を見て歩きたくなったり、ひとりきりで過ごしてみたくなったりするのだ。その結果、数か月おきに数か月姿を暗ませているだけである。

 人間は、世界は、カヤを拒絶する。だから恐ろしい。けれども、世界は美しいのだ。それを見つめたい気持ちが、カヤを城から外へを促す。


 しかし今は。

 ユゥリアが子を宿しているなら、その子が産まれるまではそばにいたいと思う。

 初めて、そう思った。


「……ユゥリア」

「なぁに?」

「今度産まれてくるわが子には、おれが名づけたい。いいか?」


 ふっと肩の力を抜いて微笑みかけると、頬を朱に染めたユゥリアは、眩しいほど美しい笑みを返してくれた。


「ありがとう、カヤ。愛しているわ」

「……ああ」


 ユゥリアを抱きしめて、カヤはほっと、息をついた。








*カヤ・ガディアン・ユシュベル 30代前半くらいの歳

 平民出の魔導師。ユシュベル王国の王女ユゥリアと結婚し、息子アリヤが5歳くらいになるまでそれを知らなかった、とんでもなく鈍感な魔導師。アリヤのほかに息子はあとふたり、娘もひとりいる。放浪癖と行方不明癖(?)がある。


*ユゥリア・ホーン・ユシュベル 30代半ばくらいの歳

 ユシュベル王国今代女王。王女のときに惚れた魔導師カヤと強引に結婚、子どもを授かる。カヤを騙して(実はそういうわけでもない)、息子アリヤが5歳くらいになるまでそれを告げなかった。カヤに「愛している」と言わせたいが、未だ言わせられていない。


*アリヤ・ガディアン・ユシュベル  10代後半くらいの歳

 ユシュベル王国第一王子。カヤとユゥリアの息子、第一子。カヤの魔導師の力を強く受け継いでいるので、カヤがどこにいようともその位置を正確に割り出すという特技(?)を持っている。両親のことを面白がり、笑いながら見守っている。




思いつきで描いた物語をお送りいたしました。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


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