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Children of Sanuma 〜first voice〜

作者: momo
掲載日:2026/10/01

 朱里と結婚することになった時、大地は朱里の両親からたった一つ課された約束があった。

 それは、「朱里がもし喋り出しても、普通に接する」ということである。

 「……どういうことだべ?」大地は朱里の両親に尋ねた。

 朱里の母は神妙そうに答える。

 「あのな、朱里が喋んねえ原因はわかってねえんだ。それこそ全国、あっぢこっぢさ病院巡ったけど、原因はついぞわかんねがっだ。だから心因性だろうっていう医者様の見立てだ。体に異常がなけりゃあ心が原因って算段だべ。だかんな、逆に言うと突然喋り出す可能性も、なくはねえんだ」

 ほお、と大地は初めての情報に感嘆した。

 「そしてもし結婚生活の中で、何か喋り始まっても、えらい魂消て見せたり、喜んだり、もう一回言ってみろとかっつったり、とにかくほっだな特別な反応しでは、朱里がまた喋れなくなるがら、とにかくもし喋ったとしても普通になんもねがってように接してくろ、っていうのが医者様から言われでたことだったんだ。残念ながら、その機会は私らの娘であるうぢにはながったけどな……」

 母親はそう言って寂しげにその長い睫毛を伏せた。

 「……わがっだ」

 「わしらから大地にお願いすっことはこれ以外には一切、ない。何せ喋れねえ、子も成せねえ朱里を嫁に貰ってくれるってだけで、末代まで礼を言っても言い切れねえぐれえなんだから」そう言って父も深々と頭を下げた。

 「ほっだら真似はやめでくろ。おれは朱里が好きだから、朱里と一緒にいてえから夫婦になるだけだ。こちらこそこっだなおれを選んでくれて、朱里にはえらいありがてえと思ってる」

 沈黙が訪れる。

 母は大地の言葉に改めて滲んだ涙を拭った。

 「……約束すべ。朱里が喋り始まっても、おれはなんてことねえって顔して過ごすべ」

 「よろしく、頼む」朱里の父は絞り出すように言った。

 そんな日が本当に訪れるのかは誰にもわからない。

 約束こそしたものの、大地も物心ついたころからいつも一緒にいる朱里が、何かを喋り始めるなどということは到底想像もつかず、いつしかこの約束は頭の片隅に追いやられてしまった。


 そうして、平凡な中にも幸福に満ちた結婚生活を数年経たある日のこと。

 大地はいつものように朝から梨畑の剪定、害虫駆除に精を出し夕方に家に帰ってきた。

 帰れば風呂と夕飯ができていて、朱里が温かく迎えてくれる。

 今日は焦げ付いた鰆の京焼、黒くなったカボチャの煮物、形状を失った豆腐の入った味噌汁。切れていないイカが入った酢の物。ともあれ、大地にとってはこの上ない愛情の籠もった至上の夕飯である。

 「……あいづらよぉ、旨い梨がどれかわがっでんだど? あんな毛虫の小っちぇえ分際でよお」

 朱里は楽しそうに、大地の虫に食われた梨の話を聞いている。

 「おお、こらいい出来だべっつってしっくり返したら虫野郎の穴めど開いてんだかんな! なんでわがんだっぺなあ? ハクビシンの野郎もカラスの野郎もそうだっぺ。スイカ、大きくなってさあ食えるどってタイミングでがぶりだかんな!」

 「うん」

 大地は一瞬硬直した。

 今、うん、と聞こえた気がする。

 どこから?大地は部屋を見渡す。目の前には自分のなんでもない話に耳を傾けてくれている愛すべき妻、がいた。

 大地の脳裏に、結婚時の約束が光のように瞬時に蘇った。

 ーー朱里がもし喋り出しても普通に接すること

 カッと体中が熱を帯び出す。

 「む、む、虫けらも、見た目によらず実際賢いべ。い、い、いい一寸の虫にも三分の魂、あれ? 五分か? 十分か?」

 自分でも何を言っているのかわからない。

 朱里は笑顔で「5」とテーブルに置かれたタブレットに書いた。

「ほが。……一寸の虫にも五分の魂……ほだな」

 大地はごくり、と生唾を飲み込んで、突如思いついたように一気に茶碗の中の飯を掻き込んだ。

 咀嚼しながら考える。

 もしかしたら聞き間違いの可能性もある。もしくは幻聴。耳鳴り。

 否、でも、たしかに聞こえたのだ。

 米を飲み込むと、大地は逡巡の末に意を決して聞いてみた。

 「……あ、あ、あの、あのよ。……おめ、さっき『うん』っつったが?」

 朱里は真顔で小さく頷いた。

 大地は思わず仰け反った。しかしすぐさま全力で平静を装う。約束は、約束だ。違えてしまったらそれは約束ではない。

 懸命に自身を落ち着かせ、今度は味噌汁を啜った。何て言おう? 質問しっぱなしではよくない。

 ーー喋れて良かったな

 否、だめだ。喋れなかったことが良くなかったということになってしまう。朱里を否定することは断じて、したくない。

 ーー何で突然喋ったんだ?

 否、これもだめ。喋れねえことに理由がなかったのに、喋れたことに理由があるわけない。

 ーー無理して喋んなくていいど?

 否、人生で初めて喋ったのに、それを否定することなどあってはならない。

 大地の箸が震える。

 「は、は、初めておれ、おめの声聞いたな」努めて笑顔で言った。

 朱里は再び小さく頷いた。

 もうこれ以上話題がない。これに匹敵するにはどの話題もあまりにも瑣末すぎる。鼓動が高鳴る。はっきり言って晩飯、どころではない。

 許されるならば全力で砂沼一周走り回って、皆さん朱里が、喋りました! 朱里が、喋りました!と、チラシぶんまいて叫び回りたい程である。

 ところで、朱里はどう思っているのだろう? 大地は苦しい鼓動を抑えつけなたらちら、と朱里を見た。

 いつもと同じに見える。特に驚いている風でもなければ嬉しがってる風でもない。

 ……そうだ、これを見習わなければ。

 「……旨いな、この鰆。カスミで買って来たのが?」

 朱里はまた頷く。

 「やっぱ、魚は味噌焼きだべな」

 朱里は首をかしげながら、

 ーー今朝は魚は干物って言ってた

 「いやいやいや! 朝は干物、夜は京焼だべ! あっはははは!」

 とてつもない緊張感で夕飯を終えると、朱里はいつものように皿を片づけてそのまま風呂に入った。風呂のドアが閉まるや否や、大地は引っ手繰るようにスマホを手に取る。

 真っ先に掛けた連絡先は、海里であった。

 通話が始まるとすぐに、

 「あんちゃんあんちゃん!大変だべ!」

 「おお、大地か、どうした?」

 「しゅ、しゅ、朱里の声が出だ!」

 息を呑む音が聞こえる。

 「ほ、本当が?」

 「本当だ! おれがな、今、飯食いながらつまんねえ話してたんだよ。梨食われてスイカ食われてっつうどうでもいい話よ? そしたらな、朱里が『うん』っつったんだ! 『うん』って! ……あのな、おれもおばけか何かの聞き間違いかど思って、朱里に落ち着いて聞いてみたんだ。いや、極力びっくりしねえで、慌てねえで、ちゃんとそこはしたど? ほんで、おめ、さっき『うん』っつったが? って。ほしたらな、頷いたんだ!」

 「……そ、そらあ、その一回だけが? 今朱里は何してんで?」電話の向こうでも慌て出してくる。

 「いいいい、一回だけだべ。今は風呂入ってる。あと二、三十分ぐれえは浸かってっぺ」

 「わ、わがっだ。わがっだ。おれから父ちゃんと母ちゃんらには連絡しどぐ。おめ、いいから落ち着けよ、朱里にこっだに慌ててんの知られてはならねえからな」

 「わがっでる!」

 そうして電話は終わった。

 大地はソファに座りながら、風呂場から聞こえてくるシャワーの水音に耳を傾ける。

 ーー朱里が喋った。なぜ喋ったろう。さすがにおれの話が面白かったとは思えねえ。いづもの農業の話だ。はっきり言ってどうでもいい話題だ。だとしたら何でだろう? 今日は朱里は家にいて、カスミに買い物さ出かけて、夕飯を作って風呂掃除をした。きっと作曲もしていただろう。でもとにかくいつもの日々。何が要因なのだ? わからない。

 これから朱里は喋り出すのだろうか? ふと大地はそんなことを思いなす。

 ーーうん

 あの声を思い出す。至極小さな声、細い声、少し高いかすれたような声だった。あんな声をしていたんだな、朱里は。

 大地はソファに身を持たせながらゆっくりと目を閉じ、朱里の『うん』を幾度となく反芻していた。


 そして、夜。

 朱里はベッドに入り寝ているのだか起きているのだかわからないが、とにかく背を向けてじっとしていた。

 朱里は何を考えているのだろう、大地は朱里の長い黒髪を視界に入れながら胸中を思いやる。

 朱里は、小さい頃父母と共に全国あちこちの病院に行って、検査やらリハビリやらを行い発声の治療を受けて来た。

 でもある時、朱里が病院に行きたくないとの意思を表明したのだと聞いている。病院に向かうべき日に、玄関で一歩も動かなくなったのだという。朱里は別に、病院通いをしてまで喋れるようになりたいとは思っていなかったのだ。

 それは大地も一緒で、その時のことをまた一緒に遊べるようになって嬉しかったとしか記憶してはいない。

 大地にとって朱里は喋れても喋れなくても、どっちでも良かった。それは朱里に興味がなかったというのではなく、むしろ逆である。朱里であれば、喋れても喋れなくてもよかったのだ。さらに女の恰好をしていようが、自分の好きな虫と運動が苦手であろうが、それもこれも別にどうでも良かった。

 朱里は誰よりも温かい心を持っていて、きれいな目をしていて、頑張り屋だけれど泣き虫で、それでいて確固たる自分というものを持っていた。そういう朱里が好きだった。それ以外の要素諸々は、どうでも良かった。

 ーー大地はそこではっとなった。

 朱里が喋ろうがなんだろうが、大騒ぎすることではない。朱里は朱里である。何も変わらない。

 「朱里、起きてっか?」

 朱里はくるり、と振り返った。起きていた。

 「あのよ、おれ、考えたんだけど、喋っても喋んなくてもおめはおめだどな」

 朱里は瞬きをして、小さく頷いた。そして布団の中で大地の手をそっと握ってきた。そうだ、と言わんばかりに。

 「おれはな、おめの優しくて頑固で、頑張り屋で自分を持ってるところが好きだ」

 朱里は満足げにそっと目を閉じて頭を大地の腕にもたれた。

 大地もほうと長い吐息を漏らした。


 その夜、大地は不思議な夢を見た。

 いつもの蔵で、いつもの四人で曲の練習をしている。

 「おめ、そご走ってっと? テンポ正確にしなきゃだいだっぺよ」その真ん中で朱里がきびきびとルアンに指示しているのである。

 朱里が喋っている。大地ははっとなって思わず目を見開いた。

 「ここは特に大河としっかと合わせでな。しみじみやってくろ」

 「うーん、こら難儀だあ。脚攣っちまうべ」そう言ってルアンはいつものようにツーバスを高速で踏みしだく。

 「筋トレさしで、脚さしっかり鍛えてくろ」朱里はそう言い放つと、今度はくるり、と振り返って大地を見つめた。

 「おめも最初のリフ、頭の拍揃えねえどこの曲はかっこよぐなんね。しみじみ意識してくろ」

 大地は思わず噴き出す。

 「おめ、茨城弁全開でねえべか」

 「当たり前だべ? 先祖何代下妻さいるど思ってんで?」

 ーーたしかに。大地は納得する。

 「おれんぢも江戸時代から続く農家だ」

 「似たようなもんだべ」

 大地は頷く。そしてずっと気になっていたことを言った。「おめ、喋れるようになったんだな」

 朱里は晴れ晴れとした笑顔を浮かべ、「喋る時も喋らね時もある」と言い放った。

 「ほが」大地は頷いた。「どっちでもいいべ」

 「ほだ」

 再び朱里はルアンに向き合って、ツーバスの踏み方だの音の強弱だのを進言している。

 ルアンはいつものように頭を抱えたり、「ほっだのできっかよ!」と文句を言ったりしている。大河もうんうんと一緒に話を聞きながらベースを合わせている。

 ーー何も変わっていない。

 大地は納得する。おればかりでねえ。誰も朱里が喋り出そうがなんも変わらねえ。ならば余計に朱里が無理すっことねえ。好きにすればいい。


 気づけば朝だった。

 大地は両腕を心地よく伸ばしながら、隣でまだ枕を抱えて眠っている朱里を見る。

 何も変わらないいつもの朝。土鳩がホーホー、ホホッホーと外で鳴いている。雀も負けじとちゅんちゅん鳴いている。

 ベッドから起き出すと、朱里がゆるゆると瞼を開いて大地を見た。

 「おはよう」大地は言った。

 朱里は小さく頷く。

 いつもの朝だった。朱里が喋ろうとも喋らずとも、何も変わることはなかった。夜が明ければ朝は来る。

 「畑さ行ってくっぺ」

 朱里はまだ眠たげに目をこすった。

 「昨日よ、新曲練習してる夢さ見だ」大地はそう言って小さく噴き出す。

 「おめ、めちゃくちゃ喋ってだ」

 朱里は苦笑しながら枕元のタブレットに、ーーなんて言ってた? と書いた。

 「俺とルアンにしみじみやれどか、そんな感じ」

 朱里はふふ、と笑った。

 ーーからだ、のどがやわらかくなったきがする

 「へえ」

 ーー声が出そうな感じがしてる

 「ほお」

 大地は腕組みした。「何でだっぺな? 急に」

 ーーわかんない 心と体がやわらなくなってる気がする

 それがどういう感覚なのか大地には全くわからなかったが、「ま、きっといいことなんだっぺ。固まってるより柔らかい方が生きてぐのにも楽ちんだかんな」と言ってベッドを降りた。そして、ふと思いついて、

 「おめさ、もし、これからいっぱい喋れるようになったら何言いてえ?」

 朱里はいたずらっぽい笑みを口の端に浮かべ、

 ーー口げんかしたい

 と書いた。

 「口喧嘩? 誰と」

 当然でしょとでも言うように、大地を指さす。

 「おめ、俺と口喧嘩してえのが?」頓狂な声で言った。

 朱里はどこか自慢げに頷く。

 「……ほが」大地は目を瞬かせる。

 ーーじゅくねん夫婦っぽい

 「そんなもんか」

 大地は「熟年夫婦」「熟年夫婦」と反芻しながら着換えを始めた。

 簡単な朝食を採り、家を出てすぐのところにある梨畑で、大地は旭日の光を枝葉の間から浴びながら、時折眩げに目を細めつつパチン、パチンとハサミを持って枝の剪定をしている。

 胸中には今朝方の朱里のいたずらっぽい笑みが広がっていた。

 ーー口げんかしたい

 朱里はどんなことを言いたいのだろう。

 「おめ、靴下は丸めねで洗濯機さ入れろっつったっぺ!」

 「掃除機かけんだから、こっだらどこで寝っ転がってねえでくろ!」

 「ここんどごまいんちビール飲んでるでねえが! ちっと減らさねど体に障っぺよ!」

 大地は遂に一人で笑い出した。

 だめだ、これでは喧嘩にならない。俺はそんなことを言い出したら、朱里を間違いなく抱きしめる。接吻だってする。

 「ちゃんと喧嘩してくろ!」朱里はなおさら拗ね怒るかもしれない。

 「だいだ、……できね」

 「できねえでねえべよ! じゅくねん夫婦としての自覚が足んねえべ!」

 大地は幸福な想像に笑いを堪えるのに苦心した。


 その日畑ではたくさんのきゅうりとピーマンが採れたので、夕方それらを携え大地と朱里は朱里の実家へ行くことにした。

 「あらあら、新鮮だごと! ピーマンこっだにつやつやして」台所で朱里の母は感嘆する。

 「ほだよ。きゅうりも棘ついてっから気を付けてくろよ」大地はそう言ってどさり、と野菜の入った袋をテーブルに置いた。

 「こっだにたくさん! ありがとな。ほだ、これで夕飯のサラダ作っぺ。おめらも呼ばれてけ」

 朱里は端からそのつもりであったとでもいうように、リビングのソファにどっかと座り込んだ。

 「ありがとう」

 こうして朱里の家で夕飯をご馳走になることは少なくない。

 やがて朱里の父も帰ってくる。離れにいた祖父、と祖母もやってきて賑やかな夕飯となった。

 テーブルには大地の持って来たピーマンやらきゅうりを使った豪勢なサラダを中心に、朱里の母とお手伝いの珠子さんが作った心づくしの和食が並ぶ。

 近所の魚屋から取り寄せた刺身に大根の煮物、漬物、酢の物、あっという間にテーブルは隙間なく埋まっていく。

 「大地と朱里が夕飯に来てくれっと賑やかでいいべ」祖父は満足げに頷く。

 「ほだいな。今度大河とルアンも呼んでこーな」朱里の母が言った。

 「喜ぶべ」大地が笑顔で答える。

 「うん」

 聞いたことのない甲高い声に、一瞬場が静まり返った。

 ーー朱里の声だった。

 母は目を見開いたまま、テーブルを凝視している。

 父は箸を持ったまま固まっている。

 祖父は椅子の手すりを握りしめたままわなわなと震え、祖母はぽかんと口を開けている。

 大地は彼らを一瞥すると必死に頭を巡らせた。ごくり、と生唾を飲み込んで、

 「と、父ちゃん、ビールさやっづけたらどうで?」とどうにか声を絞り出した。

 「あ? ああ。……ほだな! ビール、ビールあったべ、ほれ、お中元で送ってもらったやづ」

 母もはっとなって目を瞬かせ、

 「あ、……あったな。だ、大地もじいちゃんもやっづけろ。な」

 そそくさと立ち上がった。

 朱里は落ち着いた風で浅蜊の味噌汁をずず、と啜っている。

 しばらくすると、朱里の母がやたら赤い目をしてビール瓶とジョッキを持って来た。

 「ほ、ほれ、持ってきたど。注いでやっぺ」

 ジョッキを三人の前に出し、注ぐ手が細かく震えているのを大地は見た。

 「……い、いんやあ、賑やかでいいな」祖父は再び同じことを呟く。

 「み、みんなで食べると旨いかんな」祖母もそう言って口元をおさえ、ほほ、と笑った。

 刺身は旨いはずだった。採り立て野菜のサラダも旨いはずだった。でもそんなものは二の次、三の次である。

 ーー朱里がしゃべった。また、しゃべった。

 今度は朱里の声が朱里の家族全員の前で、披露された。もうこれは夢でも幻でも、ない。

 大地は鉛のようなビールを一口、飲み込む。

 でも、朱里が喋ろうとも喋らぬとも、朱里は朱里だ。そう結論付けたはずではないか。大地はそう自身に言い聞かせる。

 豪勢な夕飯は、その本来発揮するはずだった威光を朱里の声の前に一切の価値を喪い、ただ煌びやかにテーブルを彩っていた。

 誰も何も朱里の発話については言わなかった。朱里もそれで普通だった。タブレットにーー里芋おいしい 持って帰っていい? などと書き、母は変に上ずった声で「タッパーに入れてやるからいくらでも持ってけ」、と答えた。

 そうして夕飯を食べ終えると、来た時以上の土産を持たされ、大地と朱里は帰途に着いた。

 ビールで少々陽気になった大地は、

 「夜の砂沼もいいもんだな」と呟く。

 沼沿いにぽつり、ぽつりと電灯が点いていて、水面をきらきらと照らしていた。橋を通りかかるとその中央では「飛翔」と名付けられたブロンズ製の群像が夜空を見上げていた。

 「静かなもんだな。鴨も鮒も、夜は寝てんだっぺか」

 「うん」

 大地ははっとなった。また、朱里が「うん」と言った。

 だいぶ回った酒のせいか、今度は理性を抑えることができなかった。

 「おめ、また『うん』っつった!」

 朱里と真正面から向き合う。朱里は微笑んでいた。その笑顔に背中を押される。

 「あのな! 実は、おめが喋ってもびっくらこいたり、も一回言ってみろっつったり、そういうのはしちゃだいだって、結婚すっ時おめの父ちゃん母ちゃんから言われてだんた!」大地は前のめりになりながら、ぺっぺぺっぺと吐き出すように言った。「だから、……なんも言えねがっだ。でも、やっぱし俺はおめの声聞けて、嬉しい。でもな、喋んなかったのが嫌だったってわけではねえんだ。ほっだごどではなくって、……でも、なんか声が聞けて今すんげ、嬉しいんだ。何でだべ」

 朱里は大地の手を握り、歩き出す。横顔でどこか自慢げに笑っていた。

 ーーそれは私のこと全部好きだからじゃないの?

 大地は強く強く朱里を抱きしめた。


 いつか喋れるようになったら、そんな想像は朱里にとっても胸を躍らせるものであった。

 引き出しの奥にしまい込まれた小さな手帳には、こんなメモがあった。

 タイトルは、「いつか話せるようになったら」

 ところどころ消されたり付け足されたりしている。何年もかけて推敲を重ねている様子がある。

 

 ーーママへ ありのままの私を育ててくれてありがとう ママは人生のお手本

 ーーパパへ 大切に育ててくれてありがとう パパの優しさのおかげで今のわたしがあります

 ーーおじいちゃんへ 温かさ聡明さ強さ 世界一尊敬している自慢のおじいちゃん 大好き

 ーーおばあちゃんへ 日舞、生け花、礼儀を通じて世界の美しさを教えてくれてありがとう 女性として生きる根幹を作ってくれた

 ーー海里へ お兄ちゃんのお蔭で世界がぐんと広がりました 私に生き甲斐を教えてくれてありがとう

 ーー大河へ 世界一優しくて賢い私の自慢の弟 これからもよろしくね

 ーールアンへ 世界一かっこいいドラマー 私の音を世界に轟かしてくれてありがとう 一緒にがんばろう

 ーーファンのみんなへ ありがとう(ステージから言う!)


 そして最後のページ

 ーー大地へ 結婚してくれてありがとう 世界一の王子様 まいにち幸せです これからもずっと仲良く暮らそうね

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