余りある美貌の悪役令嬢は、断罪の夜にすべてを奪う
王宮の大広間に、夜蛾が迷い込んだ。
開け放たれた高窓から、湿った夜風とともに滑り込み、金の燭台のまわりを頼りなく舞う。白い羽ではない。黒に近い、薄茶の翅。火に寄るにはあまりに脆く、闇に戻るにはあまりに遅い。
貴族たちはそれを見て、誰かが小さく笑った。
「まあ、蛾だわ」 「不吉ね」 「今夜にふさわしいじゃないか」
ささやきは、絹の袖と宝石の間を渡っていく。
大広間には、王都中の貴族が集められていた。王太子殿下主催の夜会。名目は、隣国使節を迎えるための祝宴。けれど、誰もが本当の理由を知っていた。
今夜、毒薔薇が落ちる。
王太子アルベルト殿下の婚約者、エリザベート・ローゼンヴェルク公爵令嬢。美しすぎる悪女。男を惑わせ、令嬢たちを泣かせ、王太子を意のままに操る女。その女が、ついに裁かれる。
そういう夜だった。
楽団の音が一度だけ揺れた。大広間の扉が開いたからだ。
誰かが息を呑んだ。その音は一人分ではなかった。百人分の息が、同じ瞬間に喉で止まった。
エリザベート・ローゼンヴェルクが、扉の向こうに立っていた。
深紅のドレス。黒いレース。腰から流れる布は、血を吸った薔薇の花弁のように重く、歩くたびに床の光をさらっていく。白い喉には、大粒のルビー。耳元にも、同じ赤。
けれど何より赤いのは、唇だった。
笑っているわけではない。ただ閉じているだけの唇が、まるで身体の内側から熱を帯びているように見えた。
人は美しいものを見ると黙る。けれど、彼女を見る沈黙は違った。綺麗だから黙ったのではない。怖いから、声が出なかった。
エリザベートは、その沈黙の中を歩いた。
一歩。 また一歩。
深紅の裾が、真紅の絨毯の上で溶ける。彼女へ注がれる視線は、まるで矢だった。いや、矢より熱い。
男たちの目。女たちの目。憎しみ。嫉妬。好奇心。欲。嘲り。期待。彼女が崩れる瞬間を見たいという、品のよい顔の奥に隠した飢え。
そのすべてが、彼女の肌へ突き刺さる。
エリザベートは、痛がらなかった。むしろ、視線を浴びれば浴びるほど、彼女は美しくなった。
燭台の火が揺れる。夜蛾がまた、火のまわりを回る。
誰かが囁いた。
「あれが……」 「毒薔薇」 「美しい」 「怖い」
エリザベートの唇が、ほんの少しだけ上がった。
聞こえていた。
もちろん、聞こえていた。
大広間の奥。王太子アルベルトは、白いドレスの少女を伴って立っていた。
リリア・フローレンス。男爵家の娘で、聖女候補。栗色の柔らかな髪。潤んだ瞳。細い肩。守られるために生まれたような少女だった。
彼女はアルベルトの袖を、そっと握っている。弱々しく。控えめに。けれど、その指は離れない。
リリアはエリザベートを見て、青ざめた。怯えているように見えた。
可哀想な少女。悪女に虐げられた聖女候補。その役が、彼女にはよく似合っていた。
エリザベートはリリアを一瞥した。
ほんの一瞬。
リリアの肩が跳ねる。
その反応を見て、大広間の空気がわずかに動いた。
やはり。
リリア様は怯えている。
やはり。
エリザベート様は恐ろしい。
誰も言わない。けれど、全員がそう思った。
エリザベートは歩みを止め、王太子の前で淑女の礼をした。
「ご機嫌よう、アルベルト殿下」
その声は、甘くなかった。冷たくもなかった。けれど、耳に残った。
アルベルトは一瞬だけ言葉を失った。彼女を見ないようにしていた。今夜は見ないつもりだった。断罪するのだ。婚約を破棄するのだ。もう、彼女の視線に怯える必要はない。
そう思っていたのに。
目の前に立ったエリザベートは、アルベルトの記憶よりも美しかった。それが、ひどく腹立たしかった。
なぜ、泣いていない。
なぜ、震えていない。
なぜ、自分がこれから何を告げるか知っているような顔をしている。
アルベルトは喉を鳴らした。
「エリザベート・ローゼンヴェルク」
楽団の音が止まった。大広間のささやきも止まった。燭台の火だけが、かすかに揺れている。
「私は、君との婚約を破棄する」
誰かが小さく息を呑んだ。リリアがアルベルトの袖をさらに強く握った。
貴族たちの目が、エリザベートへ集まる。
泣くか。 怒るか。 崩れるか。
毒薔薇が、ようやく花弁を散らすのか。
エリザベートは、少しだけ首を傾げた。
「それで?」
アルベルトが止まった。
「……それで、とは?」 「婚約破棄でしょう? 聞こえておりますわ」
彼女は、ほとんど退屈そうだった。
「続きを」
アルベルトの頬に血が上った。
この女は、いつもそうだ。いつも自分の一段上にいる。こちらが剣を抜いたつもりでも、彼女はその刃の長さまで見終えている。
「君は、リリア・フローレンス嬢に対し、数々の嫌がらせを行った」
エリザベートはリリアを見た。
リリアは俯く。
「階段から突き落とそうとした。ドレスを裂かせた。茶会では毒入りの菓子を出した。さらに、私に近づく令嬢たちを脅し、王太子妃の座を盾に社交界を支配した」
宰相子息ユリウス・バルツァーが一歩前に出た。灰色の髪。理知的な目。手には告発状がある。
彼は王太子側の証人として、淡々と罪状を読み上げた。
「加えて、複数の貴公子へ不適切な働きかけを行い、王家の品位を損なった疑いがあります」
大広間がざわめく。
エリザベートはユリウスを見た。ユリウスはその視線を受けても、すぐには目を逸らさなかった。だが、紙を持つ指にわずかな力が入った。
エリザベートは微笑んだ。
「それで、わたくしは悪女ですのね」
アルベルトが言う。
「認めるのか」 「何を?」 「罪をだ」 「罪状が多すぎますわ。どれから認めればよろしいの?」
その声に、大広間のあちこちで息が乱れた。
エリザベートは、ゆっくりとリリアへ顔を向ける。
「リリア様を階段から突き落とそうとした件」
リリアが震える。
「いいえ。あの日、階段で足を滑らせたあなたの手を掴んだのは、わたくしですわ」
リリアは唇を開きかけた。
何も言えなかった。
「ドレスを裂かせた件」
エリザベートは目を細める。
「あれは、あなたの侍女が縫い代を抜いていたのでしょう。安い布を高級品と偽って仕立て、差額を懐に入れていた。わたくし、その侍女を処分するよう勧めましたわね」
リリアの肩が強張る。
「毒入りの菓子」
エリザベートは、つまらなそうに笑った。
「本当に毒を盛るなら、あんな分かりやすい菓子には入れませんわ」
大広間が凍る。
アルベルトが怒鳴る。
「エリザベート!」 「冗談ですわ」
彼女は悪びれもしなかった。
「ただの蜂蜜酒入りの菓子でした。リリア様は酒精に弱い。それを知らずに召し上がって倒れた。それだけです」 「ならば、なぜ止めなかった!」 「止めましたわ」
エリザベートの視線がリリアへ落ちる。
「けれどリリア様は、わたくしが差し出した忠告より、周囲の『大丈夫ですわ』という甘い声を選びました」
リリアの顔が白くなる。
そうだった。
あの日、エリザベートは言った。それはおやめなさい、と。強い口調だった。命令のようだった。だからリリアは反発した。
周囲の令嬢たちは、エリザベート様は意地悪だと囁いた。リリアは菓子を食べた。倒れた。そして、皆がエリザベートを責めた。
その流れは、甘かった。
守られるのは気持ちよかった。
リリアは、その甘さを知っていた。
エリザベートは、今度は王太子を見る。
「殿下へ近づく令嬢を脅した件は、認めます」
大広間がざわつく。
アルベルトが勝ち誇ったように顔を上げた。
「やはり」 「ええ。脅しましたわ」
エリザベートは真っ直ぐに言った。
「殿下に近づき、他国派閥へ情報を流そうとしていた侯爵令嬢。王太子妃候補を装って聖教会へ殿下の私信を渡していた伯爵令嬢。殿下を酔わせて署名を取ろうとした子爵家の娘。皆様に、笑顔で退いていただきました」
アルベルトの表情が歪む。
「それを、私に報告しなかったのか」 「申し上げれば、殿下はご自分で対処できましたの?」
その一言は、刃だった。
アルベルトの顔から血の気が引く。
エリザベートは続ける。
「殿下はお優しい。人を疑うのが苦手。誰かに微笑まれれば、そこに毒があるとはお考えにならない」 「私を愚かだと言うのか」 「いいえ」
エリザベートは静かに言う。
「見ていただけです」
大広間が沈黙した。
その言葉は、不思議なほど重かった。
見ていただけ。
アルベルトは、その言葉を憎んだ。彼女はいつも見ていた。自分が外交文書を読み違えた時。将軍の嫌味に気づかなかった時。王妃の顔色をうかがって言葉を飲んだ時。リリアの涙に逃げた時。
エリザベートは責めなかった。叫ばなかった。ただ、見ていた。
その視線が、アルベルトには耐えられなかった。
「君は、私を見下していた」 「見下してなどおりませんわ」 「嘘だ」 「殿下」
エリザベートは、ほんの少しだけ近づいた。
アルベルトの喉が鳴る。
「わたくしが怖かったのでしょう?」 「違う」 「怖かったのですわ」
彼女の声は柔らかかった。だからこそ、逃げ場がなかった。
「わたくしが美しいから。強いから。殿下の弱さを見ても、見なかったふりをして差し上げなかったから」 「黙れ」 「リリア様は、見てくださらないものね」
リリアが息を呑む。
エリザベートは彼女を見ないまま言った。
「殿下がどれほど未熟でも、お優しい方ですと微笑んでくださる」 「殿下がどれほど逃げても、お疲れなのですねと許してくださる」 「殿下がどれほど愚かでも、責めない」
アルベルトは拳を握った。
「彼女を侮辱するな!」 「侮辱ではありませんわ」
エリザベートは、やっとリリアを見た。
「称賛です」
リリアの瞳が揺れる。
エリザベートは美しかった。恐ろしいほどに。その美しさの前で、自分の白いドレスが急に薄っぺらく感じられた。
「リリア様。あなたは可愛い方ですわ」 「……やめてください」 「泣けば、誰かが守ってくれる。震えれば、誰かが怒ってくれる。俯けば、誰かがあなたの代わりにわたくしを憎んでくれる」
リリアの唇が震える。
泣きたかった。泣けば、アルベルトが庇ってくれる。きっと騎士たちも、貴族たちも、可哀想なリリアを守ろうとする。
けれど、それを今やれば、エリザベートの言葉を認めることになる。
泣けなかった。
エリザベートは微笑む。
「守られることは甘いでしょう?」 「その甘さを、あなたは知っていた」 「知ったうえで、やめなかった」
リリアは何も言えなかった。
アルベルトは前へ出ようとした。
「エリザベート!」 「殿下」
エリザベートの視線が戻る。
その瞬間、アルベルトの足が止まった。
「あなたも同じですわ」 「わたくしが悪女であれば、あなたは被害者になれる」 「わたくしが支配者であれば、あなたは縛られた王太子になれる」 「わたくしが恐ろしければ、リリア様へ逃げたご自分を正当化できる」
彼女は笑った。
「よく出来た舞台ですこと」
大広間の空気が変わった。
最初は、エリザベートを裁くための場所だった。今は違う。
誰もが裁かれていた。
男たちは、自分の欲を。女たちは、自分の嫉妬を。王太子は、自分の臆病を。聖女候補は、自分の甘えを。
見たくないものを、彼女の美貌に照らされていた。
エリザベートはゆっくりと会場を見渡した。
「ところで」
彼女の声に、全員が肩を揺らした。
「わたくしが殿方を惑わせた、という罪状がございましたわね」
ユリウスの指が告発状の上で止まる。
エリザベートは笑う。
「それは、わたくしの罪ですの?」
誰も答えない。
エリザベートは一人の侯爵令息を見た。
青年は青ざめた。かつて彼は、彼女に恋文を送った。返事がないと分かると、友人たちの前で彼女を高慢だと罵った。
エリザベートは次に、騎士団の若い騎士を見た。
騎士は目を逸らした。舞踏会で彼女の手を取った時、曲が終わっても離さなかった男だった。
次に、夫人を連れた伯爵。
伯爵は妻の隣で、エリザベートの唇を見ていた。
エリザベートは、ひとりずつ見た。見られた者たちは、みな焼かれたように俯いた。
「わたくしが笑えば、あなた方が勝手に熱を上げる」 「わたくしが黙れば、冷たい女だと怯える」 「わたくしが歩けば、毒を撒いたと騒ぐ」
彼女は両手を少し広げた。
「では、わたくしは息をするだけで罪人ですのね」
誰も笑わなかった。笑えなかった。
窓際の燭台に、夜蛾が寄る。ふらふらと近づき、火に触れ、翅を焼かれて落ちた。
リリアが小さく悲鳴を上げた。
エリザベートだけが、それを見ていた。
「綺麗な翅ほど、火に近づきたがるものですわ」
そして、会場へ向けて言う。
「あなた方も、そう」
大広間が、ぞくりと震えた。
美しい女がいる。怖い女がいる。悪女がいる。
そう思うたびに、彼らは自分の中の熱を見せつけられる。
エリザベートは、彼らの視線を全部受け取った。
「わたくしを憎むのは、構いませんわ」 「嫉妬するのも、蔑むのも、怖がるのも」 「今夜は全部、いただいて差し上げます」
彼女は、楽しそうに言った。
「そんなに熱いものを向けられて、知らん顔をするのも失礼でしょう?」
令嬢たちが息を呑む。
自分たちの嫉妬を、彼女は恥じていない。責めてもいない。ただ、奪った。
嫉妬される女であることを、罪ではなく飾りのように身につけた。
アルベルトの顔が歪む。
「君は……本当に、恐ろしい女だ」
エリザベートは彼を見た。
「ええ」
彼女は否定しなかった。
「恐ろしいのでしょうね」
一歩。
彼女は近づく。
「でも殿下」 「恐ろしいなら、どうしてまだ見ていらっしゃるの?」
アルベルトは言葉を失う。
見ていた。ずっと見ていた。婚約破棄を宣言した瞬間から、彼はエリザベートから目を逸らせなかった。
怖い。美しい。憎い。欲しい。捨てたい。離したくない。
矛盾した感情が、喉の奥で絡まる。
「わたくしが壊れるところを、見たかったのでしょう?」
エリザベートは言う。
「泣くところを」 「縋るところを」 「殿下のお名前を呼んで、捨てないでと震えるところを」
彼女は笑った。
「残念でしたわね」
アルベルトの唇が震えた。
その時、エリザベートは自分の左手を見た。
王家の婚約指輪。青い宝石が、燭台の光を受けて鈍く光っている。
かつて、それは誇りだった。
幼い頃、アルベルトから渡された時、彼女は確かに嬉しかった。王太子の隣に立つ。王国を支える。そのために生きるのだと信じた。
けれど、いつからか指輪は重くなった。
守護の指輪だと聞かされていた。王家の祝福だと。
しかし実際は違う。
ローゼンヴェルクの娘の魔力を抑える、細い鎖。
愛の証ではない。
所有の印。
エリザベートは、黒い手袋を外した。
白い指が現れる。
それだけで、会場の視線が吸い寄せられる。
彼女は指輪に手をかけた。
アルベルトが眉をひそめる。
「何をしている」 「お返しするのですわ」 「その指輪は王家の守護を」 「拘束の間違いでしょう?」
大広間に、低いざわめきが広がった。
アルベルトの顔色が変わる。
「君は、何を」 「存じておりましたわ」
エリザベートは静かに言った。
「この指輪が、わたくしの魔力を抑えていたこと」 「王家の婚約者としてふさわしく、穏やかで、従順で、扱いやすい女になるように」
リリアが息を呑む。
ユリウスが告発状から顔を上げた。
エリザベートは指輪を引く。
だが抜けない。
青い石が一瞬、冷たく光った。
彼女の指に、細い痛みが走る。
エリザベートは顔を歪めなかった。
もう一度、強く引いた。
皮膚が裂ける。
赤い血が、一滴だけ白い指に滲んだ。
その赤は、ルビーより生々しかった。
大広間が静まり返る。
エリザベートは、自分の血を見た。
そして、笑った。
「ようやく」
彼女は指輪を外した。
「わたくしの血まで、殿下のものではなくなりましたわ」
アルベルトが一歩前へ出た。
自分でも、なぜ動いたのか分からなかった。
指輪を外した彼女の手。血の滲んだ白い指。それを見た瞬間、胸の奥が嫌な音を立てた。
彼女が本当に離れていく。
自分が捨てたはずなのに。
自分が婚約を破棄したはずなのに。
彼女が自由になることまでは、想像していなかった。
「エリザベート、待て」
その声に、彼自身が驚いた。
エリザベートは、ゆっくりと彼を見た。
捨てたくせに、惜しくなった男。縛っていたくせに、それを愛だと思いたかった男。可愛い女へ逃げたくせに、怖い女の血を見た瞬間に戻ってくる男。
エリザベートは、心底うんざりしたように笑った。
「やんなっちゃうわ」
その一言は、大広間の隅まで届いた。
甘くもあり、冷たくもあり、刃のようでもあった。
「捨てると決めた女が、本当に手から零れた途端、そんな顔をなさるのね」
アルベルトは何も言えない。
エリザベートは、血の滲んだ指を少しだけ持ち上げた。
「殿下」 「あなた、案外脆いのね」
アルベルトの顔が歪む。
「私は……」
彼は息を吸った。
言ってはいけない。今さら言うべきではない。リリアが隣にいる。貴族たちが見ている。自分は王太子だ。
けれど、言葉は勝手に喉を上がってきた。
「私は、君を愛していた」
リリアの指が王太子の袖から離れた。
大広間が、凍った。
エリザベートだけが動いた。
一歩。
アルベルトへ近づく。
近すぎる距離。
赤い唇が、彼のすぐそばにある。
キスするのかと、誰もが思った。
リリアも。 ユリウスも。 アルベルト自身も。
彼は動けなかった。
エリザベートの唇は、触れなかった。
触れないまま、囁く。
「いいえ」
その否定は、優しくなかった。
「殿下は、わたくしを愛していたのではありませんわ」
アルベルトの瞳が揺れる。
「わたくしに愛されているご自分が、好きだっただけ」
彼の顔から、血の気が引いた。
エリザベートは逃がさない。
「わたくしを怖がりながら、わたくしを飾りたかった」 「わたくしを縛りながら、わたくしに見惚れていたかった」 「わたくしを悪女と呼びながら、わたくしにだけは捨てられたくなかった」
彼女は、ほんの少しだけ目を細めた。
「醜い方」
その瞬間、王太子の中で何かが壊れた。
叫びではない。涙でもない。膝をついたわけでもない。
ただ、彼の顔から王太子としての威厳が剥がれた。
そこにいたのは、婚約者を断罪した男ではなかった。自分が捨てた女に、今さら欲を暴かれた男だった。
エリザベートは、指輪を床へ落とした。
高い音が、大広間に響いた。
青い石が、赤い絨毯の上で転がる。
誰も拾わなかった。
アルベルトは拾えない。拾えば、未練があると認めることになる。
リリアも拾えない。拾えば、自分が奪ったものの重さを認めることになる。
ユリウスが一歩動きかけた。
だが止まった。
エリザベートは言う。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
そして、会場を見渡した。
「ただし、今夜からわたくしは、殿下のものではありません」 「王家のものでも」 「教会のものでも」 「誰か一人のものでも」
彼女は笑った。
「誰か一人の物になれなんて、やんなっちゃうわ」
大広間が、ぞくりと震えた。
それは宣言だった。
解放ではない。
勝利でもない。
もっと悪いものだった。
所有されることを拒んだ女が、今度は全員の記憶を奪っていく。
アルベルトは息を荒げた。
「ならば、私はリリアを」
「殿下」
小さな声がした。
リリアだった。
彼女は王太子の袖から、完全に手を離していた。
「わたし……今夜、このまま殿下の婚約者にはなれません」
アルベルトは愕然とした。
「リリア?」
リリアの顔は青白い。
けれど、泣いてはいなかった。
泣けなかった。
泣けば、また誰かが守ってしまう。
自分はまた、その甘さに沈んでしまう。
「わたしは、殿下の逃げ場所になりたくありません」
その言葉は震えていた。
けれど、確かに彼女自身の言葉だった。
アルベルトは口を開いた。
何も言えなかった。
エリザベートはリリアを見る。
その目に、優しさはなかった。
「賢明ですわ」
リリアの肩が震える。
「逃げ場にされた女は、いずれ逃げ場ごと捨てられますもの」
リリアは唇を噛んだ。
涙が浮かぶ。
けれど落ちなかった。
エリザベートは彼女を許さない。
慰めない。
抱きしめない。
ただ、焼いた。
可愛い翅を。 白いドレスを。 守られるだけの自分を。
リリアはその場に立ったまま、自分の役が燃えていく音を聞いた。
楽団はまだ沈黙している。
誰も、次に何をすればいいのか分からない。
断罪は終わった。
婚約破棄も成立した。
けれど、勝者が誰なのか、誰も口にできない。
その時、ユリウス・バルツァーが前へ出た。
王太子側で告発状を読み上げた男。冷静で、理性的で、何ものにも惑わされない顔をしていた男。
彼はエリザベートの前で足を止め、深く礼をした。
「一曲、お相手願えますか」
大広間がどよめいた。
アルベルトの顔が歪む。
エリザベートはユリウスを見た。
「ユリウス様」 「はい」 「先ほど、わたくしが多くの殿方を惑わせる悪女だとお読みになりましたわね」 「読みました」 「では、あなたも?」
ユリウスは一瞬だけ沈黙した。
逃げ道はいくらでもあった。社交辞令で濁せばいい。王太子への忠誠を口にすればいい。彼女を恐ろしい女だと断じればいい。
だが、それをすれば、自分もまた今夜焼かれた男たちと同じになる。
ユリウスは、エリザベートの血の滲んだ指を見た。赤い唇を見た。黒いレースを見た。そして、彼女の目を見た。
「ええ」
彼は言った。
「今、惑わされています」
大広間が息を呑む。
エリザベートは、満足そうに笑った。
「正直な殿方は嫌いではありませんわ」
彼女は、ユリウスの手を取った。
その瞬間、楽団の弦が鳴った。
誰が合図したのか、誰にも分からない。
けれど曲は始まった。
宮廷の端正なワルツではなかった。
どこか異国めいた弦の音。
甘く、不穏で、熱を孕んだ旋律。
赤いドレスが揺れる。
黒いレースが舞う。
エリザベートは踊った。
断罪会場だった場所で。
自分を悪女と呼んだ者たちの前で。
自分を捨てた男の前で。
彼女は、一番美しく踊った。
ユリウスの白い手袋に、赤が移る。
エリザベートの指の血だった。
彼はそれを見た。
一瞬、呼吸が止まる。
それでも、手を離さなかった。
エリザベートは笑う。
「血がつきましたわよ」
ユリウスは低く答えた。
「光栄です」
その一言で、アルベルトは完全に負けた。
彼は血を見て惜しくなった。
ユリウスは血がついても手を離さなかった。
その差を、会場中が見た。
エリザベートは踊りながら、アルベルトの前を通った。
赤い裾が、王太子の足元すれすれを流れる。
アルベルトは手を伸ばしかけた。
伸ばせなかった。
彼女はもう、自分のものではない。
初めからそうだったのかもしれない。
ただ自分が、指輪と婚約者という名で、所有したつもりになっていただけだった。
リリアはその光景を見ていた。
胸が痛かった。悔しかった。怖かった。美しかった。
そして初めて、エリザベートを悪女という言葉だけで片づけられなくなった。
令嬢たちも見ていた。
嫉妬しながら。 憧れながら。
自分たちが欲しかったものを、彼女が恐ろしいほど堂々と身につけているのを見ていた。
男たちも見ていた。
彼女を悪女と呼びながら、目を逸らせない。
それをもう、彼女は責めない。
全部、奪っていく。
視線も。 嫉妬も。 欲も。 恐怖も。 後悔も。
曲の途中、ユリウスが低く言った。
「あなたは、本当に誰のものにもならないのですね」
エリザベートは笑った。
「ええ」 「では、あなたを手に入れたい男はどうすれば?」 「火の中へ来ることですわ」 「燃え尽きたら?」 「そこまでです」
ユリウスは、わずかに笑った。
「では、燃え残る努力を」
エリザベートの唇が、楽しげに上がる。
「期待はいたしませんわ」 「構いません」 「でも」
彼女は彼の手を少しだけ強く握る。
「一曲分くらいは、覚えておいて差し上げます」
ユリウスの目が揺れた。
それは褒美ではない。
約束でもない。
恋でもない。
ただ、悪女の記憶に一曲だけ残されるという、ひどく危うい栄誉だった。
曲が終わる。
最後の音が大広間の天井へ消えていく。
エリザベートはユリウスの手を離した。
彼は追わない。
追えば、今夜の王太子と同じになると分かっていた。
エリザベートは会場の中央で、ゆっくりと礼をした。
王太子へではない。
リリアへでもない。
この夜、自分を裁こうとして集まった全員へ。
「皆様、今宵はよい夜でしたわ」
誰も答えない。
エリザベートは続ける。
「わたくしが悪女であることを、こんなにも熱心に証明してくださって」
彼女は会場を見渡した。
「その嫉妬も」 「欲も」 「恐れも」 「後悔も」
赤い唇が、笑みを形づくる。
「全部いただいて帰ります」
誰も止めなかった。
止められなかった。
エリザベートは歩き出す。
深紅の裾が、指輪の横を通り過ぎた。
青い石は床に残されたまま。
それを拾う者は、最後までいなかった。
扉が開く。
夜風が入る。
燭台の火が大きく揺れ、また一匹の夜蛾が光へ近づいた。
エリザベートは振り返らなかった。
大広間に残された者たちは、誰もが彼女の後ろ姿を見ていた。
断罪された令嬢の退場ではなかった。
勝者の退場でも、まだ足りない。
それは、舞台を丸ごと奪った女の退場だった。
王宮の外には、黒塗りの馬車が待っていた。
侍女マリアが扉を開ける。
エリザベートは乗り込んだ。
馬車の中は静かだった。
外の喧騒が遠のく。
王宮の灯りが、窓の向こうで揺れている。
マリアは黙って、エリザベートの手を取った。
「お嬢様。お指を」
血はもう止まりかけていた。
けれど、白い指には赤い線が残っている。
マリアは清潔な布で、それをそっと拭った。
「お痛みになりますか」 「少しは」 「おつらくはございませんか」
エリザベートは窓の外を見た。
王宮の灯りのまわりには、まだ夜蛾が飛んでいる。
「少しは」
マリアの手が止まる。
「では、泣かれますか」
エリザベートは笑った。
「まさか」
その声は、少し疲れていた。
けれど、折れてはいなかった。
「泣くには、あの方たちは退屈すぎましたもの」
マリアは何も言わない。
エリザベートは、自分の指を見た。
血を拭われたあとも、そこには熱が残っている。
指輪の重さはもうない。
空っぽになった指が、軽い。
軽すぎて、少しだけ心もとなかった。
けれど、その心もとなさすら、自由だった。
「ねえ、マリア」 「はい」 「わたくし、今夜ようやく分かりましたわ」 「何をでございますか」
エリザベートは、血の痕が残る指を唇の近くへ持っていった。
触れはしない。
ただ近づける。
身体の内側と外側の境目みたいな赤が、暗い馬車の中でかすかに艶めいた。
「悪女って、案外息がしやすいのね」
マリアは目を伏せた。
「お嬢様は、悪女ではございません」 「いいえ」
エリザベートは静かに言った。
「今夜、わたくしは悪女になりましたわ」 「彼らが望んだ通りに」 「彼らが恐れた通りに」 「彼らが目を逸らせなくなるほど、美しく」
馬車が動き出す。
王宮が遠ざかる。
けれど、あの大広間ではまだ誰も彼女から逃げられない。
王太子は、床に落ちた指輪を見ているだろう。
リリアは、泣けないまま白いドレスを握りしめているだろう。
ユリウスは、手袋についた血を見ているだろう。
貴族たちは、今夜見たものを誰かに話したくて、けれど言葉を選べずにいるだろう。
悪女。
毒薔薇。
美しすぎる女。
恐ろしい令嬢。
どの名で呼んでも、足りない。
エリザベートは窓の外へ視線を向けたまま、唇だけで笑った。
「誰か一人のものになれだなんて」
夜道を、馬車の車輪が進む。
王宮の灯りはもう遠い。
それでも彼女の目の奥には、まだ大広間の火が映っていた。
「本当に、やんなっちゃうわ」
その夜、王太子は婚約者を失った。
聖女候補は自分の白さを失った。
貴族たちは、自分たちの欲と嫉妬を隠す言葉を失った。
そしてエリザベート・ローゼンヴェルクは、悪役令嬢という名の檻を、王冠に変えた。
断罪されたのではない。
赦されたのでもない。
救われたのでもない。
彼女はただ、余りある美貌を抱えて、誰よりも美しく夜を奪った。
その日から王都では、彼女の名を口にする時、誰もがほんの少し声を潜めるようになった。
怖いから。
美しいから。
忘れられないから。
悪役令嬢エリザベート。
断罪の夜に、王国中を恋と嫉妬で焼いた女。
そしてきっと、誰かがまた彼女を所有しようと手を伸ばすたび、彼女は同じように笑うのだ。
やんなっちゃうわ、と。
曲名を濁して入れるなら、あとがきはこうです。
お読みいただきありがとうございます。
今回は、断罪される悪役令嬢が泣いて許される話ではなく、悪女と呼ばれたなら、その名ごと一番美しく奪っていく話にしました。
実は、とある楽曲の空気感をかなり意識しています。
美しさ、怖さ、嫉妬、視線、熱、そして「全部わたしのもの」と言い切るような女の強さ。
エリザベートは無実を証明して可哀想な令嬢になるのではなく、向けられた嫉妬も、欲も、恐れも、全部自分の飾りに変えて退場していく女です。
「悪女」と呼ばれることが檻になるのなら、その檻を王冠に変えてしまえばいい。
そんな令嬢が書きたくて、この話になりました。
少しでも「怖い」「美しい」「忘れられない」と思っていただけたなら嬉しいです。




